小さき者の後悔
あれから一ヶ月が過ぎた。
どれだけ望んでも兄が帰ってくる気配はない。
かといって前向きに生きれるわけもなく、僕の生活は無味乾燥したものになっていた。
食事もほとんど喉を通らず、すっかりアスルは憔悴しきっていた。
手首は小枝のように細くなり、胸のあたりは痩せこけて骨がくっきりと浮き出ている。
一ヶ月間、部屋のなかで僕は一日を過ごしていた。
部屋には机が窓に対面するようにして設置してある。
僕はそこに座ってじっと窓の外を眺める。
その視線の先ははるか先の森を見据えている。
そうしていると、部屋の扉が手の甲で小気味よく叩かれる。
「アスル様。昼食を持ってまいりました……」
アスルは応答せずにいると、しばらくして食事を準備してくれるメイドは去っていったようだった。
両親にも申し訳ないと思いつつも、それでもやっぱり喉は異物を拒むようにして食事を頑として受け付けず、ほとんど元の状態のままで部屋の前に置いておく。
ベッドの上に身を投げ出すと、思い出すのはあのときの記憶。
おもえば自分の能力を過信しすぎていた、と何度考えてもそこに至ってしまう。
原因はすべて自分にあり、そのせいで兄が被害にあってしまった。
よみがえる記憶に発作のように胸が痛みつけられる。
しかし涙はあれ以来一度も出ていなかった。
泣くわけにはいかない。
兄が死んだとは限らないのだ。
あれから捜索隊が動いているが、いまだに兄の遺体は見つかっていない。
兄の生存確率は非常に低いだろうことは、アスルにもわかっていた。
しかしそれでも、兄が戻ってくる可能性がまったくないとは限らない。
今でもボロボロの状態で着々と戻ってきているかもしれないと思うと、自分が泣いてしまうのはいけない気がした。
あのジャーボロスに勇敢に立ち向かった自分の兄を信じて待つ。
僕の力では、それくらいしか出来ないのだから。
どれくらいの時間が経過しただろうか。
徐々に意識が覚醒していく。
ぼやけた視界で窓のほうへちらりと視線をやると、日が暮れようとしていた。
そろそろ夕食をメイドが持ってくるはずだが……。
いまだその気配がない。
そこでなにやら屋敷内が騒がしいことに気づく。
なにかあったのだろうか。
アスルは身を起こして窓の外を覗こうとすると、部屋の扉がノックされる。
その音は普段のメイドのものとは違って若干だが力がこもっていた。
「アスル……話があるんだ」
「……」
アスルは無言を貫く。
なんとなく続きを聞くのを躊躇われた。
「あのな……さっき、見つかったんだよ」
嘘だ、と反射的に思った。
もしそれが本当だとしたら、そんな声音で言うべき言葉ではないからだ。
「ティムルの…右腕がな、森の入り口付近で発見されたらしいんだ……」
「……え?」
どういうことなのか、アスルは理解できなかった。
否、理解することを感情が拒んでいた。
その意味することなど明白であるのに、直視なぞ到底不可能のように思えた。
「大量の血も周囲に飛び散っていてな……。あの出血の量では、おそらく……」
嘘だ。
そんなはずない。
もっとよく探して。
そんな言葉を吐き出そうとするが、嗚咽が混じり始めてうまくいかない。
「ちが……うぐっ、そんなはず……ひぐっ」
得体の知れぬ頭痛がする。
頭痛は加速度的に攻撃量が増していき、ある基準を超えた途端にアスルは獣のごとき泣き声を上げていた。
「ぁぅぁ……ぁぁうああああああああああっッ」
意識が混乱の渦へと沈んでいく。
自分が誰なのかの認識すら曖昧になっていく。
が、唐突にも強烈な睡魔に襲われ、アスルは意識を失った。
***
それから三日の時間がたって、アスルは目を覚ました。
窓へと視線を向けると、天をどんよりした雲が覆い、地へと大粒の雨を降り注いでいた。
音が聞こえる。
ザァーザァーと響いてくる。
アスルは目を覚ましてから初めに感じたのは、安堵だった。
いままでのすべてが夢だと思ったからだ。
そうだ。すべて夢だったのだ。
森に入ったのも、ジャーボロスに襲われたことも、兄が死んだなんてことも。
だいたい落ち着いて考えてみたらわかりそうなものを、どうして気づかなかったのだろうか。
たかが夢に自分がここまで踊らされたことが滑稽で、馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「なんだよ、ほんと。…………ハ八ッ、ハハハハハハ八ッ」
とたんに笑いがこみ上げてくる。
普段はめったに見せることのない表情で、高らかに笑った。
腹筋が痛くなるほど笑い続けると、腕に電撃が走ったような痛みを覚える。
いつ怪我なんてしただろうかと、袖を捲くると二の腕あたりに切傷がついていた。
「あれ、この傷どこで―――」
刹那、脳裏には化け物と遭遇したあの夜の出来事の断片が過ぎる。
ひとたび垣間見れば、波が押し寄せるようにしてあの夜の記憶がよみがえってくる。
とともにあの夜の出来事すべてが現実であったことに否応なく気づかされてしまう。
森でジャーボロスに襲われたのも、兄が死んだことも夢ではなかったのだ。
アスルは自分の中のなにかが壊れていく音を確かに聞いた。
溢れんばかりの悲しみに支配され、大粒の涙が流れ出す。
そこからは自制など効かず、身を投げるようにして感情が落ち着くのを待った。
狂ったように泣き、喉の調子も気にせず悲鳴を上げた。
室内にメイドのアリーナと父ダルノス、母のゼノがいることにも気づかず。
窓にはアスルの姿が、うっすらと映り込んでいた。
彼ら三人にアスルの悲しみは、世界が嘆いているとすら思わせた。
結局アスルの感情は収まらず、感情の渦が内臓がぐちゃぐちゃになったと錯覚するほどに暴れるだけ暴れ、アスルは内側から破壊されていった。
アスルは苦しさのあまりに意識を手放して、ようやく嵐は静まった。
それに伴い夕立はピタリとやみ、後には綺麗な夕焼けの光が窓越しに差し込んできていた。
三人はお互いに顔を見合わせると、倒れたアスルをベッドへと仰向けに寝かせた。
黄金色に染まる空は、どこか悲壮感を漂わせていた。