心の爪痕
「おい小池、もう二度と来るんじゃねえぞ」
看守に言われ、小池俊哉は振り向きジロリと睨み付ける。もともと顔に火傷痕のある凶悪な人相だ。凄みの効いた顔は、普通にしていても相手に威圧感を与える。
「ああ、二度と来ねえよ。今度は、もっと上手くやる」
看守にそう言い放ち、小池は刑務所を出て行く。肩で風を切って歩くその後ろ姿を見て、看守はため息をついた。
「やれやれ、あいつは救いようがないな。あの分だと、すぐに逆戻りだろうなあ……」
小池は、どんどん歩いていく。今は自由なのだ。この二本の足さえあれば、どこへでも行ける。
だが、途中で歩みを止め道端に腰を降ろした。今は八月である。暑くてたまらない。歩いているだけで、汗が滝のように滴り落ちてくる。小池は荷物の中からタオルを取り出し、汗を拭った。
ふと、周りの風景を見渡す。何もない田舎道だ。看守の話では、ここから十分ほど歩くとバス停があるらしい。そのバスに乗れば、二時間ほどで駅に着くとのことだ。
もっとも、彼には帰る場所など無い。幼い頃に両親を火事で失い、自らも全身にひどい火傷を負った。そのせいで、周りからは疎外されてきた。これまでの半生において、人の心の温かみだの情けだのは感じたことがない。
小池はもはや、この先の人生に何の期待も抱いていなかった。懐にあるのは、四年間の懲役生活で得た五万円の金だけである。
四年の懲役なら、もっと多い額を手にしていいはずだった。しかし、この男は刑務所でさんざん問題を起こしていた。そのため、貰える金はかなり減らされている。
もっとも、仮に問題を起こさず過ごしていたとしても、結局は似たりよったりである。三十を過ぎた天涯孤独な男が、たかだか十万かそこらの金を渡されて世間に放り出される……いったい、どんな明るい未来があるというのだろう。
もう一度、辺りを見回す。こうなったら、タタキ(強盗のスラング)でもやってやろうか。刑務所に逆戻りしても構わない。通行人がいたら叩きのめし、金を奪う。その後は安宿にでも泊まるか。
その時だった。
「おじさん」
不意に背後から聞こえてきた、若い女の声。小池は飛び上がらんばかりに驚き、すぐに振り返る。
そこに立っていたのは、奇妙な若い女であった。オレンジのタンクトップと白のホットパンツを身につけ、黒髪は肩までの長さである。顔は可愛らしいが、いたずらっ子のような雰囲気も漂わせていた。
女は、再び口を開く。
「おじさん、遊ぼ」
「遊ぼ、じゃねえんだよ。てめえ誰だ?」
女を睨みつけ、聞き返す。普通の男なら、若く可愛い女からの「遊ぼ」という一言には、何らかの期待を抱くだろう。
だが小池は、自分が女にモテないことをちゃんと理解している。これまで女が自分に近づいて来たのは……金目当てか、あるいは罰ゲームだ。
しかし、女はにっこりと笑う。
「あたし、ミネコだよ。おじさん覚えてないの?」
「ミネコだぁ? 峰不二子なら知ってるが、ミネコなんざ知らねえ。さっさと失せろ、でねえとヤッちまうぞ。こっちはな、ついさっき刑務所を出たばかりなんだよ 」
低い声で凄む。だが、ミネコと名乗った女はニコニコしている。怯む様子が全くない。
その態度に、だんだんイラついてきた。目の前にいる女には、全く見覚えがない。それ以前に、音もなく背後から近づくとは……非常に不愉快だ。すっと立ち上がった。
「いい加減にしねえと殺すぞ。俺はな、お前みたいなふざけた女が大嫌いなんだよ」
言うと同時に、手を伸ばした。まずは、襟首を掴んで脅す。もし、それでも去らないようなら、女でも容赦しない。ぶん殴って、有り金を奪う。
だが、ミネコは小池の手を掴む。直後、一瞬で捻り上げた──
想定外の痛みに、思わず悲鳴を上げる。気がつくと、地面に這いつくばらされているのだ。しかも、ミネコの腕力は異常に強い。小池とて素手の喧嘩にはかなり自信があったが、ミネコは自分など比較にならない強さだ。
「てっ、てめえ何しやがるんだ!」
喚く小池に、ミネコは冷静な声で答える。
「おじさん、あたしは手荒な事はしたくない。それに、もう時間がないんだよ。今日一日、あたしに付き合ってくれるだけでいいんだからさ」
「えっ?」
小池は困惑し、黙り込む。全く理解不能だ。自分は、こんな女は見たことがないのだ。
それ以前に彼は、風俗以外の場所で女と触れ合ったことがない。しかし、こんな女はいなかったはずだ。そもそも、風俗の女が小池のような男を探すわけがない。
何か狙いでもあるのだろうか……そう思いながらも、仕方なく頷いた。このままでは、離してもらえそうもない。
「チッ、わかったよ。付き合えばいいんだな」
だが小池は、その選択をすぐに後悔していた。
「ねえ、おじさん! あれ見てよ!」
「おじさん! あれはなんていうの!?」
バスの中で、ミネコは窓から外を見ながら、子供のようにはしゃいでいた。その上、あれやこれやの質問をする。
小池は仕方なく、ひとつひとつ答えていた。だが、内心では呆れ果ててもいた。このミネコと称する女は、頭が悪すぎる上に物を知らなさすぎる。ひょっとしたら、どこかの病院から脱走して来たのだろうか。あるいは、密入国してきた外国人かもしれない。だとしたら、早いうちにずらかるとしよう。この女、見た目と違い腕っぷしは強い。下手なことを言って機嫌を損ねたら、何をされるかわからないのだ。
だが次の瞬間、小池は驚愕の表情を浮かべた。
「そういえば……おじさんさ、よく公園を歩いてたよね」
公園。
確かに逮捕される前、小池は公園の近くに住んでいた。四畳半のボロアパートで、家賃は四万円だ。当時の小池は、自販機を荒らしたり空き巣をしたりして生計を立てていた。だがドジを踏み、警察に踏み込まれてしまったのである……。
「真幌公園のことか?」
思わず口をついて出た言葉に、ミネコは首を傾げた。
「名前は知らない。でも、大きい池があったよ。魚や亀や鳥が泳いでた。おじさん、いつも公園を歩いてたよね」
楽しそうに答える。小池は必死で記憶を探った。この女の言っていることに間違いはない。自分はほぼ毎日、あの公園を歩いていたのだ。となると、あの公園で会っていたのか。
だが、いくら記憶の映像を掘り返しても、ミネコの姿は見つからなかった。
「そうだ! おじさん、一緒にあの公園に行こ!」
不意にそんなことを言い出すミネコに、小池は顔をしかめた。
「あのな、真幌公園は遠いぞ。ここから六〜七時間くらいかかる」
「ろくしちじかん? それって、どのくらい?」
首を傾げるミネコに、小池も頭を抱えた。刑務所を出た直後に、こんな訳のわからない女に付きまとわれるとは。自分は、よほどツイていないらしい。
だが、仕方ないのだ。ミネコの腕力は尋常ではない上、頭がイカレている。言う通りにしないと、何をしでかすかわからない。
しかも……この女は昔、自分の人生に関わっていたらしい。どういった形かは知らないが、それを探りたいという気持ちもある。
「六時間は長いよ。だが仕方ない。静かにしてるなら、連れて行ってやる」
「うん、わかった。静かにしてる」
確かに、その道中ミネコは静かにしていた。だが、そのリアクションは激しかった。窓に顔をくっつけ、じっと外を見ている。時おり、笑顔でこちらを向いては外を指差す。小池が無視すると、怒ったようにつついてくる。
小池は付き合いきれないものを感じながらも、仕方なく相手をしていた。しかし、彼の疑問はどんどん膨れ上がっていく。
この女は、いったい何者なんだ?
「ここだぞ。ここが真幌公園だ」
午後三時過ぎ、二人はようやく真幌公園に到着した。
目の前には、数年前と変わらない風景が広がっている。公園の中心には巨大な池があり、その周囲には大木が何本も植えられていた。子供たちの遊ぶ遊具なども設置されており、幼い子供たちが遊んでいるのが見える。
小池は、複雑な感情が湧き上がってくるのを感じていた。懐かしい風景ではある。自分は、この辺りに十年近く住んでいたのだ。
だが逮捕されたのもまた、この周辺である。
だが、そんな小池の想いなど無関係な者もいた。
「うわ! 懐かしい! ぜんぜん変わってない!」
ミネコは興奮した表情で、あちこちを見ていた。かと思うと池に近づき、水面を食い入るように眺めている。
「お、おい……落ちるなよ」
心配そうに言いながら、小池は近づいて行く。
ミネコは楽しそうに、池を眺めている。大きな瞳を輝かせ、無邪気な表情で水面を見ている。そんな姿を見ているうちに、小池の顔からも笑みがこぼれた。
その時、ミネコが叫ぶ。
「おじさん! あれ見てよ! 鳥だよ鳥! 鳥が泳いでる!」
彼女の指差す方に、小池は視線を移した。すると、鴨が池を泳いでいるのだ。くわっくわっ鳴きながら、水面をすいすいと泳いでいる。
「あれは鴨だろうが」
苦笑しながら、小池は言葉を返す。だが、その時にある疑問が浮かんだ。
「なあミネコ。お前、俺の名前を知ってるか?」
「知らないよ」
言いながらも、ミネコの目は鴨に釘付けだ。
小池の頭は、さらに混乱した。名前も知らない男の行方を、どうやって調べたというのだろう。このミネコの言っていることは、本当に支離滅裂だ。
その時、ミネコが振り向いた。
「おじさん、お腹すいた」
「な、何だと? 知らねえよ、そんな事」
まごつきながら、言葉を返す小池。こんな女と一緒にレストランには行きたくない。何をしでかすか分からないからだ。
だが、ミネコはお構い無しだ。
「あたし、お弁当が食べたい」
「はあ?」
「お店で買うお弁当だよ。おじさん、いつも公園で食べてたじゃん」
「えっ……」
確かに、ミネコの言う通りなのだ。小池は逮捕されるまで、毎日この公園で弁当を食べるのが習慣だったのである。
それを知っているのは?
いや、あり得ない……小池は頭を振り、馬鹿な考えを振り払った。
「じゃあ、弁当を買ってきてやる。ここで待ってろ」
近くのコンビニで弁当を買い、公園に戻った。買い物をするのは、実に四年ぶりである。どうも落ち着かない。店に居る間、小池は居心地の悪さを感じていた。
どうにか買い物を済ませると、弁当の入った袋を下げて公園に戻る。ひょっとしたら、ミネコは居なくなっているかもしれないが。
幸か不幸か、ミネコはベンチに座り大人しく待っていた。小池の姿を確認するなり、満面の笑みを浮かべて立ち上がる。
その姿を見た時、小池は何とも言えない気分に襲われた。これまでの人生で……自分に対し、こんな笑顔を見せてくれた人はいただろうか。
「ほら、買ってきてやったぞ」
ぶっきらぼうな口調で言うと、小池は弁当を差し出した。
「ありがとう! 美味しそうだね!」
そう言うと、ミネコは猛烈な勢いで食べ始めた。
しかし、すぐに手を止める。
「あれ? おじさん、食べないの?」
「いらねえよ」
そう言うと、小池はぷいと横を向く。実のところ、今日の泊まる場所すら決まっていない。にもかかわらず、真帆公園まで来てしまった。金が入る当ては無いのだから、これ以上の無駄遣いは出来ない。
どうやって稼ぐか。
また、車上荒しでもやるかな。
「おじさん、あげる」
いきなりの言葉と同時に、目の前に突き出された何か。見ると、ミネコが箸でつまんだ鮭を突き出している。
何故か、頬が赤くなった。
「いいよ。お前が全部、食べろよ」
「駄目だよ、おじさんも食べなきゃ。それに、お魚は美味しいよ」
そう言って、なおも鮭を突き出してくるミネコ。小池は苦笑した。
「何だそりゃ」
結局、小池は弁当を半分だけ食べた。全体的に、味が濃いように感じる。昔は、こんなものを毎日食べていたのだろうか……いや、味の薄い刑務所の食事に舌が慣れてしまっているせいではないか。
だが、それよりも気になった事がある。
「ミネコ……自慢じゃねえが、俺は一度だって他人にご馳走したことなんかねえ。お前、ひょっとして誰かと人違いしてるんじゃねえのか?」
そう、小池は他人に奢ったことなど無い。それ以前に、シャバで他人と飯を食ったことなど、数えるほどしか無い。そんな小池が、女にご馳走した……有り得ない話だ。
しかし、ミネコは首を振った。
「違うよ。おじさん、あたしにご馳走してくれた。間違いないから」
自信に満ちた表情で言われ、さすがの小池も黙り込むしかなかった。もう仕方がない。ミネコは、当人にしか意味のわからない妄想に取り憑かれているとしか思えないのだ。もっとも、今さら見捨てる訳にもいかない。
これから、どうすればいいのだろう。
その時、思いついた事があった。小池は立ち上がり、歩き出す。
すると、ミネコも後に続いた。
「おじさん、どこ行くの?」
「昔、住んでいたアパートだよ。ここから歩いて十分くらいの所だ」
しかし、そこには何もなかった。
かつて小池の住んでいた、家賃四万円のアパート。しかし、いつの間にやら取り壊され、更地となっている。
小池は何もなくなってしまった場所を見つめ、ため息をついた。
心の中に残っていた、懐かしい思い出に浸れるかと思っていたのだ。だが、その思い出の場所は消えていた。
もう、自分には何もない。
途方に暮れた表情で、真幌公園のベンチに座り込む小池。ミネコはさっきから黙ったままだ。いつの間にか、あたりは暗くなっている。
だが、沈黙に耐えられなくなったのは小池の方だった。
「俺はな、どうしようもないクズだったんだよ。空き巣や車上荒らしなんかをやっててな、さらに覚醒剤までやってた。挙げ句、四年もム所に入ってたんだ。俺にはな、もう何も残ってない」
「おじさんは、いい人だよ」
呟くように言うミネコに、小池の眉がつり上がる。
「俺はいい人じゃねえ! お前なんか知らねえんだよ! お前は誰かと間違えてるんだ!」
「間違えてない。おじさんはこの公園で、あたしに毎日ごはんをくれた。さっきのお弁当だよ」
静かな口調で、言葉を返すミネコ。その落ち着きぶりが、小池をさらに苛立たせる。彼は、思わず立ち上がっていた。
その時だった。
待てよ。
公園で、ごはん?
それって……。
小池の頭に、かつての記憶が甦る。自分はこの公園で、毎日弁当を食べていたのだ。
醜い野良猫と一緒に。名前は確か……。
「お前、ミケコなのか?」
呆然とした表情で呟く。そう、この公園には一匹の野良の三毛猫がいた。片方の前足が欠損しており、三本の足で歩いていた。さらに皮膚病のせいか、体の毛がところどころ抜けていたのも覚えている。
可愛げの欠片もない、醜い三毛猫。だが、小池はその猫に毎日餌をあげていた。他の野良猫が来たら追い払い、三毛猫にだけ餌をあげた。彼はその猫に、自分の姿を重ねていたのである。醜い火傷痕のある自分と、皮膚病の上に足が三本しかない三毛猫。小池は、親近感を抱いていた。
そして小池は、その野良猫に名前を付けた。
ミケコ、と。
「やっと思い出してくれたんだね、おじさん」
そう言って、ミネコ……いや、ミケコは微笑んだ。しかし、小池はただただ唖然とするばかりだ。
「な……どういうことだ……何で……猫が……」
「おじさん、今日は特別な日でしょ。今日だけ、人間の姿でこっちに来させてもらったんだよ」
ミケコの言葉に、小池は唖然としながらも考える。どういうことだ。
「お盆、か」
ようやく、小池の口から言葉が出た。そう、今日はお盆だったのだ。
死んだはずの者が、こちらに戻って来る日。
「お前、死んでたのか」
小池の言葉に、ミケコは笑顔で頷いた。
「うん。おじさん、急に来てくれなくなったでしょ? あたし、心配になってさ。おじさんを探そうと道路に出たら、車に轢かれちゃった。あたし、足が三本だから避けられなくて」
あっけらかんとした表情で語るミケコ。だが、小池は顔を歪めた。
「待てよ……じゃあ、俺のせいで……」
「おじさんのせいじゃないよ。あたしのせい。あんな体で、道路に出たあたしが悪いの」
そう言った後、ミケコは小池の手を握った。
「おじさん、あたしの分も生きて、幸せになってね。おじさんは、本当に優しかった。あたし、人間に優しくされたの、生まれて初めてだったんだよ。あたしみたいな猫に、優しくしてくれる人がいる……本当に嬉しかった。それに、おじさんのくれたごはんは凄く美味しかった。おじさんがいなかったら、あたしはすぐに死んでたんだよ。おじさんは、本当はいい人なの。忘れないでね」
言い終わった後、ミケコは手を離した。小池に背中を向ける。
「じゃあ、もう行かなきゃ。あたしの分まで生きて、幸せになってね。約束だよ」
そう言って、歩き出した。だが、途中で立ち止まった。
「そうだ、忘れてたよ。おじさん……いっぱい、ありがとう」
次の瞬間、ミケコの姿がぼやけ始める。白い光のようなものに包まれた。
そこにいたのは、痩せこけた一匹の三毛猫だった。体の毛はところどころ抜け落ち、前足が一本欠けている。お世辞にも可愛いとは言えない姿だ。
だが、その目には溢れんばかりの親愛の情がある。
三毛猫は小池に向かい、にゃあ、と鳴いた。
そして、とことこと歩いて行く。三本の足でのんびりと歩き、夜の闇に消えて行った。
小池は、その場に立ち尽くしていた。今、見たものは現実だろうか。それとも夢か。
次の瞬間、彼はその場に崩れ落ちた。
拳を固め、地面を殴り付けた。
何度も、何度も──
「礼なんか言うんじゃねえよ! 俺はクズだ! 俺のせいで、お前は……」
その時、小池の口から嗚咽が洩れた。目からは、涙がこぼれ落ちる。
自分は、いい人ではない。
本当にいい人なら、ミケコを家に連れ帰り飼ってあげていたはずだ。
弁当の残りを与えるなど、誰でも出来る。ただの自己満足だ。それは断じて優しさと呼べるものではない。
ミケコの一生の面倒を見るだけの覚悟も甲斐性もなく、ただ自分がいい気持ちになりたいがためだけに、弁当の残りをあげていただけなのだ。
なのに、ミケコは……。
小池のことを本当に優しい、いい人だと思ってくれていたのだ。
ただの自己満足で餌を与える小池に、本気で感謝し……。
逮捕された小池を探して道路に出て、車に轢かれて命を失った。
にもかかわらず、死んでからも小池の前に姿を現わしたのだ。
ただ、一言の礼のために。
(おじさん……いっぱい、ありがとう)
「ぢぐじょう!」
小池は泣きながら、なおも地面を殴り続ける。彼の拳の皮膚が裂け、血が流れる。
「俺は……ぐずだ……俺のぜいで……じんだのに……俺のぜいで……」
小池は泣きじゃくった。両親を喪って以来、泣くことを忘れていた。だが、今は涙が止まらなかった。地面に額を擦り付け、泣き続けていた。
それから三年後。
小池が道端を歩いていると、塀の上からの視線を感じた。
顔を上げると、一匹の黒猫がこちらを見ている。顔がとても大きく、足も太い。まるで山猫のような風貌である。
にっこりと笑いかけた。
「よう、アレク」
そう、この猫はアレクという名だ。この周辺を仕切るボス、といった感じの貫禄ある佇まいである。普段は小池が声をかけても、知らん顔だ。
しかし、今日は事情が違うらしい。塀の上から、じっと小池を見つめている。いや、正確には小池が右手から下げているケースを。
「お前なあ……うちの子には、手を出すなよ」
そう言って、小池は歩き出した。すると今度は、前から犬を連れた少年が歩いて来る。
「あ、小池さん……お、ついに仔猫を貰って来たんですか?」
ニコニコしながら、話しかけてきたのは小林誠だ。近所に住む動物好きのとぼけた高校生であり、アレクと犬のシーザーの飼い主でもある。強面の小池に対しても、物怖じせずに話しかけてくる変わり者なのだ。
「そうだよ、誠くん。俺もやっと猫を飼えるようになったのさ。アレクに、いじめないよう言っといてくれよ」
仔猫の入ったケースを持ち、小池はゆっくりと歩く。あれから、あちこちの人に頭を下げた。その後は必死で働き、ようやくまともな暮らしが出来るようになる。つまらないプライドなどにこだわらず、一生懸命生きてきた。
すると……いつの間にか、この真幌市に居場所が出来ていたのだ。笑顔で接してくれる人も現れた。
全ては、ミケコとの約束のためだ。
(あたしの分まで生きて、幸せになってね)
ああ、俺はお前の分も生きるよ。
以前、伊左坂ぐうたらさんより、活動報告にいただいたコメントから生まれた作品であります。ぐうたらさん、ありがとうございました。