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第二話 ライバルの影を追って(4)

 喫茶店を出たところで迅雷は騒がしいカフェ・パドックの方に視線をやった。正確に云うと、ここからは見えないが、パドックの向こうにあるレーシングセンターの受付を見たのである。

「そういえば、片山さんって今どこでなにをしてるんだろう?」

 実況レディのジェニファーとして先のレースを実況してくれた片山とは、しかし特に一言もなく別れてしまった。

「受付に戻ってるなら挨拶しておきたいけどな」

「たぶんいないと思いますよ。実況レディや実況ファイターは、レースを実況したあと報告書のようなものを書かなきゃいけないって云ってましたから」

「なるほど、仕事中か」

 つばさの言葉に迅雷が頷いていると、車椅子のハンドルを握っていることりが云う。

「あとでメール打ってみますよ。今日はありがとうございましたって、迅雷さんの分も云っておきます」

「そうか。なら頼めるか?」

「はい」

 ことりはそう元気よく云って笑顔で頷いた。

 そのあと迅雷たち三人は、半地下のカフェ・パドックを取り囲む廻廊を通ってロビーまでやってきた。ここがこのレーシングセンターの入り口であり、エントランスホールとも云うべき場所だ。館内図もあるし、どこへ行くにもここから始めた方がいい。そうして、これからつばさたちにセンターのなかを案内してもらおうと云う矢先だった。

「待て、ことり」

 つばさが張り詰めたもののある声でことりにそう云いながら、電動の車椅子を操るスティックをニュートラルにした。云われたことりはもちろんのこと、迅雷もまたぴたりと足を止めてつばさを見る。

 つばさは眉間に皺を寄せてどこかある一点をじっと見つめていた。

「どうした、つばさ」

 迅雷はつばさの視線を追いかけた。そこは正面の出入り口のあたりで、センター内に出入りしている大勢の人が行き交っており、つばさが誰を、あるいはなにを気にしているのかが迅雷には判らない。

 ――見た感じ、変な奴はいないけどな。

 迅雷がそう思っていると、ことりが「あっ」と声をあげた。迅雷がそんなことりを振り返ると、ことりはつばさに困ったような目を向けている。

「どうしよう、お姉ちゃん」

「……撤退だ」

「うん」

 ことりが頷くと、つばさは車椅子のスティックを操作して方向を一八〇度変え始めた。ハンドルを握ったままのことりがそれに伴って向きを変える。

 わけがわからないのは迅雷だ。

「おい、どうした。なにがあった?」

「お兄さん、センター内の案内はまた今度にしましょう」

「なんで?」

「会いたくない奴がいました」

 その一言でつばさの変心の理由はわかった。もう少し詳しい話を聞きたいのはやまやまだったが、迅雷はそれ以上ぐずぐずせず、つばさたちとともにカフェ・パドックを取り囲む廻廊の方まで戻ってきた。そこの壁に身を隠しながら、三人揃って一階ロビーの様子を窺っている様は端から見れば奇異なものに映っただろう。しかし迅雷はそんな余人の視線などものともせずつばさに尋ねた。

「それで、誰に会いたくないって?」

「あいつです。あそこで輪になってる四人組がいるでしょう」

 そう云われてよく見ると、たしかにセンターに出入りする人の流れから少し離れたところで、中学生くらいの少年四人が輪になって話し込んでいる。

「あのなかの誰だよ?」

「髪の長い奴です」

 つばさのその言葉で、迅雷にも人物の特定ができた。それは細身の美少年だった。肩幅からして男であることは間違いないが、黒髪を結べるほどに伸ばしているのだ。背丈は一六五センチくらいで、白い長袖のシャツ、若草色のズボン、黒い靴といった装いである。立ち姿にどことなく優雅を感じるあたり、育ちは良さそうだ。そしてもちろん、迅雷にとっては初めてみる顔であった。

「あいつは……」

「プリンスですよ」

 つばさが苦虫でも噛み潰すような顔をして云う。一方、迅雷は聞き覚えのある名前に破顔してつばさを見下ろした。

「プリンスってあれか。さっき話に出た、おまえに惚れてるとかいう男。スリップに入った後続車に急ブレーキ踏んだって云う……」

「そうです、そうです。気取り屋の、髪を伸ばした、嫌みったらしい、金持ちでナルシストのなよなよしたお坊ちゃんですよ」

 さっきも聞いた悪口あっこうをつばさはふたたび繰り返して、プリンスなる少年を厄介そうに睨みつけた。

 つばさは美人である。およそ端麗な顔立ちをしており、黒髪は長く、肌はしろく、世が世なら仙女と云っても通じたであろう。

 そんな娘だから、周りの男たちが放ってはおかない。声をかけられたり連絡先を書いた紙を手渡されたりしたことは茶飯事で、これにほとほと嫌気の差したつばさは、いつのころからか自分には恋人がいると云って憚らないようになった。意中の女に決まった相手がいると知れば、男は退散するより他にない。たとえ邪恋のたぐいを胸に懐いたとしても、理性が諦めるように促してくる。偽りの恋人をでっちあげてそれを虫除けにしようと云うつばさの企みは、見事に図に当たったのだ。

 こうしてつばさは安寧を得たのだが、一人だけ、どうしても引き下がらない男がいた。

 それがプリンスだ。

「本名を、弓箭寺恋矢きゅうせんじ・れんやと云います。恋の矢と書いて恋矢だそうです。歳は私より一つ上の十五歳、中学三年生ですね」

「ふうん」

 一通りの話を聞き終えた迅雷は少し前に出て、自分の体でつばさを隠すような位置に立った。迅雷は恋矢に顔を知られていないので、見られたとしても問題はない。

「で、どうしても会いたくないのか?」

「一度絡まれると長いんですよ」

「根は悪い人じゃないと思うんですけどね……」

 つばさのけんもほろろな態度に少し同情したのか、ことりがそのように云い添えると、つばさはそんな妹をきっと睨みつけた。

「ことり、あいつに優しさを見せるな」

「あ、うん。ごめん」

 ことりがそう謝るのを尻目に、迅雷は肩越しに振り返って恋矢の姿をつくづくと見た。どう見ても美少年で、外見で女性に悪い印象を与えるようなところはない。が、レースにおいて卑怯な手を使うという話だから、つばさにとっては嫌いな男なのだろう。

 迅雷はつばさに顔を戻すと云った。

「それでどうする? 出入り口は他にもあるだろうから、そっちから抜けるか?」

「それはそれで業腹なんですよね。どうして私たちがあいつを憚ってやりたいことを我慢しなくてはいけないのか、という話ですよ」

 だからいったん廊下の壁に身を隠して様子を窺うことにしたのであろう。だがつばさたちが迅雷に話を聞かせてくれているあいだ、恋矢たちは話し込んでいて動かなかった。これ以上は我慢比べになる。

「俺に案内してくれるって話なら、別に今度でもいいんだが……」

 迅雷がそう云ったときだった。

「あっ、こっちに来る」

 ことりのその言葉に振り返ると、恋矢たちが連れ立ってこちらへ歩いてくるところだった。カフェ・パドックへ向かっているのか、それとも廻廊を目指しているのか。いずれにせよ、このままでは見つかる。

「うわわ」

 つばさはあたふたしながら電動車椅子を操作しようとしたが、なんといっても車椅子は大きい。いくら急いでも方向転換して移動し始めるのには時間がかかるし、迅雷の体をもってしても完全に隠しきることは出来ない。人目も惹く。だから見つかるのは、当然の成り行きであったろう。

「つばさ嬢!」

 恋矢がこちらを見てそんな声をあげたとき、なんとか車椅子の方向転換だけは済ませていたつばさががっくりと項垂れた。

「ああ、見つかった……」

「あはは」

 と、ことりは苦笑いをして、本気で厭がっているつばさの気を楽にしようとしているようだ。一方、恋矢は連れの三人に一言断るとこちらへ駆けてきた。

 廻廊の入り口をふさぐような位置で、迅雷たち三人と恋矢は対面した。

「久しぶりだね、つばさ嬢! 会えて嬉しいよ!」

「私はまったく嬉しくない」

 そう云ってそっぽを向いたつばさに軽く肩をすくめた恋矢は、そこで迅雷に気づくと軽く手を挙げて云う。

「ああ、君。邪魔だよ。どいてくれたまえ。そんなところに突っ立っていられたら人の迷惑じゃないか」

「えっ? ああ……」

 迅雷はその恋矢の反応で、どうやら彼が迅雷をつばさとは無関係の第三者、たまたまここで立ちん坊をしていただけの男と看做みなしているのを素早く感じ取った。

 ――さて、どうしたものか。

 迅雷はつばさに視線をあてた。こういう場合、迅雷が自らなにかを云うより、つばさに迅雷を紹介してもらった方がいいと思ったのだ。

 つばさの方でも迅雷を見上げていた。その顔は一瞬惚けていたが、次の瞬間には雲間にちらつく流れ星を見つけたような、素晴らしい思いつきを得た人のそれになった。

 つばさはにんまり笑うと、恋矢を見据えて笑いを含んだ声で云う。

「プリンス。無礼なことを云うな」

「えっ?」

 目を丸くする恋矢の目の前で、つばさは素早く腕を伸ばすと迅雷の手を取った。冷たい手だった。基礎体温が低いのであろうか、と迅雷が場違いなことを考えていたその矢先、つばさがいきなり爆弾を落とす。

「この人の名前は疾風迅雷。私の恋人だ!」

「は、はああっ?」

 大声をあげたのは迅雷であった。車椅子のハンドルを握っていることりはと胸を衝かれたかのようだ。そしてプリンスこと恋矢は、目と口を丸くしてただただ茫然としていた。

 そんな恋矢をつばさがわらう。

「どうしたプリンス、なにを驚く? 私に彼氏がいるとは以前から云っていただろう」

「ば、馬鹿な……」

 恋矢が後ろへよろめき、倒れまいとどうにか踏みとどまった。その脆そうな動きから、彼が本当に衝撃を受けたのが判る。

 一方の迅雷も、心は天高く蹴り上げられたボールのようであった。

「おい、つばさ。おまえ、なにを云って――」

「えっ? だってお兄さんは私の恋人ですよね?」

 つばさはそれが当然といった顔をして迅雷を見上げてくる。その黒い瞳に切なる祈りが込められているのを迅雷は見過ごさなかった。その傍らではことりもやはり一心に迅雷を見つめていて、その眼差しは迅雷に願いをかけるかのようだ。姉妹の心は一つだった。

「おまえら……」

 最初の動揺を乗り越えると、迅雷にはつばさがなにを考えてこんなことを云い出したのかがすぐに解った。

 つばさは元々、いもしない恋人の存在をでっちあげて自分に声をかけてくる男を追い払っていたのだ。しかし恋矢だけが架空の恋人の存在では引き下がらなかった。ではどうするか? 恋矢の目の前に、その恋人を引っ張り出すより他にあるまい。その恋人役として白羽の矢を立てられたのが迅雷というわけだ。

 ――うむむ!

 冗談ではない、という気持ちもなくはない。しかしつばさには恩がある。今日シートを譲ってくれて、コックピット・ドリルもしてくれ、一緒に走ってくれた。明日からはオンライン・フォーミュラの入り口に立ったばかりの迅雷の面倒を、ことりと一緒に引き受けてくれると云う。

 ――世話になってばかりで、興味のない男につきまとわれて困っている娘を見捨てるのか?

 そこに想い至れば、もう答えは決まっていた。それになにより迅雷自身がつばさを気に入っていたのだ。守ってやろうという気持ちが芽生えたのは、当然のことだった。

「そうだ。俺がつばさの恋人で、つばさは俺の女だ」

 つばさとことりの眼差しに応えて、迅雷はそう肯んじていた。これで迅雷はつばさの芝居に乗ったことになる。あとはもう最後まで演じきるしかない。腹を括った迅雷は、らいに打たれたがごとき様子の恋矢を、長身にものを云わせて見下ろしながら云う。

「おまえがプリンスか。つばさから色々と聞いてはいたが、思った通り、気に食わない面をしてやがるな」

「ちょっ……!」

 その喧嘩腰の言葉に色をなくしたのはことりである。ことりは血相を変えて迅雷に身を寄せると背伸びして蚊の鳴くような声で囁いてきた。

「じ、迅雷さん、それ、初対面の人に云う言葉じゃ……」

「自分の女にちょっかいかけてる奴に『コンニチワー』なんて笑顔で挨拶する間抜けがどこの世界にいるんだよ。こういうのは啖呵を切るくらいでちょうどいいんだ」

 迅雷はそうことりを撥ねつけると、ふたたび恋矢を見下ろして云う。

「こいつは美人だから惚れてしまうのも無理はないが、俺の女なんだよ。わかったらもう二度とつばさには近づくな。いいな?」

 迅雷にそうねじ込むように云われた恋矢は、しかしまだ理解が追いつかないらしい。

「つばさ嬢の恋人……そんな、そんな馬鹿な……!」

「おい、聞いているのか?」

 迅雷がドスを利かせた声で尋ねると、恋矢は怯んだような顔をして迅雷を睨んだ。

「……つばさ嬢の恋人、実在したのか。僕はてっきりつばさ嬢が男を退けるためにでっちあげた架空の存在だとばかり思っていた」

 うぐ、とつばさが唸る。

 ――当たりだよ。

 と、迅雷も心のなかで舌を出した。なるほど、恋矢が全然引き下がらなかった理由の一つには、そのあたりの嘘を見破っていたというのもあるのかもしれない。

 恋矢は被害者の目をしてつばさを見た。

「本当なのか、つばさ嬢。本当にこの男が君の恋人なのか」

「もちろんだ。既に将来を誓い合った仲で、結婚の約束もしている」

 ――それは話がぶっ飛びすぎだろ! なんで俺とおまえが結婚することになってるんだよ!

 そうは思えど、恋矢の前でぼろを出すわけにはゆかない。迅雷は驚きに打たれている恋矢の貴公子然とした顔を睨みつけると、しかし口吻を和らげて優しく云った。

「まあそういうことだからさ、これ以上つばさにはちょっかいかけないでくれ。でないと俺はその綺麗な顔をぶん殴っちまうかもしれないぜ?」

 恋矢はちょっと青ざめた。華奢な体格をしているし、指先は女のように整えられているし、荒事は苦手なのだろう。一方、迅雷は身長一八〇センチの立派な体格をしていて恐れを知らない。

「返事はどうした?」

 優しげなゆえに、却って怖さを感じる声だった。つばさが息を凝らし、ことりがちょっと後ずさる。迅雷の脅しが芝居と知っている二人がこれだから、このうらなりの王子など尻に帆をかけて逃げ出すであろうと、迅雷は思っていた。しかし。

「返事は、ノーだ!」

 恋矢はいかにも破れかぶれにそう叫ぶや、驚いて目を丸くする迅雷の前で、またしてもつばさに食ってかかった。

「どういうことだ、つばさ嬢。君は以前、僕にこう云ったじゃないか。私はオンライン・フォーミュラにおいて私より速い男性ひとじゃないと恋愛対象にならない、と。こいつがそんなに速いのか!」

「もちろんだ。お兄さんは私より速い。お兄さんがオンライン・フォーミュラを始めたのは今日のことだが、以前からリアルでレースをしていて、速いことはわかっていた。だから私はお兄さんに身も心も捧げたのだ」

「身も、心も……」

 ――おいおい、待て待て。

 迅雷はつばさに視線をあてた。なにかどんどん外堀を埋められているような気がして、文句の一つもつけたかったけれど、つばさはこの状況を愉しんでいるかのような笑みを浮かべている。

 一方、恋矢は本当に傷つけられ、打ちのめされているようだった。迅雷は少しばかり恋矢を気の毒に思ったが、恋愛にはイエスかノーのどちらかしかない。どんなに惚れ込んでも相手がうんと云ってくれなければそれまでなのだ。

 これ以上、傷つく前に退散すればいいものを、恋矢はつばさを睨みつけてふるえる声で問い糾し始めた。

「つばさ嬢、君に問おう。君が速い男が好きなのは解ったが、いったいぜんたい、なにを以て速いと云えるのだ。ラップタイムか。それともレースの勝敗か。云っておくがレースに一度勝ったくらいではまぐれかもしれないぞ。そう、かくいうこの僕も、君にまぐれ勝ちをしたことがある」

「ああ、憶えているよ。私がコントロール不能に陥った車に接触されて停車した隙をついたんだったな。そういえばあのとき追い越し禁止のイエローフラッグが出ていたはずだが、おまえそれを無視して私を追い抜いたよな」

「旗を無視したのか?」

 迅雷は目を丸くした。レースにおいて旗を無視するのは、審判の声を無視するのと同じである。だが恋矢は悪びれた様子もない。

「うるさい、レースは勝てばいいんだ。それでどうなんだ、つばさ嬢。君は速ければ誰でもいいのか」

「そんなわけない。が、そうだな……私がなぜお兄さんを速いと認めたのか」

 つばさは口元に指をあてた。恋矢に問われて、初めて自分の心を理性的な目で見ているらしい。

「プリンス、レースの勝敗については運も絡むとはいえ、やはり勝った者が速い。タイムももちろん重要だ。しかし私がお兄さんを速いと認めたのは……なんとなく、かな」

「はあ?」

 恋矢がそう不満そうな声をあげたが、迅雷とてその答えではなんとも据わりが悪かった。

「おい、つばさ。なんとなくって、それはないだろう」

 迅雷は不機嫌な声を発したが、つばさは落ち着き払った様子で迅雷を見返してくる。

「でもお兄さん、私がお兄さんのことを速いと思ったのは、勝敗やタイムゆえじゃないんですよ。一緒に走って、この人、速いな、凄いな、と思った。それだけなんです」

 その真っ直ぐな言葉に迅雷は胸を貫かれた。たちまち面映ゆくなって、口元が緩んでしまう。

「そ、そうか」

 理屈でなく直感ということならば、解説したり註釈をつけたり出来ないものならば、それは純粋な賞賛ということだ。それだけの気持ちを自分に向けてくれたことが嬉しい。

「ありがとう」

 迅雷が珍しくうろたえた声でそう礼を述べ、それにつばさが微笑みを返したときだ。恋矢が地獄から聞こえてくるような声でこう切り出した。

「この男は速くて凄い、か。ならば!」

 恋矢は不倶戴天の敵を見る目で迅雷を睨みつけてくると、突然、右手の人差し指を突きつけてきた。

「おい、貴様。疾風迅雷とか云ったな。貴様もバーチャルレーサーなのだろう。ならば決闘を申し込む! つばさ嬢を懸けて、レースで僕と勝負しろ!」

「はあ?」

 迅雷は思わずそんな声をあげてしまった。いったいこの男はなにを云っているのだろう? だが完全に頭に血が上っているらしい恋矢は衆人環視のなかだと云うのに気にした様子もなく声高に叫んだ。

「そう、勝負だ。そして僕が勝ったらつばさ嬢は貴様と別れ、僕と交際するのだ! 速い男が好きだというなら、それで異論はないはずだ!」

 迅雷はしばしの沈黙を挟んでやっと尋ねた。

「……おまえ本気か?」

「本気だとも。ここでそう簡単に引き下がるくらいなら、つばさ嬢に『恋人がいる』と云われた時点で退散していた。だいたい貴様のような、いかにも粗暴な男につばさ嬢を任せられるものか。この自らの足で立ち上がることも出来ない可哀想な少女を見ろ! 彼女は僕が守るのだ!」

 そう宣言する恋矢は清冽だった。つばさの方がどう思っているかはさておき、つばさを守ると云い切る恋矢の目に汚濁はない。

 迅雷は初めて、このプリンスを見直した。

「……うらなりと思ったが意外と闘志があるじゃないか。いいぜ。だがおまえ、俺に負けたら俺の許可なしでつばさに話しかけるなよ?」

「いいだろう、僕も男だ。二言はない」

 このようにして男二人で話を纏めてしまったときだ。

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 ことりだ。色をなくしてそう叫んだことりが、うろたえた様子で迅雷たちを見てくる。彼女は今にも泣き出しそうだった。

「そ、そんなの絶対駄目ですよ。レースに負けたら付き合うなんて、そんな馬鹿な話はありません。好きじゃない人となんて……駄目です! ねえ、お姉ちゃん?」

「私は別に、駄目ではないが……」

「えええっ、そうなの?」

 ことりは目を見開いて、姉を信じられぬように見た。そんなことりを思いやりに溢れた目で見たつばさは、ふむと一つ頷いて云う。

「だがおまえがそこまで反対するなら……」

 この話は断ろう、とつばさは云おうとしたのかもしれない。だが迅雷は構わず傲岸に云い放った。

「おまえは俺に下駄を預けた。その時点で俺に運命を任せたも同然、俺がイエスと云ったらおまえもイエスなんだよ。わかったか?」

「そんな無法な、強引な……」

 つばさは迅雷をそう詰りながらも、どういうわけか目のなかを濡れ光らせていた。頬を紅潮させ、口元に淡い笑みを浮かべていた。

「……逆らっても無駄なんでしょうね」

「無駄だな!」

 迅雷が竹を割ったように断言すると、つばさは仕方のなさそうに頷いて、低声こごえで笑って云った。

「私の愛しい暴れ馬」

「うん?」

 小さな声だったので、迅雷はよく聞き取ることが出来ずに聞き返した。しかしつばさはそれを躱して、迅雷に眼差しを据える。

「お兄さん、一つ約束してください。必ず勝つと」

「いいとも。俺は必ず勝つ」

 迅雷はそう云って強気に笑うと、つばさもまたにっこりわらって頷いた。

「いいでしょう、わかりました。それなら私はお兄さんに私を懸けます。だって私は、あなたが好きなんですから」

 その告白があまりにも真に迫っていたから、迅雷は本当に愛を打ち明けられたような錯覚を覚えた。だがそんなはずはない。つばさも恋人の芝居をしているはずだ。

 ――演技だよな?

 迅雷は心でそう問いかけたが、つばさはアルカイック・スマイルを浮かべていて、その心が読めない。

「お姉ちゃん」

 と、ことりもまた目を丸くしている。迅雷とつばさはそのままいつまでも見つめ合っていられただろうが、生憎と今はここに邪魔者がいる。恋矢だ。彼がごほんとわざとらしい咳払いをするので、迅雷はつばさから目を切って恋矢を見下ろした。

「おっと、すまんすまん」

 笑ってそう云った迅雷は、恋矢に向かって胸板を突き出すようにした。

「さて、プリンス。レースで勝負ということだが具体的にいつどういうルールでやる?」

「……僕はこのあと他のレースの予定がある。シートの予約も合わせなくてはいけないし、その辺りのことは後日、改めて詰めたいと思うが?」

「いいだろう。となると、アドレスの交換でもするか?」

 迅雷は懐の携帯デバイスに手をやりながら云ったが、恋矢は腕組みをしてそっぽを向いた。

「貴様と連絡先の交換など冗談ではない。ここで会えばいいではないか」

「そうか。なら明日かな? 明日は月曜日だが……」

 中学生と高校生の違いはあれ、学校が終わるのはだいたい午後四時である。そのあと秋葉原までやってきて夕方に二時間くらいであれば時間の捻出は出来るであろう。

 しかし恋矢はかぶりを振った。

「次の土曜日でいいだろう。僕は君と違って忙しいのだ」

「――俺も相当忙しいんだけどな」

 迅雷はそうぼやくと、それから恋矢と土曜日の昼過ぎにこの秋葉原センターで落ち合うことを約束した。そのあと恋矢は踵を返し、こちらを遠巻きにしていた三人の友人のところへ引き返していった。

 彼らの姿が見えなくなったところで、迅雷はふうとため息をついて壁にもたれた。ことりもまた疲れ果てた様子で車椅子のハンドルを持ちながら云う。

「あの、ちょっとそこの休憩コーナーへ行きませんか? 私、なんだか疲れてしまって」

「ああ、いいとも」

 迅雷は二つ返事で頷いた。


 それから三人は廻廊を出てロビーを横切り、受付とは反対側にあった休憩コーナーへとやってきた。そこには長椅子がいくつかと自販機が設置されており、誰でも自由に座ることが出来る。つばさは車椅子を長椅子の端に着けた。そのすぐ傍にことりがちょこなんと座り、迅雷はことりの隣にどっかりと腰を下ろした。

「ああ、面倒くさいことになった」

 それにはつばさがたちまち唇を尖らせて迅雷を軽く睨んできた。

「面倒くさいとは何事ですか。私の運命がかかってるんですよ?」

「そうだけど、それも元を正せばおまえが大嘘をつくからじゃないか。なんだよ、恋人って。しかも婚約者って」

「えへへ、いいじゃないですか」

 つばさは美人のくせにちょっと気持ちの悪い笑い方をする。そんなつばさをことりも気遣わしげに見た。

「お姉ちゃん、本当にあんな約束しちゃってよかったの?」

「いいのだ。恋人に自らの運命を託すというのは……うん、実にいい。素敵だ」

 つばさはそう云って頷くとしばし夢見る乙女の顔でぼんやりと虚空を見つめてから、ふと思い出したように迅雷を見る。

「ところでセンターの案内ですけど……」

「なんかそんな気分じゃなくなっちまった。出入りしてればおいおい覚えるだろうし、それはまた今度時間のあるときに頼むよ」

「はい。ならば明日のことですが、学校の終わったあとで来られますよね?」

「大丈夫だ。強いて云うなら毎日のこととなると電車賃が少し心許ないが……まあ、なんとかなるだろう」

「わかりました。ではまずシートの予約をしましょうか」

 つばさがそう云うと、云われずともことりが車椅子の荷台にあった鞄のなかからタブレットを取り出してつばさに手渡した。

「シートの予約は各センターの受付からでも出来ますが、大抵はオンラインでやります。月曜から金曜まで、二人分のシートを取りますよ?」

「ああ、もし行けなかったらおまえとことりの二人で使ってくれよ」

 このようにして予約をしているあいだ、迅雷はこの休憩コーナーとはロビーを挟んで相対している受付に目を放った。ジェニファーこと片山の姿はどこにもない。

 ――いないか。

 迅雷が少しばかりの寂しさを感じていると、つばさがタブレットから目を上げて笑う。

「出来ました。これで明日から一緒ですね!」

「お、おう……」

 迅雷は頷いたものの、つばさをやけに近くに感じた。物理的に近いというのではなく、精神的に近い気がするのだ。

 つばさはタブレットをことりに返すと、迅雷を見つめて切り出した。

「それでですね、お兄さん、これは非常に重要なことなのですが……」

「なんだ?」

「はい。私たちは仮にも恋人同士ということになったわけですから、常日頃からそのように振る舞った方がいいと思うのです」

「え?」

 迅雷のその反応は、つばさが期待していたものとは違ったのであろう。つばさは少しばかり体を揺すると続けた。

「ほら、壁に耳あり障子に目ありと云いますし、いつどこで誰が見ているか判らないじゃないですか。いざというときに破綻したら大変ですし、演技は完璧でないと」

「まあ、そうだな」

 迅雷がそのように認めると、つばさは右手をぐっと握りしめた。まるで勝ち誇るように。迅雷はそれを見て念のために尋ねた。

「……演技だよな?」

「もちろんじゃないですか」

 うふふとわらうつばさの返事を聞いて、迅雷はこの少女から感じた一種の爆弾、もっとはっきり云うと地雷のような気配をなにかの間違いだと思うことにした。

 そのあとつばさたちの家の家政婦だという女性がメールを寄越してきたので、彼女が姉妹を迎えに来るまで迅雷はその場でつばさたちと談笑をして過ごした。

 つばさたちと別れたあと、帰りの電車のなかで迅雷は一人思う。

 明日からつばさたちにオンライン・フォーミュラについて教えを乞いながら、真玖郎の持っているタイムアタックの記録に挑戦していく。それと同時にレースもこなしてDPも貯めねばならない。そして土曜日にはプリンスこと恋矢と会って、つばさを懸けたレースをどうするかについて話し合うことになっている。

 ――やれやれ、忙しくなってきたな。真玖郎へ一直線というわけにはいかないか。だが見ていろよ、真玖郎。俺は必ずおまえの影を踏んでやる。そしておまえと云う男を、勝負の場へと引きずり出してみせるぞ!

 迅雷は戦いへの決意を込めて、電車のドアの窓硝子に握り拳をこつんとぶつけた。

第二話はこれで終わりです。

第三話はプリンスとの勝負。時期は一月中に始められたらいいなと思っていますが、二月にずれこむかもしれません。

とにかく予定であって約束するわけではないのですが、なるべく早くお届けできるように頑張りますので、気長にお待ち下さいませ。

それでは皆様、よいお年を。

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