竹林
寝覚めは悪いものではなかった。
あんなに恐ろしい狂気じみた夢を見たにも関わらず不思議と気分がいいのだ。
私が昨晩見た夢について考えていると、従業員が部屋に朝食を運んできて、ついでに外で『ケイネさん』が私を待っていると伝えられた。
名前を言われても分からないので特徴を聞いたところ、どうにも昨日の女性らしい。
私はさっさと食事を済ませた後で少ない荷物を片手に衣類を回収し、勘定を済ませて足早に宿から出た。
宿の前にはやはり昨日の女性がおり、私に気付くと声をかけてきた。
「おはよう、昨日は良く眠れたか?」
「ええ、まあ」
私は昨日見た夢について話そうかと思ったが、辞めておいた。
それにしても、昨日は服装にしか目がいかなかったがこの女性、かなりの美人である。歳は私と同じか、もしくは下だろう。
「ところで、まだお互い自己紹介をしていなかったな。私は上白沢慧音、里の寺子屋で教師をしている。君は?」
「私は、実はここに来るまでの事をなにも覚えていないのです。
ただ、持ち物にあった名刺には名前はコーディ・ヴァレンタインで職業は作家とありました」
そういえば記憶喪失の事を話していなかったなと思いつつ今できるだけの自己紹介をする。
「・・・忘れた?」
「はい」
「えーと、なにも覚えていない、と?」
「はい」
私が答えると慧音は暫く顎に手を当てて考え込む仕草をしていたが、やがてこう言った。
「何故それを早く言ってくれなかったんだ・・・いろいろと君に話すことがあったが、自分のことも碌に分からないままでは気持ちが悪いだろう、いい医者を知っているからまずはそこを尋ねてみるか」
そう言って慧音は私に自分に付いてくるように促した。
慧音の後に付いて歩いて暫くすると見事な竹林が姿を現した。
慧音の言っていた医者というのはこの竹林に住んでいるらしい。私はとんだ物好きもいたもんだと思った。
それにしても昨日の森といい、この竹林といい、この近辺は本当に自然豊かな土地らしい。
程なくして少し開けた場所に出た。
そこには立派な和風の屋敷が建っていた。
どうにもここに医者がいるらしく、慧音は大声で玄関に呼び掛けた。
すると間もなく戸が開いて一人の女性が出てきた。
女性は紺色の上着を来ていて、薄桃色の少し短いスカートを穿いていた。さらに足元まである長い藤色の髪を持ち、その頭部には兎の耳のようなものが付いていた。
歳は私より下だろう、顔立ちはかなり整っていて綺麗だが、上記のものがすべてをぶち壊している。
「ふざけているのか?」
「えっ」
どうにも自覚していないようだ。
「あー・・・鈴仙、今永琳はいるかな?」
「師匠ですか?まあ、特にすることもないのでいますが・・・ひょっとして急患ですか?」
「そうなるな」
慧音が話を進めてくれた。おそらくその『エイリン』とかいう人物が慧音の言う医者なのだろう。
鈴仙と呼ばれた女性は付いてきてください、というと屋敷の中に入っていった。
屋敷の中は思っていた以上に広かったが、鈴仙は一番近くの戸を開けて中に患者さんですと告げ、私に入るよう促した。
部屋の中はいたって普通の診察室に見えた。
その中で椅子に座っている女性がいた、恐らくは彼女が永琳とかいう医者なのだろう。
彼女は長い銀髪を三つ編みにしていて、妙な多角形の帽子を被っていた。おまけに気が狂ったような赤と青の、シルエットだけを見ればナース服に見える服を着ている。
私と同じか私以下くらいの歳に見えるが、長く生きている人物独特の雰囲気があった。
私の服装に関する美的感覚はもうすでに狂っているのかもしれない。
そんな私の心配事を一切気にせず永琳が話しかけてくる。
「あら、患者さん?にしては目立った外傷もないし、顔色も悪くはないわね」
「ああ、私はどうにも記憶喪失らしく、ここに来るまでのことを一切覚えていないんです」
永琳に記憶喪失であることを伝える。
「それを治してほしいと?」
「そうなりますね」
そういうと、永琳は少し申し訳なさそうに言った。
「悪いけど簡単には治せないわ」
「ん?どういうことだ?君なら簡単に治せそうなもんだが」
いつの間にか後ろにいた慧音が質問する。
「一応治せることには治せるけど、リスクが大きいのよ。そもそも原因がわからないしね」
「それじゃあ、私は一生このままですか?」
耐え難い不安に駆られたため私は質問した。
「原因にもよるわ。例えば、何かの拍子にパッと思い出したり、ゆっくりと思い出していったり・・・あなたの言うとおり一生思い出せなかったりね。まあ、言動からするに記憶以外に問題はなさそうだからそんなことはなさそうだけど」
私は少し安堵したが、どの道暫くは何も分からないままであるのには変わりない。
「とにかく私はこれ以上助言できないわ、後は自分でがんばって頂戴」
永琳は特に何もしてないからお金はいい、と付け加えて更に私達が屋敷を出るまで見送ってくれた。
竹林を歩き出して暫くすると慧音が話しかけてきた。
「すまないな、彼女なら君の力になってくれると思ったんだが」
「かまいませんよ」
私は特に気にしていないという風に返した。どうせそのうちすべて思い出せるだろうという風に考えることにした。
そのときだった。
私の目に恐るべき物が映りこんできた。
それは幼い女子の姿をしていた。そこまでならよかったが問題はそこではなかった。
それの背中には蜻蛉や蟷螂が持つような透明で、グロテスクな筋の浮き立つ、人が持つには余りにも冒涜的な羽があったのだ。
それが私が慄然たる眼差しで見つめていることに気付くと、なんとも名状し難い邪悪な笑みを浮かべてくる。
その表所はまるで私を底知れぬ混沌に陥れる策を考案しているようだった。
私は無意識のうちに拳銃を構えていた。だがこの超自然的で忌まわしき生物に無力な人間の造りだした道具に効力を期待するほど元々の私は愚かだったのだろうか。
恐怖のあまり動くことができなかった。
動けば殺されるか冒涜的な屈辱を与えられて狂人にされると思った。
その瞬間、私の後頭部に鈍い衝撃が走り、私の意識は闇の中に沈んでいった。
夢を見た。
おそらくは昨日見た夢と同じ場所にいるようだった。
やはり暗黒の中に怪物がいたが、今度は細部が幾分かはっきりと見えた。
蟇蛙のような体型のそれは丁度蝙蝠のような顔をしており、ナマケモノのように全身に短い毛が生えていた。
今度は何かを摂っている様子はなく、眠たげな目で私を見つめている。
暫くして怪物は私に何かを言ったが、昨日と同様に何も聞こえなかった。
怪物はそれを見て少し考えるように目を閉じた後、何かをつぶやき始めた。
すると、私の足元に何か黒いねばねばした何かが沸き始めた。
見る見るうちに足元に広がるそれは生きているかのようにもぞもぞと動き始めた。
私はそれを恐ろしいとはまったく思わず、むしろ頼もしささえ感じた。
これらの怪物はやはり私の記憶と関係しているのかと考えていると意識が薄れてった。
なんとなくラブクラフトっぽさが足りないと思った