不運の底
ホラーというよりも、ちょっと怖い不思議な話です。
目覚まし時計が夜中に止まってしまったために、今朝は数時間遅刻の出勤となった。
遅刻で行く気が削がれていたのだが、次の出張の際の段取りをしておきたかったので、とりあえずは急いで会社に向うことにした。
駅まで歩く道の途中で運悪くお天気雨に遭遇し、背広の上着は濡れて重くなっていた。
ツイてないなぁ。
いつもの時間よりもかなり遅い電車に乗っているのもあって混雑がなく、濡れた上着を無理やり体に密着させられるような押し合いはなかった。
つり革につかまって流れる外の景色を眺めながら、出張の段取りを頭の中で追っていた。
すると自分の目下から注がれる視線に気がついた。
六歳くらいの男の子が母親の隣に座り、俺をずっと見つめている。
なんだよ、おい。
試しに子どもが喜びそうな笑みを返してみた。
子どもの顔は見るみる歪み、しまいには大声で泣き始めた。
「どうしたの?」
隣に座っていた母親が子どもの顔を覗き込み尋ねると、子どもは人差し指を俺の方向に向けて更に大きな声をあげて泣く。
母親と俺の視線がぶつかる。
子どもが更に強く泣き、母親は鬼のような顔に表情を変えながら強い視線を送ってきた。
何とも言えないストレスを感じた。
これだったらまだ満員電車の方がマシだった。
ため息をつきながら会社のビルに入り、エレベーターに飛び乗った。通常あまり途中で何度も止まることがないのに、今日ばかりは違った。
遅刻して時間がズレでいるのもあるのだろうが、どうして急いでいる時に限って各階ごとに人が出入りするんだ?
自分の部署がある六階のフロアに行くまで各階で止まるなんてことは、今日が初めてのことになった。
まったくもってツイていない。
会社について自分の机の上を見ると、「今日のお昼までに仕上げて重役分の資料を会議室まで持って来てください」と付箋紙があった。
今日のお昼までって、あと一時間もないじゃないか。
重くなった背広の上着を椅子にかけ、できる限りのデーターを集めて切り貼りをした。残念ながら、説明も細かく付け加える時間がなかった。
重役は六人、コピー機をフル回転させてもお昼にはギリギリだ。
用意した原本を持ってコピー機の前にいくと、誰かの作業が止まったままだった。
俺は本当に余裕がなかった。
急いでいるあまりつい声を荒げてしまったのだった。
「誰だよ!やりっぱなしで放置してるのは!」
「ごめんなさい!」
フロアの片隅からこの部署で一番デキルと評価の高い葉子さんが走ってきた。
急いでいるとはいえ、彼女は先輩。しかも自分など足元にも及ばない程仕事ができる葉子さんに怒鳴ってしまっていた。
「すいません。急いでいたもので……。お昼までの重役会議の資料があるんで先に使っていいですか?」
丁寧に説明はしたものの、葉子さんは自分が声を荒げたことで顔を赤くしていた。
やっちまった。
後で葉子さんにはちゃんと謝ろう。今は資料を揃えることが先決だ。
連続コピーで人数分をコピーしながら、ホチキスで閉じていく。
会議室は十三階にあるから、今朝のことを考えて階段を使って走っていくことにしよう。
コピー機は途中で何回か紙詰まりを起こして、なかなか作業はスムーズにいかなかったが、それでもなんとか五分前に会議室に向う準備を整えることができた。
走るぞ!
「会議室にいってきます!」
そう叫ぶと一気に俺は走り出した。
時間との戦い、自分との体力勝負、とにかく駆け上がれ!
息を切らして十三階のフロアのドアを開けた。
会議室の前では重役の一人が資料を待っていた。
「お昼までって書いておいた筈だけど、お昼ぴったりっていうのはどうなんだろうね?」
まったくもって仰るとおり、言い訳の「い」の字も返せません。
「申し訳ありません!」と深々と頭を下げた。
とりあえず、急ぎの仕事は処理した。
どうやら今日はツイていない日のようだ。
こういう日は誰にでも絶対ある。失敗を続けてしたり、へこむような出来事がつづけて起こったり、やる事なすこと裏目にしかでない。だけど山があれば絶対谷があるわけで、どんなに運の悪い時でもその底を過ぎれば脱することができると俺は思ってる。
とにかく注意を払って底までいき、やり過ごすのが懸命な日なんだろう。
部署に戻ると昼食の時間に入っていた。
同僚が「新しくできたカレー屋に行くか?」と声をかけてくれたが断った。何せ今日はツイていない日なのだから。
シャツにカレーのシミなんか付けたくないと思ったので、コンビニで菓子パンと水を買ってきて済ませたのだった。
午後になり来週の出張の為の宿の予約の手配を始めた。六件のホテルに電話をするもどこも部屋がとれない。もう一時間近く同じことをしている。
どうしたっていうんだ、一体。
祭日でも連休でもないのに、自分の出張する日はどこも予約がとれない。ツイてない日だとわかっていても、イライラしてしまう。
「くーっ!」といいながら机に頭を伏せたところへ葉子さんがお茶をもってやってきた。
「私が使ったことある穴場のビジネスホテル教えてあげる」
さすが葉子さんだ。
「先ほどは驚かせてごめんなさい。遅刻してきた上に昼間での重役会議の資料に追われてあんな声を出してしまったんです」
「切羽詰る時ってあるもの。コピーの上に書類をそのままに置いておいた私も悪かったのよ。ごめんなさいね」
葉子さんのこういうところが仕事で敵を作らないんだろうなと感じた。こんな人なら不運の神さえ運を差し上げたくなるのかもしれない。
「今は手が空いてるし、私が予約入れましょう」
そういうと葉子さんが電話で俺の宿泊予約を入れてくれた。
「もしもし……ということでよろしくお願いします」
俺が費やした一時間は、葉子さんの三分の電話で終了した。
「ありがとう。なんか今日は全てにおいてツイてなくて、それでも葉子さんのおかげで少しツキがあがったような気がします」
この言葉は本心からでた言葉だった。
彼女が側にいるだけで、自分の今日の不運が和らでいるような気がしたのだ。
「そうだと嬉しいわ」と葉子さんは目を細めて笑った。
「君、資料役にたったよ。ありがとう」
昼間の重役が俺の肩を叩いた。それを見て葉子さんが俺にウィンクを投げた。
仕事がバリバリに出来てもみんなから好かれるのは、彼女のこういうところなんだろう。
ちょっと彼女を知りたいと思い、思い切って夕食に誘ってみようと思った。
しかもこんなツイていない日に。
俺は馬鹿だ。
「もし用事がなければ、夕飯一緒に食べていきませんか?」
「いいですね、それ」
ツイていないはずの日なのに、葉子さんからは意外な返事が返って来た。
「じゃあ、今日は定時に終わらせてエレベーター前で落ち合いましょう。それで大丈夫?」
嬉しい言葉に「今日の不運はもう底を脱した!」と思った。
「お疲れ様、じゃあ行きましょうか」
彼女の声に心躍らせながら二人でエレベータの中に入った。
ドアが閉まるとすぐに彼女の携帯が鳴った。
「あ、ちょっとごめんなさい」
彼女はバックの中の携帯を探し、メールを読んでいた。
「大丈夫ですか?」と尋ねると、彼女は少し浮かない顔を見せた。
「ああ、ごめんなさい。誰か接待で失敗しちゃったみたいだなぁ。部署に戻らなきゃ。本当にごめんなさい。この借りは必ず!」
肩がガックリ落ちた。
仕事だから仕方ない、彼女はできる人だから。それにこれくらいの不運ならむしろ今までの不運に比べれば大歓迎とさえ思った。
「大丈夫です。次を楽しみにしますから」
彼女は四階で降りて俺に手を降った。
まあこんなこともあるさ。
気を取り直して一階のボタンを押し、エレベーターの扉が閉まった。
上の方で大きな音がガタンとした。
エレベーターは下に降りていく様子がない。
ちょっと、待ってくれよ。不運の底は脱したんじゃなかったのかよ。
ドアを開けるボタンを叩いたが、何も反応がない。
階下の全てのボタンを強く続けて叩いてみた。
ガタン!大きくエレベーターが少し下に落ち突如止まったかと思いきや、そのまま止まる様子を見せず落下した。
俺は体のバランスを失って床に倒れて、少し意識を失った。
目覚めた時には担架の上で救急隊が頭上で担架を引いていた。
会社のビルの外には小さな人混みができていて、その中には俺を心配そうに見つめる葉子の姿もあった。
葉子さんから離れた途端にこの有様だ。
彼女が不運を和らげていた女神だったってことか。
まったく、なんてこった。
「大丈夫ですか?住所とお名前言えますか?」
状況がわからずに目だけをキョロキョロさせていると、「エレベーターが落ちて、中で倒れた時に腕を骨折しています。このまま病院に運びますよ」と言われた。
救急隊員が病院とやりとりをしている声が聞こえる。
どこの病院も受け入れできないようだ。
ツイていない状況はまだ続いているんだな。
俺は疲れを感じて少しうとうとした。
この状況で運をどうにかするなんていうのは無理と悟り、まな板の鯉のような気分だった。
救急車はあちこちを走っていたように感じた。
意識がはっきりしてきた頃、自分の腕時計を見ると既に時間は今日を過ぎていた。
ツイてない一日が終わった。
日付は変わり新しい日になったのだから、きっと谷底は越えたに違いない。不運な一日は終わったに違いない、そう思った。
救急隊が俺に声をかけた。
「受け入れ病院見つかりましたよ」
ほらみろ、もう底は越えた。
「ちょっと科は違いますが、外科は外科ですから」
安堵の吐息が漏れた。
救急車が停車し、担架に乗せられたまま急患入り口に向う。
ここはどこなんだろう?と思い周囲を見渡すと、明かりに照らされた病院の看板が目に入った。
そこには「脳外科」と書かれていた。
以前友人に聞いた話で、「脳外科では痛みの箇所を知るために、痛み止めを出さない」という話を思い出した。
未だ不運の底にも辿り着いてないと思われる自分が、これから起こるであろう不運を思うと恐ろしくてたまらなかった。
このお話しにでてくる番号に気づいた方はいるでしょうか?好まれない番号を入れるように配慮してあります。
追記
あるとさんの感想より、お話しの最後の部分が「怖い」という印象を与えずわかり難いのではないかと思い、……「脳外科」と書かれていた。以降の二行を付け加えました。あるとさん、ありがとうございました。