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源七郎、父となる

第三話『源七郎、父となる』

永禄五年(1562年)、北条氏康が動き出した。裏切り者の太田資正を討たんと岩付城と松山城に進軍を開始したのである。

曾祖父道灌に劣らぬ名将と呼ばれた太田資正。その資正の名将ぶりで有名なのは伝書犬戦術で、岩付城で訓練した犬を松山城に置き、松山城で訓練した犬を岩付城に置いた。有事の時は、その犬が伝書を竹筒に入れて運ぶ。人間の密偵は防げても、訓練された犬では北条もどうしようもないと云うことだ。北条が松山城を攻めようとしても、それはすぐ資正のもとに知らせが届き援軍としてやってくる。


これにより北条氏康はなかなか岩付城と松山城を落とせなかったのだが今回は武田信玄の合力を得て、松山城に寄せてきた。資正は越後の上杉輝虎(後の上杉謙信)に援軍を要請したが輝虎は越中に出陣してから帰国して間もなかったに加えて雪の事情があり、輝虎は来春に関東出陣を伝えてきた。

しかし急を要することなので資正は再度使者を送った。北条と武田が連合していて松山城に猛攻してくる事態を伝え、大至急の出陣を要請した。要請を受けて輝虎は急きょ出陣。雪深い三国峠を越えて進軍。

資正は松山城の守将に七沢七郎(上杉憲勝)と云う豪勇の将と勇士二百を置いていた。彼自身も急ぎ援軍に出たかったが北条により交通遮断されており、軍勢が松山城に向けられなかった。


翌年の永禄六年二月四日、ついに援軍は間に合わず、孤軍奮闘のすえ松山城兵は北条に降伏し和議開城した。資正は松山城間近にまで軍勢を進めていたが落城の知らせが届いた。

援軍であった上杉輝虎八千は難所も越えて、兵馬の疲労も耐えて、ようやく武州石戸(埼玉県北本市)に着いた。距離的にあと一息で到着であったが輝虎の耳に松山城の落城が届き、北条と武田の連合軍は守将を配置し防御を固めて撤退したと報告が入った。輝虎はこれに激怒した。

「わしに援軍を要請しておきながら、かような臆病な士に大事な城を持たせ置くとは! これは我が名に傷をつけること甚だしい。こうなれば美濃(資正)を討ち果たすまで!」

これを聞いた資正は大急ぎで上杉本陣に駆けた。

「関東管領、上杉弾正少殿(輝虎)に物申す!」

資正を陣に入れた輝虎、資正を見るや太刀を掴んだ。資正は平伏し

「まこと、お怒りごもっとも。面目次第もござらぬ!」

「到着が遅すぎたと言わぬ性根は認めよう。じゃが関東管領たるわしに恥をかかせた責任はどう取るつもりか。もはやその方の首でなければ我ら上杉は収まらぬ」

太田の家臣たちも、むざむざ主君の首を取られるわけにもいかない。上杉本陣で睨みあう上杉と太田将士。資正は左手に太刀を握り、右手を輝虎に広げて堂々と言った。

「弾正少様とそれがし、二人死して何ぞ得がありましょうや! 武将の同志討ちは敵が喜ぶだけにございまするぞ! これ匹夫の勇にして義勇にあらず!」

剛強なる気迫で輝虎に言い放った。その道理は輝虎にも伝わり太刀から手を離した。資正も太刀から手を離し、そして松山城の守将を務めていた七沢七郎の子と弟を輝虎に差し出した。預かっていた人質と云うことだ。輝虎は斬れと命じる。戦場のならいとは云え哀れなもの。何の罪もなき稚児と若者が、敵ではなく味方に斬られるのだ。

輝虎は二人の処刑を見て溜飲を下げ、その後は資正と酒を酌み交わしたと云われている。


その経緯を陣で聞いた太田源七郎資忠

「何で七沢の子弟が殺されなければならないのだ?」

側近の北沢宮内に訊ねた。

「宮内、七沢は孤立無援のまま太田のため、父上のため北条と武田相手に必死に戦ったのであろう? その子弟を賞するならともかく殺すとは…」

「落ち着かれよ殿」

「…合点がいかん。かようなことをすれば家臣に『懸命に働いても報われぬ』と云う印象を与えよう。父上がすべきことは七沢子弟を助けることではなかったのか?」

「確かに家臣の一部には、そう思う者もいましょう。しかし、あのまま人質を殺さぬままでは、弾正少様は退かず、この石戸で上杉と太田の戦が始まっておりました。北条と武田は腹を抱えて上杉と太田をあざ笑いましょうな。援軍が間に合わぬに腹を立て、敵地で味方割れと」

「では…」

「そう、誰よりも七沢を讃えてやりたかったのは大殿(資正)にござる。子弟も厚遇して報いたかったでございましょう。しかし、その情に流されれば太田の犠牲は、その二人では済まなかったのですぞ」

資忠は黙ってしまった。確かに宮内の言う通りである。

「情けは時に犠牲を増やすことにも繋がりまする。父上の苦渋の決断から、教訓を得られるがよろしかろう」

「わしに、そんな非情な決断が出来るだろうか…」

「殿はまだ若い、大殿とて今の殿の齢のころには無理であったと思いまする。これから経験を積んでいき、偉大な祖である道灌公に恥じぬ将となりなされ」

うなずく資忠、そして生贄とも云うべき形で死ぬことになった稚児と若者の御霊に手を合わせるのであった。宮内もまた若き主君と同じく手を合わせた。


上杉輝虎は反撃に移る。武蔵の国にある北条の支城を怒涛の勢いで落としていった。騎西城を皮切りに忍城を降らせ、上野国、下野国を転戦。先に氏資の言った関東管領の名を借りた乱捕り、これは事実だったと資忠は輝虎の戦いぶりから実感した。輝虎が自ら喧伝しているように、確かに領土は奪っていない。

しかし食料や家財、そして奴隷、ことごとく奪いつくしている。ただの切り取り強盗ではないか、いかに戦乱とは云え醜悪にすぎる。上杉輝虎は義将ではなく偽将、口が裂けても言えぬことではあったが、資忠はそう感じずにはいられなかった。鶴岡八幡宮で感じた輝虎の恐ろしさはここにあったか。

“絶対にあんな将にはなりたくない”

そう思った資忠だが、すぐに

“いや、なれないのか。情に流されるわしではな…”


松山城が落ちてよりしばらくして、資忠は妻を娶った。太田家に仕える潮田氏の娘で、名を沙代と云った。潮田氏は大宮の在地領主で元々太田家に仕えていたわけではないが資正の勢いを見て臣下の礼を取ることになった。この時に資正は潮田家当主、常陸介の妹を側室に娶っている。それが資忠生母の紅花姫である。迎える妻も潮田氏の娘であるので、資忠は潮田家に二重の縁を持っている。

資忠の妻の沙代姫は美人ではないが、とても気の付く優しい娘だった。すっかり新妻に惚れこんだ資忠。生涯側室を持たなかった資忠、よほど妻を好いていたのだろう。守るものが出来たと父の元で武将として励む資忠。上杉家の先鋒として北条氏と当たる父を助け、徐々に戦の経験を積んでいく日々が続いた、そんなある日のことだった。屋敷で沙代の給仕で夕餉を食しているとき

「旦那様」

「ん?」

「めでたき知らせがございます」

「何だ、めでたいことって」

頬を染める沙代。

「私のお腹に旦那様の子が…」

「ほ、本当か!」

恥ずかしそうに頷く沙代姫。

「そ、それは本当にめでたい知らせだ! よくやってくれた!」

「はい、旦那様と励んだかいがございました」

父の資正もそれを知り大変喜んだ。自ら嫁の沙代姫を褒めた。

「でかしたぞ沙代」

「お褒めの言葉、嬉しゅうございます義父上様」

「よう体を厭え、もう沙代一人の体ではないのだからな」

「はい」

「源七郎、沙代を大切にするのだぞ」

「はい、父上」


妻が懐妊し、ますます仕事に励んでいく資忠。このころ資忠は一人の武将を父から与えられた。加藤大学と云う実務に長けた将である。世継ぎと目する次男政景は戦に長じ、三男資武は病弱だが兵站をやらせるに能力は不足ない。

しかし四男の資忠は目立った技能というものがない。戦は北沢宮内に頼りっぱなしである。太田の男子として生まれたからには、やがては当主となる政景の良き補佐役とならねばならぬと資正が思案した結果、領地経営の才を延ばしてはどうかと考えて大学を資忠に預けたのである。加藤大学の補佐を得て、領地経営に関する主命は滞りなく遂行していく。大学は資正に

「源七郎殿は合戦より政に向いているかと存じます」

「ふむ、大学。源七郎がわしの息子でなく家臣ならば、そちの進言を入れて合戦に連れて行かず領地経営のみで用いるだろう。源六(資武)は病弱ゆえ仕方ないが、源七郎はさにあらず。我が三男として家臣たちに範を示すためにも戦場に立たねばならぬ。北沢宮内をつけたのはそのためぞ」

「お、大殿、三男とは? 源七郎殿は四男にございましょう?」

「三男だ。わしに息子は三人だ」

もはや嫡男氏資はいないものと思っている資正だった。

「大殿…」

「ともあれ大学、源七郎に一芸があると分かっただけ嬉しい。引き続き補佐すると共に厳しく仕込め」

「は、ははっ!」

「それにしても沙代もそろそろ出産か。男子であれば良いの」

「御意」

沙代は無事に男子を出産した。父の資忠と同じく幼名は梅千代、後の潮田左馬允資勝である。資正と資忠の喜びようは大変なものだった。

「でかした! おうおう何とも可愛いではないか!」

猛将太田資正も孫のかわいらしさには破顔一笑である。

「すこやかに育てなければならんな! 太田が子だ!」

「はい父上」

「しかし、つい最近まで子供と思っていた源七郎が父親になるとはのう。わしも歳を取るわけよ。はっははは!」

太田資正、後の太田三楽斎道誉にとって、もっとも幸せだった時だったかもしれない。

私は埼玉県人ですが、北本市を通るたびふと「この地に謙信が来たんだなぁ」としみじみ思います。

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