第100話~驚愕の2人目~
暗い水面に真っ赤な月が映り込み、ゆらゆらと揺れていた。
東の港に設置されている桟橋の横のデッキで和流馮景と水無瀬蒼衣は武器を持って辺りを警戒している。
港を照らす灯台代わりのデッキに掛けられたランタンが辺りを照らしている。
見渡す限り、不審な人や船はない。
和流が場所を変えようと歩き出すと、蒼衣がこちらを見た。
「和流さん、どこ行くんですか?」
「ああ、ここは怪しいものはなさそうだからもう少し向こうの方を見て来るよ。水無瀬さんはここにいて」
しかし、和流の指示に蒼衣は返事をせずにこちらに近付いて来た。
「な、何?」
「向こうはいいですよー、自警団が見てますって。それより、私と一緒にいてくれませんか?」
蒼衣は和流の目の前に立つと、和流の胸に両手を当ててこちらを見詰めてきた。
「み、水無瀬さん? どうしたの?」
突然の事に和流は戸惑いを隠せず蒼衣の視線から目を逸らした。
「今日は澄川さんと楽しめましたか?」
蒼衣は微笑みながら質問してきた。
「あ、ああ、楽しかったよ」
「それは良かったです。あーあ、澄川さん、和流さんと付き合えばいいのに。絶対お似合いだと思うんですよね」
「え! マジでそう思う?」
「はい。だって、和流さんも澄川さんも2人で話してる時本当に楽しそうでしたよ? 男女であんな風に話せるなんて羨ましいです。ってか、もうカップルみたい」
そう言いながら蒼衣は蒼衣の左手首にしている腕時計を確認した。
「和流さん、でも今日はこんな事になっちゃって残念ですね。もし、何事もなければ今夜澄川さんと一晩過ごせたかもしれないのに」
「いやー、それはどうかな? 澄川さんて斑鳩さん大好きだから俺なんて」
「そんな遠慮してるから駄目なんですよ。強引に奪わなきゃ。澄川さんは和流さんだったら拒まないと思いますよ。例え、斑鳩さんと付き合っていても」
蒼衣もカンナと斑鳩が付き合っている事を知っているのか。それにしても、つい話に乗ってしまったが、今はこんな話をしている場合ではない。そんな事は蒼衣も分かっている筈なのに、何故今そんな話をするのだろうか。
和流が返す言葉に詰まっていると、蒼衣はまた腕時計を確認した。
「時間……そんなに気になる? 何か予定あったの?」
「あ、いや別に。もう日付も変わるなぁと思っただけです。それより」
蒼衣はいきなり和流の左手を両手で掴み、胸の前でぎゅっと握った。
「水無瀬さん、そんなに気安く男の手を握ると勘違いされるよ? 特に俺なんかにそんな事したら、こんな暗闇だし、襲っちゃうぞー! ははは」
和流は突然の事に流石に動揺したが、いつも通りの軽いジョークを交えて流した。
「いいですよ? 和流さんなら。ほら、どうぞ」
蒼衣はニコリと微笑み、和流の左手を自分の右胸に置いた。
一瞬にして柔らかい感触が左掌を支配した。
「じょ、冗談やめてくれる? 水無瀬さん。今は任務中。任務中じゃなきゃ大歓迎なんだけど」
和流の左手は蒼衣の両手により蒼衣の右胸に押さえつけられていてそこから動かすことが出来ない。少し指を動かせばその柔らかい胸を揉む事も出来るだろうが、流石に今はそれどころではない。もし、今指を動かせば和流の理性は抑えられなくなるだろう。
しかし、蒼衣は和流の目を見詰め微笑んだままだ。
その顔は赤い月明かりに照らされてとても妖艶で美しい。
和流はゴクリと唾を飲んだ。
「昼間海では普通に揉んでたじゃないですか? 私の許可なく。今は許可してあげてるんですよ? もしかして、いざとなったら固まっちゃう意気地無しですか? ちなみに私の胸、、澄川さんとほぼ同じサイズなんですよ?」
蒼衣は不敵に笑い挑発してきた。
和流には蒼衣の意図がまるで分からないが、ここは心を鬼にして蒼衣を突き放し、叱り付けた方が良いのではないか。いや、そうするべきだ。
しかし、和流の指は蒼衣の柔らかな胸を優しく掴んでいた。そして、無意識に蒼衣の胸を厭らしく揉み始めていた。
その動きに蒼衣は満足そうな顔でこちらを見た。
「ごめん、水無瀬さん……俺……」
和流が言いかけた時、蒼衣の視線が和流の後ろへと動いた。
「あ、和流さん、見て。火」
蒼衣に言われて、和流も蒼衣の視線の方向へ振り返る。
確かに、学園の狼煙台のある位置に火が燃えている。
「何かの合図かな?」
「ガチャン」
「え?」
突然蒼衣が発した擬音を不思議に思い、蒼衣の方へ向き直るといつの間にか蒼衣の胸を揉んでいた左手首に銀色の手錠が嵌められており、チェーンで繋がったもう片方の輪っかは近くの鉄製の手すりに嵌められていた。
そして、蒼衣は笑顔で和流の右手の槍を掴む指を、卑猥な手付で1本1本ゆっくりと解いていき、しれっと奪い去った。
蒼衣は和流の鉄槍を抱くように抱えながら数歩後ずさった。
「ちょっと、水無瀬さん? どういうつもり? そういうプレイ? いや、でも、今はそれどころじゃないって」
「今はそれどころじゃないですよね。知ってますよ。やだなぁ」
蒼衣はニコニコと笑っていたが、その表情はだんだんと邪悪な笑みに変貌していき、抱えていた和流の鉄槍を地面に突き刺した。
そうかと思うと今度はデッキの隅に備え付けられていたランタンを取り、真っ暗な海の方へと振り始めた。
和流には蒼衣が何をしているのかすぐには理解出来なかった。いや、理解したくなかった。
何故なら、蒼衣がランタンを振ってしばらくすると真っ暗な海が突然広範囲に渡り明るくなったのだ。その灯りはどんどんとこちらに近付いてくる。
内通者。まさか。水無瀬蒼衣が? いや、そんな筈はない。内通者は今学園にいて、御影を襲った奴なのだ。今日1日一緒にいた蒼衣が内通者なわけがない。しかし────
和流が言葉を失いながらも何とかこの状況を、蒼衣が内通者ではないように理解しようと思考を巡らせた。
「和流さん、あなたならもうどういう状況か理解出来たはずですよね? お別れです」
蒼衣はランタンを元の場所に戻すと、和流を見て言った。
「待て、待てよ、嘘だろ? 水無瀬さん、あの灯りは? 君は今何をやって」
「知ってますよ。本当は全て理解しているけど、理解したくない。この状況を否定したい。そう考えているんですよね?」
蒼衣は不敵な笑みを浮かべた。
海の灯りはさらにこちらに迫り、その灯りの正体が無数の小舟に乗る人影が持つ松明の火だと分かった。
「信じたくないですか? 私の事、本当に仲間だと思っていてくれたんですね。でも、ごめんなさい。私は、内通者です」
「やめろ!!」
蒼衣の言葉と表情に和流は叫んでいた。
蒼衣のもとへ行こうとしたが、左手が鉄柵と繋がっており近くに行けない。蒼衣はちょうど、和流の手の届かないところで腕を組みこちらを見ている。
「嘘だよね? これは悪い冗談なんだよね? 水無瀬さん」
「本当に男ってチョロいですよね。序列8位の槍使いも、女の身体だけで簡単に油断させられる。私の思った通り、男なんて皆そう」
蒼衣が和流を馬鹿にしたように話し始めた時には、蒼衣の背後の海の船団はもう乗組員の顔が分かる程まで接近して来ていた。
「分かった。これは嘘じゃないんだね。水無瀬さんは内通者で、あの船団を呼び寄せた」
和流はようやく考えを整理して確かめるように言葉にした。
「ええ」
「あいつらは、青幻の仲間? 目的は?」
「急に冷静になりましたね。そうです。青幻の水軍です。目的は学園の排除」
蒼衣は淡々と言った。ただ、その表情には今までの不敵な笑みはなく、どこか寂しそうに見えた。
「君が青幻に力を貸すメリットが分からない。脅されてるの?」
「違いますよ。私の意思です。今回の件にはちゃんと私なりのメリットがあります」
「そのメリットってのは、学園の仲間達を裏切り、危険な目に遭わせてでも君にとって魅力的なものなの? 水無瀬さん」
「それは……」
蒼衣は左腕にそっと手を添えて目線を逸らした。
その仕草に少なからず蒼衣の心にはまだ良心があると感じた。
「まだ取り返しがつくかもしれない。水無瀬さん、俺を解放してくれない? すぐに学園にこの事を報せれば」
「無駄ですよ。もう取り返しなんてつかない。私が招き入れようとしている青幻の水軍はもうそこまで来ているのよ」
蒼衣が歯を食いしばり横を向いたちょうどその時、水軍の1艘が岸に渡り板を付けた。それを皮切りに他の舟も続々と岸に到着し、刀や槍で武装した男達がぞろぞろと降りて来た。
その中には、明らかに周りの男達とは風格の違う槍を持った長い黒髪の女と、口を真一文字にキュッと結んだ煌びやかな刀を佩いた背の高い男がいた。
「うむ、ご苦労。貴殿が学園の内通者か」
蒼衣に話し掛けたのは、風格の違う男女ではなく、別の指揮官風の格好をした男だった。
「で、その男は?」
指揮官風の男が和流に指をさして言った。
「学園の生徒です。序列8位の和流馮景。一応捕らえておきました」
蒼衣が男に説明すると男は何度か頷きながら和流のもとへ近付き目の前に立った。
「デート中だったのかな? なのに女に裏切られたと見える。不憫だねぇ」
男は鼻の下に生やした横長のカールした髭を親指と人差し指で撫でながら嫌味ったらしく言った。
「あなたは?」
「おお、これは失礼。私は王華鉄。劉雀様の水軍の副官をしている。今日は仕事で伺った次第」
「劉雀?」
「その通り。蒼国幹部の1人。まさか知らぬとは驚きだ。今は向こうに停泊中の大型船の中におられる。今回の学園排除の任務の総指揮を執られる」
王華鉄はまだ沖に停泊中の大きな船を指さして得意げに言った。沖にはその大型船以外にも何艘か中型船が停泊している。
「何だかよく分かりませんが、ヤバい状況ってのは分かりました。学園の排除ね。何で今更そんな事を?」
「簡単な事。学園が青幻陛下の邪魔をするからですよ。割天風が生きていた頃はお互いに協力関係を築いていましたが、割天風が死んでからというもの、蒼国と学園の関係は完全に途絶。それどころか、我々の邪魔ばかりしてくる始末。多綺響音による蒼国幹部の暗殺。それに対抗する為に派遣した程突様と馬香蘭様もお宅の生徒達の妨害で失った。ね? どこからどう見ても邪魔でしかないでしょ?」
「ああ、そっちから見たらそうかもしれませんね。でも、悪いのはそちらでしょ? 自国の目的の為なら善良な市民の殺戮も厭わない。そんな盗賊国家は邪魔されて当然だと思いますよ」
和流が正論を並べてやると、王華鉄はフッと鼻で笑い、和流の横っ面を裏拳で殴り付けた。
「ああ! 失礼! 手が出てしまいました。私は口より先に手が出てしまう悪い癖があるんですよ」
王華鉄はニコニコしながら自分の拳を撫でた。
「一応聞いてあげますが、蒼国に投降する気はないですか? 序列8位なら陛下も部下として使ってくれるやも」
「愚問ですね」
和流は間髪入れずに答えた。
「残念です」
王華鉄は和流が初めからそう答えると知っていたかのような態度で、答えを聞くと一瞬にして和流への関心を消した。
いつの間にか小舟は港を埋め尽くさんばかりに接岸しており、その乗組員達も港を埋め尽くしていた。
和流は殴られた頬を撫でながら辺りを見回した。口からは血が滲んでいる。
「おや? 流石に早いですね。自警団ですか?」
王華鉄は和流の後ろを見て言った。
「こんな時間に海から来客はないからな。お前達、蒼国の者か?」
和流がその声に振り返ると、30人程の自警団が集結していた。
「いかにも、私は王華鉄。蒼国の将校です」
王華鉄は丁寧に挨拶をした。その隣には黒髪の女と長身の男が無表情で直立しており、その周りには、船から降りて来た男達がいつの間にか隊列を作り整列し終えていた。その数は軽く100人以上はいるだろう。
「俺の名は酒匂龍兒。浪臥村自警団の隊長だ。一体何しに来やがった、盗賊共め」
酒匂龍兒。浪臥村村長、酒匂邦晃の次男である。馬上から槍を突き出し王華鉄を威嚇している。
「酒匂さん! こいつらの目的は学園です。学園を潰そうとしているんです」
和流が叫んだ。
「何? 学園の危機は浪臥村の危機! 俺達で追い返してやる!」
「ははは、威勢だけは良いですね。でも、その程度の兵力で我々に勝てますかね?」
「馬鹿め! 俺の自警団はこれから続々とここに集結するんだよ! それにこっちには学園の生徒達も就いてる! 負ける気がしねえぜ!」
酒匂は得意気にゲラゲラと笑った。
「馬鹿はあなたですよ、酒匂さん。我々はあなた方の兵力を調べた上でここに来たんですよ? 浪臥村自警団の兵力がせいぜい100人強という事は知っています。残念ながら他の自警団の皆さんは今頃我々の分隊と交戦しているでしょう」
「何!? お前達にもここにいる連中以外に兵力が!?」
酒匂が目を丸くして驚いた瞬間、西と南の港の鐘がほぼ同時に鳴り始めた。
「ほら、言った通り」
王華鉄はしたり顔で指を鳴らした。
各港で鐘が鳴ったという事は、カンナや矢継の所へも蒼兵が現れたという事だ。
「浪臥村の兵力を抑えたら学園に向かいます。ま、ゆっくりやりましょう」
王華鉄は後ろの蒼兵達に手で合図を送った。
「盗賊風情がぁ!!」
酒匂が叫んで馬を突っ込ませると、僅か30人程の自警団も雄叫びを上げながら蒼兵に突っ込んだ。
和流の目の前で自警団の騎兵と蒼の歩兵が激突した。
しかし、和流の視線は上手く乱戦から抜けて歩いて行く4人を捉えていた。
「水無瀬さん!!」
和流の声に蒼衣は振り向かなかった。
蒼衣はそのまま王華鉄と黒髪の女、そして、長身の男と共に浪臥村の方へと消えていった。




