そして彼は遠くに消えた。
少女を語る、途切れるまでの彼の記憶。
「もういーよ。」
冬の夜。轢かれても文句が言えないほどに真っ黒な格好。耳にはイヤホン、視線は手元の携帯電話。手がまったく動いていないところを見ると、ただ画面を見つめているだけなのだろうか。
さっきの言葉は、あの子が?
興味を引かれてそちらを見ていると、少女がふいと顔を上げた。絶望か諦めか。その瞳の、吸い込まれそうなほどの暗色に寒気がした。それは身が凍るような、動けないような錯覚に陥ったほどで。
そして少女は頼りなげに歩き出す。一歩、一歩を右に左に揺れるようにしながら。あれ、危なくないか?今にも転びそうな…なんて思いながら見ていると。ふらり、と道路に身を投げ出して。え?あれ、え?まさか、自殺…?
「って、おい!!」
気づいた時には、俺の手はその子の腕を掴んでいた。何やってんだ。こんなことするキャラかよ、俺!ただ、転んだんだろうな、なんて流すやつだっただろ。流そうとしてただろ!大体勘違いもいいとこだったらどうすんだ?とんだ痛いやつだし、ナンパにしては格好悪いし、最悪だぞ!?ああもうほんと何してんだか…!
なんて。そんな益体もないことを考えていた俺を彼女が振り向く。その瞳はやはり暗く、だが、まんまるに見開かれていた。それは、これから起こる何かに恐怖しているかのようで、諦めきった何かに絶望しているかのようで。また寒気に襲われる。錯覚に襲われる。
「あなた、私を止めるの」
止めちゃダメだよ。唇がそう動いた。
あ、と思った時には俺は叫んでいた。感情に任せて、つい。なんだ俺、本当に格好悪い!そんな熱いやつだったか?違うだろ?どうかしてるな、今日は!
我ながら頭を打ったのだろうか、なんて疑いたくなった。
「止めるのって…当たり前だろ!止めないわけあるかよ!お前何してんだよ!!大通りで、車も多いのに…自殺か!?」
「分からない。」
は…?
一瞬、思考が止まる。呆気にとられる俺の手に少女の手が重なる。そして腕から俺の手を除けさせて、背を向け、雑踏に消えていった。
何なんだ、あれ………。
まるでわけが分からない。さっきの言い方といい、一つも死にたいようには見えない。見えないのに道路に飛び出していって。自殺志願者ではないのか?行動はどう考えても自殺以外の何物でもないのに?それとも理由があったのか。死なねばならない理由が…?そんなものあってたまるかよ…!
数分となかった出来事が、頭を瞬時に疑問で埋め尽くす。考えることは苦手なのに。苦手だと言うのに………。ああ、頭痛までするような…。気が遠くなるような感覚。頭がふらつくような感じ。平衡感覚がおかしいのだろうか。立っていられず、屈み込みたい衝動に駆られる。
そして思わずガードレールに手を着いた、その時。
「危ない!!」と、聞こえた気がした。
急ブレーキの音を聞いた。頭に響く。痛い!痛い痛い痛い!!涙が浮かぶ。耳鳴りがする。文句を言おうと振り返る。あ。あ?え、何で?歩道なのにトラック………
何?
息、ができな………痛い、いたいいた、い痛いいたい痛いいたい、手、に足に背、中に、刺さる…なにこれ………手、動か、ない体、がうご、か………あ、ああ、あ………
「だから言ったのに。止めちゃダメだよ、て。もういーのに。」
男は地面に伏した。