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当主氏資

第七話『当主氏資』

太田氏資、岩付城を落とし、父の太田資正を追放。まさに資正にとって悪夢であろう。資正は上杉輝虎に恭順していたとはいえ、さすが太田道灌の末であり関東に確固たる勢力を誇っていた大名である。それが一夜にして、ただの牢人となった。まさか、まさか息子に裏切られてこんな恥辱にまみれようとは。

必ず城を奪回する。このまま終われば末代までの笑い者。怒りを目に宿しつつ資正は次男政景と共に宇都宮を発ったのであった。


この太田氏資の岩付城乗っ取りを激怒した者がいる。資正の正室、つまり氏資の母の南畑姫である。夫と息子の不和、これは彼女自身も懸念し、資正に仲直りをくどいほど懇願した南畑。だが結果は最悪のものとなった。よもや息子氏資がこんな暴挙に出ようとは。

「このたわけ者!父を追放して城を奪うなど、お前ほどの不孝者はおらぬ!」

南畑の父は武州難波田城主の難波田善銀で、あの松山城風流歌合戦で名高い智勇兼備の坂東武者である。善銀は河越夜戦で討ち死にしているため、彼女にとって北条氏は父の仇である。扇谷上杉家に最後まで殉じて戦い抜いた父善銀を心から尊敬している彼女にしてみれば、息子の裏切りは断じて許せるものではない。氏資の妻の英姫が北条氏康の娘であったため、太田の嫁と姑は大変な不仲でもあった。母の責めに氏資は冷淡に答える。

「母上にも言いたいことはございましょうが、それがしとて好きでやったわけではございませぬ。父上があのまま北条に与していればそれがしも孝行息子でおられたのです」

「たとえ父上と意見が分かれても、家の方針を決定するのは父上であろう!息子のお前はそれに従うのが忠孝。それともそこの北条の娘に骨を抜かれたか!」

息子氏資の横にいる英姫をキッと睨む南畑、しかし英は目を合わせず無視している。

「源五(氏資)、重臣の平柳蔵人を覚えておるか」

「もちろん覚えております。國府台で討ち死にしたと聞いていますが」

「殿を助けるためしんがりを買って出た。その時に蔵人が殿に何を願ったと思う?」

「さて、存じませぬが」

「蔵人は平柳家のことなど何一つ望まなかった!蔵人が殿に望んだのは源五様と仲直りし、親子末永く仲良うというものであった!」

「……」

「殿は、父上はその願いを聞き、先の北条の進攻を退けた後にお前を迎え入れて世継ぎに指名するつもりであったのに!」

「ほう、初めて聞きました」

「お前は、そんな父上の気持ちも、重臣蔵人の死を賭した願いも踏みにじったのじゃ!そんな男が太田の当主になろうなど、この母が認めぬ!すぐに父上に岩付の城を返して腹を切って死ね!」

「お断りいたします」

「なら私を殺すがよいわ。北条に尻尾を振るお前に難波田の母親などもはや不要であろう!」

息子の謀反を知った彼女は自害しようとしたが、それは氏資に止められていた。その理由とは

「母上には北条家の人質になってもらいまする」

「な、なんじゃと!」

「まあ、それはよきお考えです殿、さんざん北条を苦しめたと云う難波田善銀の娘が人質となれば父上も喜びます」

「源五、英…!おのれらはつい昨日まで敵であった北条に母を差し出して己の安泰を図るつもりなのか!」

「ご心配なく義母上様、父の氏康に丁重に遇するよう私から一筆添えますので」

氏資と英は南畑の前から去っていった。無念の南畑は

「もう母でもなければ息子でもない!お前のような外道、産むのではなかったわ!」

一向に意に介さず部屋を出ていく氏資、嫁の英は南畑の怒声を負け犬の遠吠え程度しか思っていないのか嘲笑している。

「殿…。源五はもはや我らの息子ではありませぬ。息子に北条へ売られるとは!」



すでに岩付城の支城である日之出砦の佐枝信宗、御蔵館の松野助信、南中丸砦の春日景定も氏資に付いたと云う。いかに太田資正が名将とはいえ、城も領地も失ってしまったのだから家臣たちもついていきようがない。

資正の言う通り、氏資は弟の潮田資忠に使いを出してきた。宇都宮より引き上げていた潮田勢、上州館林に到着したころ資忠の本陣に氏資家老である柏原太郎佐衛門と河名辺越前がやってきた。この両名は資忠で言えば北沢宮内と加藤大学と同じで、氏資元服のおりに父の資正が付けた家臣である。太郎佐衛門が資忠に平伏した。

「ご舎弟、源七郎殿にあってはご機嫌うるわしゅう」

「あまり機嫌は良くない」

「ほう、上州の乾燥した空気に当たり、風邪でも召しましたか」

「ぬけぬけと太郎佐! なぜお止めしなかったのか!」

北沢宮内が怒鳴った。河名辺越前が資忠に訊ねた。

「源七郎殿、それは兄君大膳殿(大膳大夫、氏資の官位)の岩付乗っ取りのことを申していますので?」

「他に何がある越前」

資忠も氏資家老の二人を睨んだ。

「父上は北条を退けた後に兄上を世継ぎとして迎えるつもりであったのに!」

「北条を退けた後に? はっははは」

「何がおかしい太郎佐!我が主を愚弄するか!」

温和な加藤大学も怒鳴った。

「いやいや、これは御無礼を。さりとて取らぬ狸の何とやらもいいところ。源七郎殿、お屋形様がああせなんだら、岩付も寿能も北条に蹂躙されていたのは必定ですぞ」

彼らの言う『お屋形様』とは氏資のこと。つい先日まで資正のことをそう言っていたのに。変わり身の早さが腹立たしい資忠であった。しかし顔に出さず静かに兄の重臣に訊ねる。

「太郎佐、実際に北条と戦っていたら太田は負けていたと申すのか?」

「負けたでしょうな。國府台の大惨敗により立ち直っていないうえ、北条は勢いに乗っておりまする」

「佐竹、宇都宮、成田を味方に付けていた!父上の采配なら十分戦えた!」

「源七郎殿、勝ち負けではござらぬ」

「な、なに?」

「勝ったとしても佐竹、宇都宮、成田に領地を恩賞として差し出さなければならなかったでしょうな。領地は戦に勝っても負けても削られたのは必定。御先代(資正)が北条の大軍寄せると知った時、執るべき道は北条への抗戦ではなく降伏でございました。そして子息のいずれかを当主に据えて御先代は過去の裏切りの代償として首を差し出せば良かったのでござる。ならば太田も岩付城も安泰であった」

「それが坂東武者の言うことか!」

戦わずに降伏など出来ようはずがない。弓矢を避けて降伏し、家の安泰を図るなど唾棄すべきこと。

「落ち着け宮内!」

激昂する北沢宮内を諫める大学。柏原太郎佐衛門が続ける。

「その坂東武者の矜持とやらで、罪なき岩付や寿能の領民が北条に殺されることにお屋形様はがまんならなかった。それゆえ父の追放と云う汚名を被るのを覚悟の上で挙兵された」

「左様、我ら両名とてご先代、いえ大殿を裏切るのは砂を噛む思いでござった。しかしまこと太田の家を思い、私心は捨てたのでござる」

河名辺越前も添えた。そして続ける。

「結果をご覧あれ。岩付も寿能も戦火に巻き込まれず、民は今まで通り田畑に励んでいる。お屋形様の行い、何か誤っておりますかな」

資忠、そして宮内と大学も返す言葉もない。柏原太郎佐衛門が

「源七郎殿、寿能十万石はどうされるのか伺いたい。流浪の父上に付くか、それとも太田家当主となった兄上に付くか」

「兄、大膳殿が岩付の主になってより時間はございました。よもやまだ決めかねていると云うことはございますまいな」

「太郎佐、越前、潮田の腹は決まっている。兄源五につく」

「英断にございまする。されば、すぐに岩付のお屋形様に知らせますゆえ、我らはこれにて」

柏原太郎左衛門と河名辺越前は潮田陣を去っていった。


潮田資忠は宇都宮の陣で父の資正と次兄政景と袂を分けた。彼なりの苦渋の決断だった。太郎左衛門と越前が去り、肩を落として溜息をつく北沢宮内。

「…大変なことが起きてしまいましたな」

「ああ、まさか兄上がな…。で大学、家中に混乱は生じてないか」

「はい、幸か不幸か、選択の余地がないことが当家の分裂を避けられたかと」

加藤大学が答えた。強いて言えば牢人となるか、帰農するか、もしくは新当主の氏資に謀反すると云う選択肢もあるだろうが、すでに城を預かり、十万石の大名となっている資忠にとっては牢人や帰農と云うわけにもいかず、かつ謀反をすれば太田家の内乱は激しさを増し、上杉と北条いずれにせよ太田は同胞足りえずと見限られてしまうのは回避できない。

加えて氏資の動きは早く、領内の有力家臣たちに手を回して味方につけており、今さら寿能十万石が立ち向かっても勝ち目はなかった。潮田家にはもう選択肢はなかったのだ。

「それがしは複雑な気持ちでございます。大殿に目をかけられ、そして殿に付けていただけた経緯がござれば」

北沢宮内は太田家でも合戦上手と知られていたが、すべて主君資正の薫陶によるものだ。

「宮内、それはわしとて同じ。国の治め方を大殿に仕込んでいただいた」

加藤大学にとっても資正は政の師である。彼らは本来潮田家ではなく太田家の家臣なのだ。

「宮内、大学、気持ちは分かるがわしの側にいてくれ。そなたらがいないとわしは何も…」

「ご心配あるな、大殿に『源七郎を頼む』と言われた我らです。もはや潮田の者でござる」

北沢宮内が答えた。

「ありがたい、今後も頼む」

「殿、何はともあれ寿能に戻らなければ」

「そうだな、寿能城にも兄上の謀反が届いて留守の者が心配していようからな。万事それからだ」

「御意」


潮田勢は館林を後にして寿能城に引き返した。その帰途中のこと、資忠は兄の氏資に召し出しを受けた。資忠は命令に従い、岩付城に立ち寄った。いつも父の資正が座っていた城主の席に兄の氏資が座って待っていた。北沢宮内、加藤大学を伴い、兄にかしずく。

「寿能城主、潮田出羽守資忠にございます」

「太田大膳大夫である。顔をあげよ」

資忠の顔を見つめる氏資。

「ほう、しばらく見ぬ間に、だいぶ武士らしい顔になったではないか」

「きょ、恐縮にございます」

「先だって寿能十万石がわしに付くことは聞いた。嬉しく思う」

「はっ…」

「宇都宮で父上と源太(政景)と別れたらしいな。わしの挙兵を聞いた時、父はどうであった?」

「息子に裏切られたと落胆していました」

「そうか…」

寂しそうに笑う氏資だった。

「兄上、あれ以外に方法はなかったのですか?」

「岩付を落とし、父上を追放する以外にか?」

「はい」

「すべては父上が北条と袂を分けたのが始まりだった」

資正と氏資親子は何も氏資が幼少のころから不仲であったわけではなかった。それどころか思慮深く、かつ勇猛に育ってくれた嫡男を愛していた。北条に与していた当時の戦いでは幾度となく父の資正を助け、資正も頼もしき世継ぎに太田は安泰と喜んでいた。

だが、太田資正は北条氏との盟約を断ち関東管領を拝命した上杉輝虎に属した。北条氏康の娘を妻としていた氏資にはとうてい飲めることではなかった。幾度も反対したが父の資正の気持ちが変わることはなく、太田家は上杉輝虎の先鋒として北条氏を攻めるに至る。これにより当主資正と嫡男氏資の間に溝が入った。そしてその溝は二度と埋まることはなく、太田資正は息子に城を奪われたあげく、追放されてしまったのだ。

「北条の進攻を追い返した後、父上がわしを世継ぎとするつもりであったとは母上から聞いた」

「はい、父上より直に伺いましてございます」

「だが、すべて後の祭りだ」

「事前にそれを知っていれば岩付に攻めなかったと?」

「それは分からん。父上は確かに戦がうまい。しかし、今回の北条進攻はどう考えても防げないと思った。國府台での大敗で太田の猛将たちをことごとく失い、士気も落ちているところに勢いに乗る北条が寄せてきて何故勝てる。佐竹、宇都宮、成田がどこまで太田のためにがんばってくれるかも疑問だ。太郎佐が言ったであろうが父上の執るべき道は抗戦ではなく降伏だったのだ。政景、資武、お前のいずれかに家督を譲り、裏切りの代償として己が首を差し出すべきであったのだ。さすればわしは太田の当主は弟のうち誰でも良かった。わしは一僧侶として父上を弔い生きていくつもりだった。しかし父上は抗戦を決断した。太田の領地が蹂躙される。我ら武士が死ぬのはいい。だが我ら太田をずっと支えてくれた民が北条に八つ裂きにされる。我が国の娘たちが血に飢えた北条の雑兵に凌辱される。父上の矜持、坂東武者の誇り、そんなものより民の命はもっと尊いはずだ」

「兄上…」

兄の氏資の決断が無ければ、寿能十万石もそうなっていたのだ。見沼の水面が血に染まってしまったのだ。

「兄上の心、源七郎め、よく分かりました」

北沢宮内、加藤大学も主の資忠と共に平伏した。

(民のため)

それを言われては何者も反論することは出来ない。以前より民を踏みつけにするような氏資であったならば取り繕いに過ぎないが、氏資は民を大変慈しむ若武者であった。民のためには父を追放して北条に組すること、それが戦火から逃れる唯一のすべなのだと本心から思ってのことだったのだろう。正しいとか過ちと云うことではない。民のためにやった。氏資には、それが是で義であった。資忠には兄のそんな愚直さに危機感を覚えずにはいられなかった。


その守ろうとした民が、今回の暴挙とも云える行為を受け入れてくれると思っているのだろうか。氏資より、わずか先に小国とはいえ為政者になっていた資忠にとって、それはあまりにも甘い見通しと思えてならない。一揆が乱発する。

(民のためと云うのならば、家の方針を受け入れて父上に孝を尽くすべきではなかったのですか兄上…)

だが資忠に選択肢はもはやない。兄と共に進むしかないのだ。

「兄上、源六兄上(資武)はどうされました?」

「…説得はしたが源六はどうしてもわしと旗を同じに出来ぬらしい」

「…まさか」

「殺してはおらぬ。あの病がちの体では、わしが手を下さずとも勝手に死のう。せめてもの兄の情け、死す日まで捨扶持でも与えておく」

胸を撫で下ろした資忠。帰りぎわ、会っていこうと思ったが資武は伏せていた。病がちの資武には今回の兄の挙兵は心身ともに衝撃が大きすぎた。資忠が来たのを見て、資武に寄り添っていた妻が資忠に頭を垂れて席を外した。体が動かないらしく資武は顔だけゆっくりと弟に向けた。

「…生き恥をさらしているわ」

「兄上、今はご快癒されることだけお考えに」

「ふふっ、源七郎は優しいのう…」

「……」

「…すまんな、兄上を…太田氏資を止められなかった」

「誰も止めることは叶わなかったと思いまする」

「しかし父上と源太兄上もこのまま黙ってはいまいな」

「はい」

「源五兄上に付くのだな?」

「…はい、寿能にもはや選択の余地はございません」

「太田同士で潰しあいか…。太田は長くないかもしれんな」

話し疲れたか、資武は目を閉じて眠った。資忠は静かに歩き去っていった。

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