危機
アスルの朝は早い。
一歳にも満たない子供であるならばもっと睡眠を取ったほうがいいのだろうが、誰よりも早く寝ているので問題ないだろう。
アスルがこんなにも朝早くに起きるのには理由がある。
「現れよ。〈水魚〉」
短い詠唱で魔法の構築が完成する。
魔方陣からは水で形成された魚たちが生き生きとアスルの周囲を旋回している。
本来、初級魔法であっても詠唱というのは長くなってしまうものだ。
しかしアスルは短い詠唱で済ましてしまうことができる。
アスルは魔法に関しても天才的であり、さらに知能からしても兄ティムルより勝っているだろう。
しかし一歳児にも満たない子供がそんな力を持てば、力に溺れせっかくの才能も芽が出ずに終わってしまうだろう。
それをわかっていたアスルだからこそ、毎日魔法の勉強をひそかにしており、運動も適度にやって、兄以上に頑張っていると思っている。
だからこそ、どこかでティムルを見下してしまうのは仕方のないことであった。
自分より才能がなく、自分より頑張らない低俗な人間。
それがアスルの兄ティムルに対する評価だった。
だが、自分の両親に対しては尊敬すらしていた。
父ダルノスは王族の剣術指南役をまかされるほどの信頼と実力を兼ね備えているし、母ゼノだって容姿端麗な上に昔は偉大な魔法使いとして名を馳せていたらしい。
近くにいるだけでも強者の雰囲気を感じるダルノスに、圧倒的魔力量を内包しているゼノ。
天才である自分にとっても誇れる両親だ。
しかし両親はティムルを甘やかしてばかりいるように感じてしまう瞬間が多々ある。
秀でたところがない兄が、自分よりもチヤホヤされている。
それがたまらなく不思議であり、気に食わなかった。
先日も勝負を持ちかけてきたのは兄ティムルであるのに、なぜだか自分はひどく叱咤された。
確かに自分の実力ならば、ティムルに一切ケガを負わせることなく、ただ圧倒的な力の差を見せつけ降参でもなんでもさせられただろう。
けれども、自分かて人間であり、感情がある。
あまりにも幼く、愚かで、傲慢な兄に憤怒に近い感情さえ持っている自分が手加減など出来るはずがないだろう。
そんな兄よりも、自分の方が優れている。
なのになぜ、誰も自分を可愛がってはくれないのか。
なぜみんな、自分に対して距離を置くのだろうか。
ただ、認められたい。
それだけの、自分にしては珍しくもある子供らしい感情。
アスルにとってそれは決して悪い感情ではなく、むしろいい傾向だと考えていた。
まさかそんな自然な感情が皮肉にも自分を危機に追い込んでしまうことなど、思いもしなかった。
***
アスルやティムルの住む場所はヴァランス領というダルノスの治める土地である。
ダルノスは元々は平民の出であったから、出世して爵位をもらっても一代限りのものであった。
このヴァランス領から馬に乗って十五分程南へ進んだ先には、立ち入り禁止区域の森がある。
《ホイヤの森》と呼ばれるこの森には凶悪な魔物が多く潜んでいる。
夜には必ず魔物の声が響き渡るこの森。
ヴァランス領ではまず第一に子供に教えることだった。
興味本位で行かれては困るからだ。
しかし例外がただ一人いた。
アスルが知能においても天才なのは周知の事実であり、残念なことにアスルはあまり強くは言われていなかった。
アスルなら分かっているだろう、と思われていた。
冷静に考えればアスルにも徹底して《ホイヤの森》の脅威を説くべきだったのだが、アスルの規格外ぶりが周囲の大人たちに勘違いさせていた。
アスルなら大丈夫だ、と。
そんな大人たちの期待にも似た思いに裏切る形で、アスルは《ホイヤの森》へと向かっていた。
アスルは森までの距離を身体強化魔法でいっきに縮める。
森の入り口の前で立ち止まり、魔力回復のポーションを一口に飲み干す。
お手製ポーションではあるが、その効果は事前に検証済みだ。
アスルは自分の体内で消費分の魔力が補完されていくのを感じる。
(絶対に認めさせます……父様、母様。僕が兄より優れ、たよりになる存在であることをっ!)
アスルは自分がただの子供ではなく、才能に恵まれていることを自覚している。
そしてその才能を無駄にしない努力もしてきたつもりだ。
だから魔物なんてやり方次第では十分に倒せると考えていた。
(この年齢で魔物を倒せば、さすがに考え直してくれるはずです。自分のほうが兄より優れていると)
アスルは兄のほうが甘やかされる要因が性格の問題にあるとは露ほども考えていなかった。
自身には欠点はない、という思い込みが本来のアスルの思考を麻痺させていた。
だが不幸にもその間違いを訂正してくれる者はこの場にいない。
アスルは屋敷からこっそり持ち出してきた小刀を片手に《ホイヤの森》へと進んでいく。
既にアスルは探知魔法を展開させており、周囲の状況を把握しつつ慎重に歩いていく。
道に迷わないよう木々に印をつけつつ、なるべくまっすぐ歩いていく。
入って十分もしないうちに、探知魔法が魔物の反応を捉える。
(この微弱な魔力と体のサイズからして、ホーンラビットですね。捕まえれば母様がお喜びになられる)
ホーンラビットは初級冒険者には格好の獲物とされる程弱いうえに、料理すれば濃厚な肉汁の虜になること間違いなしのモンスターである。
しかし一時期冒険者が狩りすぎたことで保護対象動物的扱いを受けており、その希少性は以前とは比べ物にならなくなっている。
売ってもいいが、母様たちはお金には困っていないので食材としてのほうが喜ぶだろう。
ホーンラビッドは弱いモンスターではあるが、だからといって捕獲しやすいかといえばそうでもない。
俊敏性が非常に高く、また警戒心の強いモンスターであるため物音ひとつで逃げてしまう。
しかしアスルはスピードには自信があった。
アスルは音を立てないように細心の注意を払いつつ、小刀を構えゆっくりと近づく。
ホーンラビットは警戒心が強く、そのため逃げられることも多い。
仕留めるなら初撃が確実なのだ。
呼吸を殺し、身体から微弱に発せられる魔力を抑え、気配を極力隠して近づいていく。
すると木の陰からホーンラビットが姿を現した。
真っ白な毛に覆われ、赤色の瞳からは怯えが感じられる。
頭部からは一本の立派な角があり、先は鋭利な刃物のようだ。
(この立ち位置でなら、確実に殺せる)
目的は捕獲だが、どうせ後で料理する際ひと口サイズに切られるのだから、多少傷ついたところで問題はないだろう。
ホーンラビットの足を狙うことにする。
ホーンラビットの足はおいしい部位ではあるが、俊敏性を奪うにはこれしかないだろう。
小刀を握りなおすと、足にぐっと力をいれ、一気に勝負を決めにかかる。
アスルは一瞬で対象との距離をつめ、小刀の攻撃範囲内に入ることに成功する。
(まずは一体です!)
しかしホーンラビットは予想外にこちらへと飛び込んできた。
怯えた様子だったし、警戒心の強く臆病なことで有名なホーンラビットがまさか飛び掛ってくるとは完全に予想の範囲外だった。
鋭利なホーンラビットの角が自分の顔目掛けて勢いよく飛んでくる。
アスルは手に持った小刀の刀身を角の側面に叩き込むことで軌道をずらす。
自分の頬すれすれで白いモンスターはアスルのそばを過ぎる。
まずい、とアスルは焦る。
現状を考えると、自分は敵に対して背を向けた状態になる。
さすがにこれでは臆病なホーンラビットも躊躇なく襲い掛かってくるだろう。
アスルはとっさに真横に身体を投げ出すと、反撃のために小刀に魔力を注ごうとする。
しかしホーンラビットが襲い掛かってくることはなく、既にどこかへ逃げてしまった後であった。
アスルは言い知れぬ不安感に襲われる。
今のホーンラビットの行動はあまりに奇妙すぎる。
逃げるかと思いきや攻撃してきて、なんとか対応して攻撃をかわすが、今度は追撃してくるかと思いきや背を向けて逃げ出してしまった。
これがホーンラビットが初撃ならば有効打になると考えての行動だったのならば、矛盾点はない。
たしかに僕はホーンラビットを逃げの一手しかないと勝手に決め付けていたし、僕のほうが圧倒的有利な立場にいると考えていた。それをホーンラビットが把握していたなら、確かに初撃を狙ってきても不自然はない。
しかし魔物がそんなことを考えて行動しているとは到底考えにくい。
なにか、僕を襲ったのには別の理由があるはずだ。
魔物は基本的に知能が低く、そのため群れをなすモンスターは少ほとんどいない。
同族同士でも容赦なく殺しあう生き物だ。
魔物は研究によればたった一つの原理に従って動いているらしい。
生きるという欲ただそれだけ。
今のも生きるための行動だったのだろう。
とすると考えられるのは二つ。
ひとつは単純に襲いかかってきた僕からの自己防衛機能が働いたということ。
しかしそれならば俺の気配に気づいた時点で逃げるはず。
そしてもうひとつは、別の強い敵の気配を感じて、僕を相手にしたほうが生き残る確立が高いと判断したか。
もし後者なら、すぐにでも僕はこの場から逃げなければならないが……。
と考えたところで探知魔法に強力な魔物の反応を捉える。
この反応は――――。
「《森の悪魔》ジャーボロス……」
アスルの目前には絶望を体現した化け物が立っていた。
もう少し続く……。