第108話~懐かしい香り~
多綺響音の香りは何故か胸に違和感を与えてきた。何とも言い表せないような不思議な気持ちになる。
何故なのか。
この女が言っているように、自分は生まれる前にこの者達と共に行動していたのだろうか。だとしたら、何故その記憶がないのだろうか。
頭は混乱していた。ただ多綺響音から薫るとても懐かしい香りが、参の方天戟での攻撃を躊躇わせた。
多綺響音。この女と自分は一体……
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「うひゃ〜、また負けた〜。しかも瞬殺」
柊舞冬は燦々と照り付ける真夏の太陽の下、学園の仕合場で方天戟を握ったまま大の字に倒れていた。
「これであたしの36戦36勝目。いい加減諦めてくれない? こっちも暇じゃないのよ」
多綺響音は不服そうな顔をしながら舞冬を睨み付けた。
響音は半年前、浪臥村での青幻襲撃事件の際に妹のように大切にしていた榊樹月希とその愛刀「黄龍心機」と愛馬「月華」、そして自らの右腕を奪われ失意のドン底に突き落とされていた。さらに追い打ちを掛けるかのように、利き腕を失った響音の序列5位の座を、親友だった筈の序列8位の畦地まりかに序列仕合よって奪われ、かつての優しさに満ち溢れていた響音からは想像も出来ない程廃人になってしまっていた。
その事件までの八重歯をチラリと覗かせる愛らしい笑顔は消え失せ、生気のない瞳が舞冬をチラリと見ると、またあてどなく空を見上げた。
もう今の響音には、寮の同室の四百苅奈南か響音の事を今も慕い続けている茜リリアくらいしか近付く者はいない。
「私は今まで響音さん以外には負けた事がないんです! 序列1位になる為には順当に1人ずつ仕合で倒していって勝ち上がるしかないんです! 序列9位の上は序列8位の響音さんなんです! だから」
「それ何回も聞いた。あたしなんか飛ばして序列7位の斑鳩でも倒したら?」
響音は空を眺めながら面倒くさそうに言った。
「私もそれ何回も聞きました! でも響音さんを倒せないとこの学園で1番強い事にはならないじゃないですかー」
舞冬は起き上がり、胡座をかくと、膝をパシパシと叩いて訴えた。
「強くなる事に何の意味があるの? あんたは大切な人を守る為に強くなるって言ってたわね。強くなったって大切な人は守れないわよ。上には上がいる。いくら頑張っても無駄。あんたはこのあたしに勝てない時点でそれ以上強くなれない。お願いだからもう諦めて」
「えー……」
響音にとって舞冬に仕合を挑まれる事が嬉しくない事だというのは知っていた。毎回怠そうに仕合場に現れては神技・神速で5秒としないうちに決着を付けてさっさと帰る。立ち会ってくれる師範もいつしか交代制で毎日違う師範が来るが、やはり師範も仕合が終わるとすぐに帰って行く。
響音と今みたいに仕合の後に長話をしたのは初めてだった。しかし、それも、舞冬にこれ以上仕合を挑んでくるなと言う為の長話だ。本当にウンザリしているのだろう。
ただ、響音は舞冬の申し込みをこれまで一度も断った事はない。何故断らないのか。嫌なら断ればいいだけの話だ。断られたら舞冬だって無理に挑んだりしない。
舞冬は立ち上がった。
「残念だけど、仕合はこれからも挑みますよ! それより、汗かいちゃいましたねー、良かったら一緒に」
舞冬が響音に近寄ろうとすると、響音は舌打ちを残し、一瞬でそこから消えてしまった。
それからも舞冬は響音に序列仕合を挑み続けた。もちろん一度も勝つ事は出来なかったが、やはり響音は一度も舞冬の仕合を断らなかった。
72仕合目が終わった辺りから響音の様子がおかしくなっていた。
いつになく苛立っていてその頃から舞冬は怪我をするようになった。怪我をするようになって気付いたが、どうやら今まではかなり手加減して仕合をしてくれていたようだ。
80仕合目が終わった冬の日の夜、舞冬は序列7位の斑鳩爽の部屋を訪れた。
「斑鳩さーん! 舞冬だよー! へへ、来ちゃった!」
斑鳩は笑顔で舞冬を出迎えてくれた。しかし、舞冬の身体中の絆創膏や湿布を見た斑鳩は顔色を変えた。
「お前、最近怪我が多いな」
「うん、その事でちょっと聞きたいんですけど」
舞冬が玄関先で話し始めようとすると斑鳩は舞冬を部屋へと招き入れてくれた。
舞冬は斑鳩のベッドの上に飛び込んで寝転がった。斑鳩の枕を抱き締めるとその香りを堪能した。女の香りが堪らなく好きだったが、男の香りも舞冬にとってはご馳走様だった。
「お前さ、一応俺の方が序列も年齢も上だからな? いきなり人の部屋でそんな行儀の悪い」
「ふふふー、良いではないか、爽君よ。私と君はこの部屋の中ではそのような堅苦しい関係ではあるまい。ほら、今日は冷えるから一緒に暖まろう」
舞冬は枕を抱き締めながら斑鳩に右手を伸ばした。
斑鳩は顔を赤くして照れている。
「それより、聴きたいことってなんだよ」
斑鳩は台所で何か飲み物を用意しながら言った。
「あー、そうそう。響音さんさー、最近変じゃない? 何かあったのかな?」
「あの人は前から変だろ。榊樹が死んだ時からさ。何だよ今更」
「いやいや、最近さらにおかしくなっちゃったよ。私に仕合で怪我までさせるようになったし」
舞冬は頬の絆創膏を指さして言った。
「それは本気でお前に仕合をやめさせたいからじゃないのか?」
「えー、だったら断ればいいのに。多分別の原因があるんだと思う」
舞冬が言うと、斑鳩は持っていたヤカンをカセットコンロに置き火を点けた。
「あー、そういや、新しく体特に入って来た女が序列11位に割り込んでたな。もしかして、それでイライラしてんじゃないか? 榊樹と同じ序列だし」
「あー、響音さんにとって序列11位は思い入れのある序列だもんねー。それかー。え……だとしたらさ、その新しく入って来た子、大丈夫かな? 響音さん、ヤケを起こしてその子の事虐めちゃったり……」
舞冬は一抹の不安を感じた。
斑鳩は舞冬の顔を見た。
「考え過ぎたろ。舞冬。いくら響音さんがイラついてるからってそんな事はしないだろ」
「うん、そうだといいんだけど」
斑鳩はそう言ったが、舞冬は響音の事が心配だった。放っておいたらその新入りの子に手を出すのではないか。今の響音の心の機微は毎日のように会っている舞冬にはよく分かる。
舞冬がしばらく黙ってベッドで考えていると斑鳩は温かいココアを煎れて持って来てくれた。
「わあ! ありがとう! 爽君!」
舞冬は満面の笑みと共に起き上がるとフーフーと冷ましながら甘いココアを口へと流し込んだ。
斑鳩は自分のカップを持って舞冬の前に座った。
「俺はお前が元気でいてくれればそれでいいよ。お前は頑張り過ぎてるから心配だ」
そう言い、斑鳩もココアを口に運んだ。
「ふふ、ありがとう! じゃあ私はクタクタなのでおやすみなさーい」
舞冬はココアを飲み終えると、斑鳩の枕に顔を埋め、毛布の中に潜り込んだ。
「お、おい、ここで寝るな! もう帰れよ。誰かに見つかったらどうするんだ」
「ふふふー、爽君赤くなっちゃってかーわーいー!」
いつからか一緒にいる事が多くなった斑鳩は舞冬がもっとも信頼している男だ。しかしながら、舞冬と斑鳩の響音への認識は少し違っていた。
翌日から舞冬は響音をよく観察した。
するとやはり、新入りの澄川カンナに対し憎悪の視線を向けているのが分かった。
舞冬は響音がカンナへ接触しようとするとすぐに響音に話し掛けた。
「やあやあ響音さん! こんなところで奇遇ですねー! 何してたんですー? 良かったら一緒にご飯でも」
「またあんたなの? 何なの? あんたあたしのストーカーなの? ほんと鬱陶しいんだけど」
「ストーカー? ではないですよ! そんな事より、また序列仕合お願いしますね! いつも通り総帥の部屋の表に予定書き込んどいたので! 今回は100回目まで予定書き込んでおきました!」
本来序列仕合は挑戦者が仕合の申込状兼誓約書を書き、それに相手が同意の署名と拇印を押す事で成立する。しかし、舞冬と響音の序列仕合は特例が出され、日付の記載された表に舞冬が仕合をしたい日に署名し、その署名の横に響音が連署する事で成立するような簡易な手続きになっていた。今までの表の舞冬の署名の横には空白なく響音の署名が並んでいる。
「もういい加減にしてくれない?」
いつもとは違う声色で響音は言った。
「え?」
今までにないただならぬ雰囲気に舞冬は首を傾げた。
「この際だからはっきり言うわ。もうあんたの遊びに付き合っている暇はない。ウンザリなのよ。いつまで経っても何の成長も見られないあんたと闘うのはさ。センスないわよ。あんたの実力は序列9位止まり。序列1位なんて死んでも無理。それなのに馬鹿みたいに毎日毎日人の迷惑も考えずに仕合を入れてきて。あんたはあたしに負ける事が楽しいのかもしれないけど、あたしの気持ちを考えた事あるの? 大迷惑。本当に時間の無駄。あんたが今書き込んでる仕合だけは仕方ないから受けてあげる。でも、それ以上は書かないで」
響音は憎悪に燃えた瞳で舞冬を睨んだ。そして舞冬の前から立ち去ろうと歩き出した。
「ごめんなさい」
舞冬の謝罪に響音は背を向けたまま足を止めた。
「響音さんがそこまで迷惑に思ってたのなら謝ります。でも、私は今まで一度も遊び感覚で仕合をした事はないですよ。負けるのが楽しいなんて事もありません。私は毎日悔しいです。いつまで経っても成長しない自分が情ない。だから私は毎日のように響音さんに挑戦し続けているんです。私の憧れる響音さんを超える為に」
舞冬の真剣な話に響音は少したじろぐような仕草をした。
「あたしは、あんたが憧れるような人間じゃない。あたしは弱い人間。大切な人も守れず、仇を取ろうともせず、ただこの学園に存在しているだけのクズ」
「響音さんは弱くないです。クズなんかじゃないです」
舞冬が言うと、響音は鬼の様な形相で振り返った。
「とにかく! これ以上新たな仕合は書き込むな! もし書き込んだらその仕合であんたを殺す」
響音はそれだけ言うとその場から消えるように立ち去った。
それからまた毎日のように舞冬は響音との序列仕合をこなしていった。もちろん毎回負けるし、身体中アザだらけになっていった。
そんな姿に斑鳩は心を痛めてくれた。響音にこだわる必要はないと言われたが舞冬は聞く耳を持たなかった。
日々の仕合の中で舞冬は響音の不安や憎しみ、怒りなどを感じ取っていた。それは微かな匂いにも変化が現れていて、特別鼻の利く舞冬はその変化がだんだん顕著になっていく事に不安を感じた。
この頃になるともう生徒達は誰1人として観戦には来なくなっていた。
そこにいるのは、立ち会いの師範が1人と、舞冬と響音だけ。
仕合はいつも5秒で終わった。
そして、ついに、100回目。最後の序列仕合を迎えた。
響音はいつもと変わらない表情で舞冬を見ていた。
観客はいない。
いつもと同じ。しかし、響音との最後の仕合。
「これで終わり。約束したからね。舞冬」
「今日で響音さんを倒しますよ」
舞冬は自分で言いながら、それが不可能だという事は分かっていた。100回の仕合の中で響音に触れた事すら一度もないのだ。
師範が開始の合図をした。
響音が柳葉刀を抜く。
次の瞬間には刀の峰が舞冬の背後に迫る。
だが、100回目のこの時、偶然かもしれないが、舞冬の振り回した方天戟が響音の柳葉刀の刃を防いだ。
響音はもちろん、舞冬自身も驚いた。
しかし、舞冬が2撃目に備えようとした時、鳩尾を柳葉刀が通り抜けていた。
また、負けた。100回目、最後の仕合でも勝てなかった。
冷たい地面に倒れた。
薄れゆく意識の中で響音が柳葉刀を鞘に戻し、いつものように背を向けて去って行く姿がぼんやりと見えた。
100回目の仕合を終えた翌日。
雪が降っていた。
舞冬は1人放課後の槍特寮の裏手の林で方天戟を振り稽古に励んでいた。
そこへ突然響音が眉間に皺を寄せ、物凄い怒りを顕にして舞冬の前に現れた。
「どういうつもりよ、舞冬! あたし言ったわよね? これ以上仕合の予定を書き込むなって!」
響音は舞冬の胸ぐらを掴み睨みを利かせた。
「言われました。でも、響音さんは『仕合の予定を書き込んだらその仕合で殺す』とも言ってましたよね。受けないとは言ってません。だから書きました」
「ふざけるな!! あんた、あたしを舐めてるの!? あたしにはやるべき事があるの!! それを邪魔するなら、今、ここで殺すわよ!!」
響音は舞冬の胸ぐらを掴みながら怒号を上げた。
「やるべき事ってなんですか? 教えてください。響音さん」
舞冬は響音の怒りに対しても冷静だった。
「あんたには……関係ない」
「私と響音さんは100回も序列仕合を闘った仲じゃないですか! 何かあるなら、少しくらい話してくださいよ!」
「あんたが無理矢理仕合を吹っかけて来たんだろうが!! 勘違いするなよ、あたしとあんたは友達じゃない!!」
「でも、一度も仕合を断らなかった」
響音は舞冬を突き飛ばすと舌打ちをして神速でその場から消えた。
突然静寂に包まれた林の中は、雪だけが音もなく降り続けていた。
舞冬はその様子をただ黙って眺めていた。
翌日。
101回目の仕合。今日も雪が降っている。
響音は既に仕合場にいた。
師範も1人、いつものように立ち会ってくれている。
舞冬は方天戟の石突きを地面に置いた。
「分かってるわね。舞冬。死んでも恨まないでね」
響音は憎悪に満ちた目で冷たく言うと柳葉刀を抜いた。
「もちろんです。お願いします」
舞冬も方天戟を構えた。
響音の憎悪は今間違いなく舞冬に向いている。
師範の開始の合図。
響音が消える。
舞冬が方天戟を振る。
一振り。
しかし、その一振りの間に、舞冬の膝裏、鳩尾、首裏に痛みを感じた。
舞冬は崩れるように倒れ、あっという間に意識を失った。
そして、さらにその翌日。この日も雪だった。
舞冬は死んでいなかった。
殺すと言っていたのに響音は舞冬を殺さず、気を失わせただけだった。
だから今日も仕合を入れている。この仕合にも響音はちゃんと署名してくれていた。
ただ、この日は朝から授業を受けていたが、何だか具合いが良くなかった。熱があり身体が怠い。
今まで一度も体調不良で仕合を見送った事はない。
具合いの悪そうな舞冬を見た槍特の仲間達や斑鳩は心配してくれたが、休む程でもないので放課後仕合場に向かった。
いつものように響音は先に仕合場の金網の中で待っていた。
生徒達も皆寮へ帰宅した夕暮れである。と言っても鈍色の分厚い雲が空を覆い雪を降らせているので夕日は見えない。
「響音さん、どうして私を殺さなかったんですか? 殺してしまえばあなたのやるべき事がこれからは自由に出来るのに」
舞冬が尋ねると響音は鼻で笑った。
「あたしがトドメを指す前に、あんたが気を失っちゃったのよ。あんた日に日に弱くなってない? 大丈夫?」
「そんな事言ってー、本当は私との仕合が終わってしまうのが寂しくなっちゃったんじゃないですか?」
舞冬はニヤニヤとしながら言った。
「黙りなさい。今日こそ本当の最後。一撃であんたの首筋から鮮血を噴き出させてやるわ」
舞冬と響音は睨み合い構えた。
102回目の師範の開始の合図。
いつも通り響音は柳葉刀を抜き目の前から消えた。
いつもより方天戟が重い。
「……っあ……」
突然、舞冬は頭がクラクラとして、そのままフラフラ前に両膝を突き前のめりに倒れた。まだ攻撃は受けていないのに……。
しかし、倒れた先は冷たい地面ではなく誰かの温かい胸。
響音? そうだ、これは響音の匂い。
そのまま何が起きたのか分からず、舞冬の意識は真っ暗な闇へと消えていった。
何だろ。また負けたのか。
ただ響音の自分を呼ぶ声だけがずっと聴こえていた気がした。
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目の前にいる女は表情こそ違うが、あの時と同じ顔、同じ声で自分を呼んでいる。
何だろう。ある筈のない記憶が甦ってくる……。いや、この記憶は紛れもなく自分の昔の記憶。
「響音……さん」
参が呼び掛けると、多綺響音は満足そうに微笑んだ。
「舞冬、あたし、あなたに伝えなくちゃいけない事があるの」
参の目からは涙が零れ、響音の頬に落ちた。




