氏資下野
第2話『氏資下野』
居城である岩付城に帰ってきた資正。正室の南畑や家臣たちの説得もあり息子氏資との溝を埋めようと思った。凡愚な息子なら、このまま放逐して次男に家を継がせると云う選択肢もあったかもしれないが、氏資は優れた武将で後を継がせるに不足はない器であった。
氏資自身は北条を裏切り、上杉についた父に対して含むところがあり、合戦から帰ってきた父に対しても儀礼的に頭を垂れて格式ばった言葉を発しただけであった。資正には嫌味にしか映らず腹も立ったが、家臣たちが揃って押さえてくだされと目で訴える。氏資を疎むのは個人的なこと。これからの太田家のため、とくと北条を離れて上杉についたことを納得させねばなるまい。そう考え息子と融和することを決めたが思わぬ横槍が入ってくる。
上杉輝虎(後の上杉謙信)の口添えを経て、太田資正と氏資親子に官位が授与されることになった。だが
「どうして、源五郎より下の官位なのだ?」
資正が受けた官位は正五位下民部大輔、氏資の受けた官位は正五位上大膳太夫である。何と親子で官位が逆転してしまっているのだ。資正は不快を露にしたが氏資は動じず
「おおかた、朝廷が父上とそれがしの名前を誤ったのでしょう」
氏資に器量の小ささを笑われたようで癪に触った資正、そして
「大膳太夫は父上がお名乗り下さい。弾正少(輝虎)ごときの仲立ちにより与えられた官位などいりませぬゆえ」
官位の記された書を紙屑のように放る氏資、資正は激怒し
「いつまでも煮えきらぬ態度を取りおって! その方こそ、それでも坂東武者か!」
「気に障られたのならご容赦を」
氏資は資正に軽く頭を垂れ、資正の前から立ち去ってしまった。腹の虫が収まらない資正は
「あんな器の小さな男に太田を継がせられるか!!」
ついに、この言葉を氏資に聞こえるよう口走ってしまうのであった。
数日後、頭を冷やし、妻と家臣の説得もあり氏資との溝を埋めようと考えた資正。嫡男たる氏資と不和のままでは太田家が割れてしまう。それは資正とて望むものではない。氏資と一対一では、また諍いになるだけだと思った資正は他の三人の息子も合わせて武将の心得を指導した。
氏資と政景は戦場で勇猛であるが猪突しがちな傾向がある。資正は
「源五郎、源太、よう聞け。武士の武辺が面に表われるのは見苦しい。その剛強さは良いが、それは内に秘めたるものぞ。ただ猫のごとく、いかにも静かにして鼠を取りたる時こそ立派なる能なりと知るがいい」
次男政景は得心したが氏資は
「さにあらず、猫などではなく大鷹のようなる将になりまする。鷹は常に打見にも威勢ありて、鳥を取りたる手際も立派なるものにございます」
「なんだと?」
真っ青になった政景、資武、資忠ら弟たち。兄は父がどうして講義の席を設けたのか分かっていないのか、それとも分かっていて、そんな小賢しい反論をするのか。恐る恐る父の顔を見る資忠。思ったとおり父の顔は怒りの形相である。先の教えは、資正自身の武士の心得である。それを一笑にふした感で否定したのだ。
太田氏資の人となりを表す言葉が二つ伝わっている。
『武勇に勝れ、数度の高名を顕は』
父資正ゆずりの豪勇の士であることが伺えるが、その一方で
『口上悪しく、吃なりければ公儀不調法なり』
吃音は生来のもので仕方がないが、その前に口上悪しくと評されているところを鑑みると父との不和それ以前に思ったことは口にする歯に衣着せない若者であったと思われる。
「兄上、お言葉が過ぎますぞ!」
日ごろ大人しい三男資武がたまらず諌めるが氏資は引かない。
「真の大望を申して何が悪いのか。よりにもよって武士に猫になれとは父の言葉とは思えぬ」
「…源五郎、お前のそういう煮えきらぬ女々しき態度が家中に不和を招く。太田が北条を見限り上杉についたことに言いたいこともあるであろう。しかし家の方針はわしが定めること。一度決まったことに、お前はいつまでも無言の反対の意を示し、かような態度をとり続けるのか」
「父上、どうして話がそちらに参ります。今は武士の心得についてのことでございましょう?」
「では、太田が北条についていたころに同様な教えを説いたら、お前は今と同じく賢しらな言葉を返すか? 返さぬであろう。お前はあくまで上杉についた父が許せず、かような坂東武者らしからぬ陰険な仕返ししかできぬのだ」
落胆のため息を吐く資正
「あのまま北条についておれば、上杉との戦いの盾とされたあげく、衰退したところ謀反の疑いありなど氏康めが言いがかりをつけてきて滅ぼしにかかるであろう。氏康が娘の色香に迷い、かようなことも分からぬとは情けなきやつよ」
「弾正少もまた同じと、どうして思いませぬか。北条との戦で使い捨てにされると思われぬのか」
「なに?」
「弾正少は義の将などと自らを喧伝しておりますが、とんでもない。やせ地の越後ゆえ食料が足らず、関東管領の名を借りた乱捕りを関東で繰り返すだけ。何が毘沙門天の化身かと笑わせるばかりにございます」
「だまれ!」
「こんな弾正少に付き従うことが、どうして太田百年の大計なのですか!」
「源五郎!!」
資正は氏資を殴打、氏資は抵抗せず黙って殴られており、微笑さえ浮かべている。まるで“愚かな父よ”と笑っているようで、さらに資正の怒りの火に油を注ぐ。
必死に政景、資武、資忠ら弟たちが止めに入るが、生粋の武人である父の資正を止めることなど若い息子たちには無理であった。逆に“邪魔いたすな!”と投げられるや蹴られるやら。武将心得の講義のため、親子水入らずと家臣たちが気を利かせたことが裏目に出た。ここに重臣の何人かもいれば、ここまでの騒動にはならなかっただろう。
だが、この騒動は殴られている氏資の方が引く。最後に一度だけ抵抗、やにわに資正の腕を掴み投げ落した氏資。立ち上がりかけた資正に平伏し
「ご無礼いたしました。不肖の息子、太田源五郎氏資は本日をもって出家いたしまする」
ハッと冷水をかけられたように我に返った資正。だが、すべて後の祭りである。
「しゅっ、出家?」
想像もしていなかった兄氏資の言葉に驚く資忠。政景、資武も唖然とした。資正は言葉が出てこず
「それでは、これにてお暇いたしまする」
氏資は父と弟たちに一瞥もくれず部屋を出て行った。慌てて資忠が追いかけた。
「兄上!」
「源七郎、もはや何も言うでない」
立ち止まろうともしない氏資の前に立った資忠。
「兄上、落ち着いて下さい。もう一度父上と話し合って!」
「わしは父上が嫌いであるし父上もわしを嫌っている。仕方あるまい」
「しかし」
「父上は親北条のわしを当主に据えるわけにもいくまい。ならば自分から去るまで」
氏資はその日のうちに妻と娘を連れて岩付城から出ていってしまった。まるで、いつ出ていくか機会を待っていたかのようだった。氏資はこの日より岩付城に近い芳林寺に入り、『道也』と名乗り出家してしまった。
家臣たちに動揺が走った。資正は重臣たちに何の相談もなく、勝手に長男氏資を追い出した形となり、あろうことか輝虎の覚えがよい次男の政景に家督を譲ると言い出した。政景もまた父と同じく反北条であったうえ、資正が政景の生母である大石夫人を寵愛していたのも、その理由の一つと言える。
岩付太田家は道灌以来次男が家を継いだ例はない。氏資は弓矢の道も優れ家臣にも温かく民を慈しむ家臣期待の若殿である。連れ戻しましょうと家臣が言っても
「勝手に出て入った者にそんな必要はない」
と、譲らなかった。兄の氏資と不仲でもあった政景は世継ぎに指名されたことが嬉しくてならない。母方の家へ養子に行く話も出ていたが、その話は白紙となり尊敬する祖先、太田道灌の家を継げるのだから。励まねばと政景が思いを強める一方で、家臣たちは太田の行く末に一抹の不安を覚えるのであった。
お話に出た岩付(さいたま市岩槻区)の芳林寺には太田氏資の甲冑姿の像があります。なかなか凛々しい方です。