太田源七郎資忠
第一話『太田源七郎資忠』
時は戦国乱世、関東武蔵の地は太田氏と北条氏が戦いに明け暮れていた。太田氏の当主は太田美濃守資正(後の太田三楽斎)、名将太田道灌の曾孫にあたる。太田氏は道真、道灌の時代に扇谷上杉氏の重臣として関東屈指の武家となり、太田資頼、資正の時代には岩付城を本拠地として埼玉、足立、比企と云った諸郡を中心に分国支配していた。資正は武州進出を図る後北条氏に抵抗を続けていた。
北条氏康が扇谷と山内の上杉家を破った河越夜戦、資正は上杉方として参戦している。敗戦後は扇谷上杉氏の居城であった松山城を後北条氏より奪回したが、これにより資正の武名は関東に轟いた。
このころには事実上扇谷上杉氏から独立していた太田氏。その後、兄の死去に伴い資正は太田家当主となり、岩付城主となったものの孤立無援の状況であった。北条氏康がこの好機を見逃すはずもなく、六千騎をもって岩付城を囲んだ。さしもの資正も降伏するしかなかった。資正から松山城を預けられていた上田朝直は自ら開城した。氏康は上野攻略の橋頭保とすべく松山城の普請を始めた。
また氏康は資正の懐柔のため、娘を資正嫡男の源五郎資房に嫁がせ、自身の名の『氏』の字を与えている。これは大変名誉なことだった。資房は氏資と名を改めた。よほど氏資を買っていたのか、それとも氏康が太田資正を恐れていたゆえか。
以後太田家は、およそ十二年間、北条氏康配下武将として活躍していくことになる。資正は戦だけでなく内政手腕も見事だった。治安維持、住民の安住、寺院対策、土豪の組織化、支城整備、伝馬制度の確立、年貢管理、土地開発、河川の堤防維持管理に重点を置いた。石高も上がり、民心も得られた。
永禄三年に一つの転機が訪れた。上杉輝虎(後の謙信)が北条氏を攻めるため関東に出陣した。岩付城にて行われる軍議、嫡男の氏資は席に着いた。北条を守るために踏ん張らねば、そう気合を高めていると父の資正から想像もつかない言葉が発せられたのである。
「当家は北条との盟約を破棄し、上杉と復縁をすることにいたす」
「…!」
あぜんとする氏資だが、重臣たちに特に動揺はない。あらかじめ話は通してあったのだろう。確かに上杉は元々父祖よりの主家である。だが初陣より北条家の旗のもと戦ってきた氏資にとっては上杉が本来の主家と言われてもまったく実感はない。昨日今日決めたことではなく、どうやらかなり前から上杉と誼を通じていたと見える。
「源七郎」
資正は末席に座る初陣の四男を見つめ
「はっ」
「よい返事だ。しかし初陣と申して気負いすぎるな。まずは戦場が何たるかを見て…」
「父上!!」
「なんじゃ源五郎」
源五郎とは氏資の通称である。
「それがしには納得いきませぬ。どうして今さら北条との盟約を破棄して上杉に! 我ら太田家は北条家あってのものではないですか!」
「北条家あっての我ら? バカを申せ、元々太田家の主家は上杉じゃ。北条家のもとにいたのは、あくまで雌伏であって」
「かような変節、坂東武者のすべきことではございませぬ! 父上はいつから、かような恥知らずとなったのでございますか!」
資正は激怒した。
「わしが恥知らずと申すのか!」
「そうでございましょう。北条に仕えながら、いつ上杉に復縁するかと考えていたのであれば、それは二心と申すもの。恥と言わずして何でござろうか!!」
ついに刀まで握った資正。
「貴様のような太田百年の大計も分からぬ者は我が息子ではない!!」
大慌てで資正と氏資の間に入る太田家臣たち。
「若殿、お控えを! お家の方針を決めるのは父上、たとえ承服できずとも従うが子の道にございましょう!」
侍大将の平柳蔵人が必死に氏資をなだめる。
「他のことなら、いざしらず!これは譲れぬ!」
「もうよい!」
家臣たちを振り解いて、氏資を睨む資正。
「こたびの戦は弾正少殿(輝虎)に従う最初の戦、そんな戦に北条に尻尾を振る貴様のような息子はいらぬ。氏康が娘に鼻毛でも抜かれながら留守をしておれ!!」
「……」
「これから軍議じゃ。関係のないお前は下がれ」
「父上、何とぞご再考を!」
「下がらんか!!」
「…はっ」
拳を握り、評定の間を立ち去る氏資。初陣を迎える弟の前で立ち止まった。
「兄上…」
「源七郎、武運を祈っている」
「…はいっ」
太田源七郎資忠、幼名は梅千代、後の潮田出羽守資忠である。
太田美濃守資正、彼には息子が四人いた。
嫡男の源五郎氏資、次男の源太政景、三男の源六資武、そして四男の源七郎資忠。いずれも母親が違い、嫡男の氏資は資正正室の南畑姫が生んだ男子である。他の三人は側室の子である。次男政景は父と兄同様に勇猛果敢な若武者である。三男の資武は頭脳明晰ではあったが病弱であるため、もっぱら内政や兵站が任務であり、合戦に参じることは父に許されてはいなかった。
四男の資忠は、幸い病弱ではないものの、これといった才覚もなく性格は温和というところ。父の資正も先行きを案じていたが今回初陣を迎えるにあたり、良き側近を与えている。北沢宮内と云う父祖より太田家に仕えてきた生粋の武人である。武略にも長けているため、初陣の息子にはもってこいの補佐役であった。
宮内を預けてくれると云うことは父が自分に寄せる期待も大きいということ。褒められる戦をしたいと思っていた矢先に水を差された形となった。父と兄の喧嘩である。
「今まで父上に逆らったことなどない兄上なのに…」
軍議を終えて、岩付城の廊下を歩く資忠と宮内。
「若殿の奥方は北条家の姫ですからな。しかも、いきなり聞かされては反発も無理らしからぬかと」
「父上は重臣たちには事前に言っていたようだが、どうして兄上にはいきなり…」
「この軍議で得心させるつもりであったのやもしれませぬ。それより殿」
「とっ、殿?」
「そうでございましょう。今日より、この宮内の主君は源七郎資忠様にございますゆえ」
「殿…殿か」
「先の軍議の父上と兄上の喧嘩のことは頭の隅に置かれよ。今は初陣の時、父上や輝虎様にも褒められる戦をせねば」
「よしっ」
太田家は上杉軍の小田原城攻撃戦で先鋒における一の備えを任されたと云う。太田資正、上杉に寝返るの報を聞いた北条氏康は驚き
「美濃め、十二年もわしを謀ったか」
しかし、太田が上杉につくのは北条にとって大打撃である。氏康は資正に考え直すよう書を送ったが資正の決意は変わらなかった。太田資正が年来の重恩を忘れ、誓句血判に背いて北条に逆心したこと、まことに無念と氏康は家臣に漏らしている。
資正は十二年の忍従のうっぷんを晴らすごとく戦った。初陣の資忠はと云うと
「これが戦…」
眼前に広がる北条勢を見て息を呑んだ。北条の前線部隊と小競り合い程度の野戦であったが、初陣の資忠は刻一刻と変化する合戦の状況に対応できず、側近の北沢宮内に頼りっぱなしであった。兵も資忠のことは当てにせず宮内の指示ばかり聞いた。誰が将なのか分からない。
野戦そのものは太田の勝利となったが資忠の胸中は情けないの一言だった。何の指示もできず、戦の指揮を側近に丸投げした不甲斐なさ。悔しさに涙を落とす。資忠の備に付けられた戦目付けが父の資正に報告。
『源七郎殿は戦の指揮を取れず、側近の宮内殿に采配を丸投げ』
渋い顔の資正であったが、最後に戦目付けが
『悔し涙を流して己が不甲斐なさを嘆いておりました』
と報告。それを聞くやニコリと笑い
「そうか、ならばいい。初陣で上手く行き過ぎると戦を甘く見てしまいかねん。そのくらいでちょうど良かろう」
勝ち戦であったが、何も出来ないうちに終わってしまった初陣は資正もまた同じ。悔しくて涙が止まらなかったものだった。太田の家は勝っても己にとって負け戦だったとよく覚えている。末っ子資忠が自分と同じ初陣を経験したと思うと、妙な嬉しさを感じた資正だった。
さて、上杉輝虎は太田資正を始め、多くの関東諸将を味方につけて北条氏の居城である小田原城を十万以上の大軍で包囲したが兵糧の問題から撤退せざるを得ず小田原城を落とすことは叶わなかった。
しかし、その後に鶴岡八幡宮に参拝し、ここで正式に関東管領の上杉憲政に管領職を譲られる形となる。その儀式には太田資正も参列、膝を屈してかしずく。その資正の前で立ち止まった輝虎。
「美濃守、小田原を落とせなんだのは惜しかったが、支城はだいぶ落とせた。北条も少しは大人しくなろう。そなたの働き、輝虎感じ入ったぞ」
「ははっ!」
「こたびの武功に伴い松山城を任せる。かつて美濃守が城であったなれば統治も上手く行こう」
「これは望外の喜び、この美濃、弾正少殿の、いえ管領殿のため、いっそう励む所存にござる」
「ふむ、で、美濃守の後ろにいる若武者二人は美濃守のせがれか?」
「ははっ、次男の源太政景と四男の源七郎資忠にござる」
「面をあげよ」
輝虎の声に恐る恐る顔をあげた政景と資忠、何という威圧感、資忠はそう思った。まさに軍神、この方が上杉輝虎様なのか。たまらずもう一度平伏する。政景はその威圧に逆に憧れたか、惚けるように輝虎を見た。
「ほう、源太はよい面構えをしておるのう」
「あっ、ありがたき幸せに!」
体に稲妻が落ちたような心地の政景、あの上杉輝虎に、よい面構えと褒められた。反して隣で平伏して輝虎様に怯える弟の情けなさよ。輝虎は
「よし、源太に我が太刀を持つ役目を与えよう」
「はっ、はい!」
大喜びして、輝虎の傍らについた政景。
「あ…」
やっと再び顔をあげた資忠。輝虎の後ろに嬉々として付いていく兄の背を下唇噛んで見つめた。二度と訪れない栄誉を己が不甲斐なさで逃してしまったのだ。その悔しさを察した資正は
「よう覚えておけ。好機と云うものは、そう己に訪れぬということを」
「は、はい…」
何の手柄も立てられなかった資忠、しかし父の資正は四男の初陣に満足していた。血肉となるであろう良き失敗をし、そして今回、好機を逸した教訓を得られただけ資忠の初陣は意義のあるものであった。
この戦いにより、さらに版図を広げた太田家。松山城周辺に加え、入間東部、足立郡全域、南埼玉郡と広大な領地であった。太田資正、いや太田家最盛の時であった。