第105話~神技の弱点~
鳳天山の鳳天仙人の小屋に辿り着いた日の翌朝。
響音とまりかは外に出て朝靄の中刀を交えていた。
傍では馬香蘭がしゃがんで2人の手合わせを楽しそうに眺めている。
馬香蘭の後ろの方で鳳天仙人は鍬を振っていた。
響音もまりかもお互い神技は使わず、己の剣術のみで闘っている。こうしてまりかと刀を交えたのは響音がまりかに序列5位を奪われた5年前の序列仕合の時以来である。
それ以前は授業でよく刃を交えた。あの頃は月希もいて3人で剣術の稽古をしていたのだ。
「響音ちゃーん! 頑張ってー!!」
馬香蘭の声援は響音だけに向けられた。馬香蘭が敵だった時から何故だか異様に気に入られたようだ。
不意にまりかの動きに隙が出来たので思い切り蹴り飛ばしてやった。思い切りと言っても、響音の脚力は本気を出したら人を殺せるものなのでもちろん加減した。
まりかは地面に尻餅をついて馬香蘭をキッと睨み付けた。
「ちょっと蘭! なーんで響音さんだけ応援してんのよ? 不公平じゃない! 片方だけ応援するなら黙って見てなさいよこの馬鹿!」
「べーだ! 私はまりかちゃんの事好きじゃないから応援しないよーだ! て言うか、別に私が響音ちゃん応援したっていいじゃん! ばーか!」
「言ったわね! この変態悪趣味拷問オタク!! あんた見てると舞冬思い出して妙な気持ちになるわ! ちょっとぶっ飛ばしてやる!」
まりかは2本の刀を鞘に戻すとしゃがんでいた馬香蘭のもとへ走って行き取っ組み合いの喧嘩を始めた。
響音はそれを見ながら刀を鞘に戻した。
「仙人、お風呂をお借りしたいのですが」
響音は畑を耕している鳳天仙人のもとへ行き額の汗を拭いながら言った。
すると仙人は川の方を指さした。
「風呂はない。儂は毎日沐浴をしている。お前達も川で身を清めるといい」
響音は仙人の指をさしている川を見ながらしばし言葉を失った。
昨日、トイレは畑の真ん中に掘られた穴を使えと言われたのでもしやと思ったが案の定風呂もないときた。
仙人の話が聴こえていたのか、まりかと馬香蘭は地面の上で絡み合ったまま声を上げた。
「嘘でしょ!? こんな美少女に川で身体洗えって!? 何時代よ!! カンナちゃんじゃないんだから!!」
まりかは立ち上がり文句を言うと、続けて馬香蘭も物凄い嫌悪の表情をしながら立ち上がり畑の真ん中の穴の方を指さした。
「おトイレもあんなクッサイ穴だしねー」
「仕方ないじゃろ。こんな山奥に水道など通っておらん。それよりも糞尿は貴重な肥料になる。肥やしを作るにはちょうど良いのじゃ。遠慮せず使ってくれよ」
まりかと馬香蘭は不服そうに頭を抱え溜息をついた。だが無理もない事である。4千年もこんな山奥で生きてる仙人が現代の生活をしていないのは当然の事かもしれない。響音は諦めて1人川の方へ向かった。
「もぉーー!! これじゃあこの山道を歩いて来た時と変わらないじゃーん! 響音さーん、待ってくださいよー!」
まりかは文句を言いながらも、先に川の方へ歩いて行った響音の後を追った。
「あーあ、温かいお風呂が良かったなー。おトイレも水洗が良かったなー。雨降ったらどうすんだかー」
馬香蘭は嫌味ったらしく言い残し、響音とまりかのもとへ走った。
響音は川縁に着くと柳葉刀を置き、迷わず着物を脱ぎ始めた。片手だと着物の着脱は実に煩わしい。だが、片腕になって5年、さすがにコツは掴んでおり今となってはさほど苦労しない。髪を結っているゴムもそうだ。
しかし、響音が着物を脱ごうとすると、突然背後から誰かが帯を外してくれた。
「響音さん、手伝いますよ。もう1人じゃないんだから、私を頼ってくださいよね」
まりかは背後から笑顔を見せて言った。
「そうね。ありがとう。それじゃあ、髪留めもお願い出来る?」
響音が頼むとまりかは元気よく答え、着物を脱がし終わると響音のポニーテールのヘアゴムを外してくれた。そしてまりかは自分の手首に響音のヘアゴムをはめると、丁寧に着物を畳んでくれた。
響音は下着を自分で脱ぐとまりかが畳んでくれた着物の上に置き、ゆっくりと川に入って行った。腰程の深さのとても澄んだ綺麗な水が穏やかに流れている。
まりかも自分で服を脱ぐと丁寧に畳んで響音の着物の隣に並べて置いた。2本の刀も傍に置いた。
「まったく、こんな大自然の真ん中で私の貴重な裸体を晒す日が来るなんて」
まりかが呟くと、畳んだ服の横に馬香蘭の服と下着が適当に放り投げられた。
「逆に考えると誰もいないんだから覗かれる心配もないって事じゃーん! 大自然バンザーイ!!」
馬香蘭は全裸で大はしゃぎしながら川にバシャバシャと入って行った。
「何なのよあの子! 自分の服ぐらい自分で畳みなさいよね、まったく! 服隠してやろうかしら」
水をバシャバシャと響音に掛けて楽しそうに遊んでいる馬香蘭を睨み付けながらまりかがまた呟いていたが、響音と馬香蘭の楽しそうな様子を見ると、手際良く馬香蘭の脱ぎ捨てた服を畳み、急いで川に入って来た。
「ばかー蘭! 響音さんに馴れ馴れし過ぎ! ほんと首輪付けるよ!」
まりかは響音の前に立ち馬香蘭を遮った。
「ばかー蘭ですって!? ムカつく!! 倒れたまりかちゃんを運んであげたの誰だと思ってるのよ!! ぷんぷん!!」
「はぁ!? 別にあんたに運んでって頼んでないわよ!!」
「言ったなー!!」
馬香蘭はまりかに掴み掛かると川の中だというのにまたしても絡み合い組んず解れつしていた。
「まったく、あんた達は。少しは仲良くしなさいよ」
響音の話ももちろん聞いていない2人を放っておく事にし、響音は川の水で身体を洗い始めた。
響音は先に川岸に上がって、まりかが畳んでくれた着物の横に座り、身体を乾かしながら未だに喧嘩を続けているまりかと馬香蘭を眺めていた。
いつの間にか2人はどちらも笑顔で楽しそうにはしゃいでいる。
ふと、背後に気配を感じた。
「タオルじゃ。使うといい」
振り向くと仙人が3人分のくたびれた白いタオルを差し出した。
「あら、ありがとうございます。でも仙人、裸の女に声も掛けずに近付いてくるのはマナー違反ですよ? あたしは別に気にしませんけど」
響音はタオルを受け取ると仙人に背を向けたまま身体を拭いた。
学園に入学する以前、響音は男に身体を売って金を稼いでいた。その為、男に身体を見られるのには慣れていて、仙人に身体を見られても特に羞恥心はなかった。そもそも仙人の視線も好奇なものではない。
「右腕。昨日から気にはなっていたが、やはり隻腕だったのだな。それにお前だけ馬を連れずにここに辿り着いた。こんな山奥に、片腕で徒歩で来るとは只者ではない。そうだな、察するに移動系の神技を持っているのかの。神速……と言ったところか」
仙人の推理を聞いて響音は身体を拭く手を止めた。そして、ゆっくりと仙人の顔見た。
仙人は無表情だ。響音は仙人のほとんど閉じている瞼の奥の瞳を見た。その瞳は凄まじい光を秘めており、響音の知っている男と似ていた。
————割天風。かつて学園の総帥だった武芸十八般に通じる武術の達人。鳳天仙人は、武術は出来ないと言っていたが、それ以上の別の凄みを感じた。万物を知り尽くす男。それはもはや人間の雰囲気ではない。この男の目を見ていると呼吸をする事さえ忘れてしまう程だ。
どれくらい仙人の瞳に魅入っていただろう。響音の髪からは水滴がまるで時を刻むかのように滴り続けていた。
「図星か」
仙人がそう言ってニコリと微笑んだ時、川の方から騒がしい声が聴こえてようやく響音は我に返った。
「響音ちゃーん! 水中戦でまりかちゃんに勝ったよ〜!! これで3人の序列は響音ちゃん、私、まりかちゃんという事になりましたー!! ……あ」
馬香蘭はまりかをヘッドロックしながら川から上がると仙人の存在に気付き固まった。
まりかは馬香蘭のヘッドロックを外すと響音の背後の仙人を見て叫びながら身体を隠した。
「長居し過ぎたようじゃな。さ、朝食の準備が出来ておる。着替えたら小屋に戻りなさい」
仙人はそう言い残し先に小屋へ戻って行った。
「あんた達、タオル貸してもらったから早く拭いちゃいなさい。風邪引くわよ」
響音は2人分のタオルをまりかと馬香蘭に投げた。
「あのエロ仙人! 私の裸をタダで見るなんて! 後できっちり請求してやろ」
「まりかちゃんそんなくだらない事言ってんの? ちっさ。てか、あの仙人がお金持ってるわけないじゃーん」
タオルを受け取った馬香蘭は笑いながらまりかの肩をペシペシと叩いた。
「あーもう! 響音さん! やっぱりコイツ殺していいですか!? 」
まりかと馬香蘭はまたお互いを叩き始めたので一足先に着替え終わった響音は裸の2人の頭に1発ずつ拳骨を入れた。
昨日と同じ狭い部屋の中で4人は食事をとった。
朝食は田畑で採れた米と野菜、そして川で捕れた魚の塩焼きという質素なものだったが新鮮な野菜が使われているでとても美味しい。
食器類は昨日とは見違える程に綺麗になっていた。あの後、耐えかねたまりかが自分で川の水を使い食器類を全て洗ったらしい。響音はまりかのそういう女子力の高いところが好きだった。
「あーお腹いっぱい、美味しかったです。ご馳走様でした」
まりかが箸を置くと、仙人はまりかを近くに呼んだ。
まりかはちゃぶ台を回って仙人の前で正座した。
その間も響音と馬香蘭は3杯目の米をお代わりして食べ続けている。
仙人はまりかの両眼を凝視すると、下瞼を引っ張り、上瞼を引っ張り何やら診察を始めた。
まりかはされるがままに大人しく仙人の診察を受けていた。
「あ、あの、いきなり何なんですか?」
「うむ、少し充血しとるな。目の痛みはあるか?」
「いえ、痛みは今はないです。でも、神眼を酷使した直後は目が痛くなって頭が痛くなって気持ち悪くなって苦しくなって意識を失います」
まりかが答えると、仙人は頷いた。
「神技の人体への影響について知りたいと言っておったな」
仙人が突然本題に入ったので響音は食べるのをやめた。馬香蘭だけはもぐもぐバリバリと食事を続けている。
「結論から言うと。神技の使い過ぎは使用者の寿命を縮める。それは、人の身体が神の力を使うのに適していないからじゃ。神技の弱点と言えるな」
「うわ……やっぱりそうなんだ」
まりかは苦い顔をして言った。
「長時間……というのがどのくらいの時間なのかは個人差や神技にも寄るが、少なくとも、畦地まりかの神眼に関して言えば1時間以上の連続使用で先程自身が言ったような副作用が現れるだろう。もちろん、その副作用が現れずとも身体への負担は大きい故、寿命を縮める事になる。死にたくなかったら神技はここぞという時だけしか使ってはならない」
「やはり神技には制限があるという事ですか」
響音が言うと仙人は頷いた。
「そうは言ってもなぁ、今までこの力があるのが普通の生活を送って来たし……それに、これからは敵と戦う事も増えるのに……今更使うなって言われても」
「畦地まりかよ。目に見えるダメージが現れたという事はかなり危険な状態なんじゃぞ。若くして症状が出てしまうというのは尚悪い。このまま使い続ければまずはお前の両眼は光を失う。そして、長くても5年以内には死ぬ」
突然の死の宣告に、響音もまりかも言葉を失った。馬香蘭でさえ咀嚼を止め目を見開いていた。
「嘘……そんな、5年?? 嫌よ、私……死にたくない! 仙人、どうすればいいの!?」
まりかは仙人の肩を揺すった。こんな悲愴な表情のまりかは初めて見た。馬香蘭はいつの間にか箸を置いて心配そうな表情でまりかを見ている。
「だから言うておろう。神眼は使うな。どうしても使わなければいけない場合でも1時間以上、いや、1日10分以上は使わん事じゃ。もし、倒れた場合、現代の医療では治せん。自然治癒しか回復する方法はない。最悪、そのまま目覚めず死ぬ事もあるじゃろう」
まりかは手で顔を覆って俯いた。
無理もない。まだ20代の女が5年の寿命を宣告されたのだ。響音はまりかの隣に寄り添い、そっと肩を抱いてやった。
「そんなの酷いじゃん! 死ぬから神眼は使うなって! 仙人じゃなくても言えるよそんな事! 助ける方法を教えるのが仙人でしょ!!」
突然、馬香蘭が立ち上がり仙人を怒鳴りつけた。
「蘭やめなさい!」
響音は馬香蘭を諌めた。しかし、馬香蘭は歯を剥き出しにして怒りを露わにしている。
「これは天罰ね。私、学園で酷い事して来たから……。本当は2年前に死んでたのに、こうして響音さんや蘭と楽しく毎日を過ごしてた……。なるほど、神様は私を許さなかったって事なのね」
「違うよ!! 違う違う!! 私だってたくさん悪い事して来た!! まりかちゃんだけに天罰なんて不公平だ!! 仙人! 神技でまりかちゃんを治して! さもないと」
馬香蘭が拳を握って仙人に突き出したので響音は馬香蘭の拳を左手で受け、そのまま片手で玄関の方へ投げ飛ばした。
「落ち着きなさい! 蘭! 仙人に怒りを向けたところで何も意味はないわ!」
「響音ちゃん……酷いよ! 私はまりかちゃんの為に……もう知らない!!」
馬香蘭は泣きながら小屋を飛び出して行ってしまった。
「ごめんなさい、仙人。あの子……」
「いや、儂の言い方が悪かったな。お前達に神技を酷使して死んで欲しくない一心で、つい大袈裟に言ってしまったところはある。畦地まりかよ、神眼の1日の使用上限を守れば人並みに生きはる事は十分可能じゃ」
仙人はまりかの肩に手を置き、まりかの瞳を見詰めた。
「分かりました。仙人。ありがとうございます。神技もこれからは慎重に使います」
まりかは真剣な眼差しで仙人に礼を言った。
「うむ。神技は持ち主が死ねば次に生まれる何処かの誰かへと受け継がれる。神眼も神速も、悪しき者の手に渡るよりはお前達が長く持っていた方が良いと儂は思う。身体を大切にな」
仙人の優しい言葉に響音もまりかも頷いた。
「ありがとうございます。仙人。一先ずあたし達は馬香蘭を捜してきます」
響音も礼を言うと、仙人は黙ってうなずいた。
そして、飛び出して行った馬香蘭をまりかと共に捜しに向かった。
小屋から離れた森の中。
馬香蘭は膝を抱えながら涙を拭っていた。
近くには小さな滝が幾つもあった。
「まりかちゃん……可哀想……私は心配だっただけなのに……響音ちゃん……酷いよ」
森の中は小鳥の囀りが聴こえ、馬香蘭の熱くなっていた気持ちを少しずつ癒していった。
神技は使い過ぎると死ぬのか。
自分自身にももしかしたら死は着実に迫っているのかもしれない。
そんな恐怖が頭を過ぎった時、気配を感じた。
馬香蘭は咄嗟に立ち上がり身構えた。
響音やまりかの気配ではない。
「やっと見付けた。元蒼国中位幹部、馬香蘭」
女の声だった。
声の主は見た事もない目と鼻を覆う黒い仮面と背中に靡く黒いマント、手には大きな方天戟を持ち漆黒の馬に跨って馬香蘭を見ていた。
「よし、3人一緒じゃないようだな。ちょうどいい。まずはその女を生け捕りだ。そいつは消えるからな、気を付けろよ」
女の隣の白衣の若い男が言った。
白衣の男は大した事はなさそうだが、黒い仮面の女は今まで感じた事のないような殺気を放っていた。
馬香蘭は拳を握り締めた。