ゆびきり
僕には生まれながらにして、モノを切る不思議な力があった。手をチョキの形にして何かをはさみ、深呼吸をするように心を空っぽにすると、チラシだろうとダンボールだろうと、何の抵抗もなく切れてしまうのだ。
この能力を発現したのは幼稚園児の時。はっきり覚えている。僕のいた幼稚園では、シロツメグサを摘んで首飾りを作るのが流行っていて、僕は女の子の下請けでシロツメグサを回収する係だった。無心に伐採していると、ときどき頑丈なやつが見つかる。幼稚園児の握力では引きちぎれないやつだ。爪が伸びていればそれを押し当てて切るのだが、僕のお母さんは几帳面で、こまめに爪を切ってくれたし、僕にそれはできなかった。そこでどういうわけか、僕は習いたての「ハサミ」に見立てて茎をつまんでみた。するとどうだろう、まるでもともと繋がっていなかったみたいに、すっと大地を離れたのだ。僕は夢中になって、シロツメグサを切断し続けた。
そして事件は起こる。じゃんけんに似たお遊戯をしている最中のことである。僕はコトミ先生の指を切ってしまったのだ。
といっても、このときは力が弱く、切断には至らなかった。でも、突然現れた赤い切り傷、小さな悲鳴、先生の恐怖に満ち満ちた顔といったら、忘れることができない。あの日のお遊戯を境に、コトミ先生と僕は、なんだかぎこちない関係になってしまった。
子供心に、この力はとんでもないものなんだ、と思い知らされた。当然、お母さんとお父さんにも、絶対に云っちゃいけない秘密。僕はしばしハサミ能力を封印することになる。
次に僕がこの力を使ったのは小学校三年生のときだった。
僕には好きな女の子がいた。千佳ちゃんだ。千佳ちゃんは、運動も勉強も中くらいの、とてもバランスのとれた子で、お世辞にも目立つほうではなかったが、ある意味完璧だったと思う。彼女がときどき見せる優しさ、つまり消しゴムを貸してくれたり、飼育係がやり忘れたメダカの餌をこっそりあげていたりするところに、僕は惹かれた。キスやセックスの意味も知らなかったあの頃、僕は純粋に、人間の本質を見抜いていた。最初で最後の崇高な恋だった。
学級新聞を作っていて、放課後の教室に僕ら二人だけ残った日があった。僕はすごくうきうきしていて、何とかして良いところを見せようと、それだけを考えていた。紙を切り貼りする段になって、僕はピン、と来た。これだ。僕はいよいよ、千佳ちゃんにハサミ能力を告白する。
「みんなには、内緒だよ」
と前置きし、僕は画用紙を指でチョキチョキ切って見せた。千佳ちゃんは目を丸くして驚き、そして喜んだ。
「すごい! テレビに出れるよ!」
僕にはテレビに出たいという欲求は無かったけど、千佳ちゃんが褒めてくれたことは本当に嬉しかった。調子に乗った僕は、その日、余った色画用紙を切りまくって、ペラペラのチューリップとか鳥とかカニを、千佳ちゃんにプレゼントした。
そして翌々日のことである。
僕の秘密はバレていた。僕が登校すると、お調子者の男子が
「おい、紙切りムシ」
などと云って僕の机を取り囲んだ。千佳ちゃんが口を滑らせたのだろう。
僕はショックだった。いじめられたり、いじめたりするのが厭だった僕は、子供なりの処世術をすでに完成させていた。それはとにかく目立たない事だった。そのために、図工の時間でも、国語の作文でも、いつも無難な作品を仕上げてきた。そうして今まで積み上げてきたものが、この朝、崩れていた。
僕は人だかりの隙間から千佳ちゃんの姿を探した。彼女は窓際一番後ろの席で、身を固くしてうつむいていた。彼女が憎らしいというよりも、もう声をかけられなくなってしまった、という実感があり、ただとても悲しくなった。
「俺にも作ってよ。俺、モスラがいい」
隆司は僕の視線を遮り、色画用紙を押し付けて要求した。
僕はカチンときた。
「じゃあ、これをお腹の前で持っていてください」
僕はマジシャンのように云った。おお、ついに始まる、というざわめきが輪から教室全体に伝搬し、あたりが静かになった。
僕は素早く手をカンチョーの形にして、画用紙めがけて突き刺した。抵抗はほとんどなかった。せいぜい給食の牛乳パックにストローを刺したような感触があっただけだった。
う、という隆司の声が聞こえた。茶色の画用紙が見る見るうちに黒く変色していく。それと時を同じくして悲鳴が広がった。
「センセー! 大変でーす!」
僕は慌てて指を引き抜き、赤く染まった第二関節を見た。汚い、と感じた。ズボンのすそでごしごし拭く。ほどなく先生がやってきて、何やってるんだ、と怒鳴った。
それからは保健室に連れていかれたり、親が呼ばれたり慌ただしかった。僕は何を訊かれても、ビンタされても、歯を食いしばって黙っていた。凶器が無いことが決め手になり、事件はよく分からない「事故」ということで片づけられ、ただ扱い切れない僕の身柄については、自宅謹慎ということで落ち着いた。
お通夜のような夕食の後、僕は閉めきった自室で、お気に入りのプラモデルを眺めて過ごした。これ以上この秘密がバレたら、僕はあやしい研究所か軍事施設に送られるんじゃないか、と考えていた。
自分のてのひらに視線を移す。
ふと、僕の小指から赤い糸が伸びているのが見えた。
それに影は無く、しかしはっきりとした存在感を放っていた。赤い糸は網戸の隙間から窓の外の夜空に伸びていた。
ついに見えざるモノまで視えるようになってしまったのだ。
切れるんだろうな、と僕は確信していた。そして午後九時ぴったりに、指をあてがい、そっと赤い糸を切った。それはとても儚く、さくっ、という軽い感触だった。
ふらりと垂れた末端を見ると、僕は千佳ちゃんのこと考えずにいられない。千佳ちゃんほどの天使が、僕を裏切った。僕はたまらなく哀しくなった。
いや、本当に裏切りだったのだろうか。僕は自問する。千佳ちゃんが謝ってくれたら、僕はたぶん許したい。
午後九時五分、僕は切れた赤い糸を結び直した。意外にも、簡単に結び直すことができた。僕は嬉しさ半分、つまらなさ半分といった複雑な気分だった。
僕はベッドに寝転びながら、ぼーっと結び目を見つめた。まてよ、と僕は思た。
あるすさまじい考えが僕の脳裏に浮かんだ。それは血流に乗って心臓まで戻ってきて、身体全体をどくどくと震わせた。
切って短くなった赤い糸。このまま糸の先は、なんなのか。
それが千佳ちゃんであってほしい、千佳ちゃんに会いたい。そんな切なる願いの他に、僕の気を紛らわすものはこの部屋に何もない。
「よし、やろう」
僕は呟き、作業を開始した。僕は真夜中まで、粛々と糸を手繰り寄せ続けた。長くたわんで来たら、余計なところは切断し、糸の先を見失わないように結び直したりもした。何故か、幼稚園の頃に見たシロツメグサの首飾りを思い出した。それから、コトミ先生の優しい指も。
午前一時。僕にとっては未知の時間帯。ついに結末はやってきた。赤い糸の結ばれていた先。それが窓から顔を出したのだ。
小指だった。
根元から切断された小指が、赤い糸に繋がれ、夜風になびいていた。
「ああ」
僕は深いため息をもたす。近くで見るまでもない、あの小指は、千佳ちゃんのものだ。
僕は窓を開け、小指を受け取る。十グラムくらいで、小さく冷たい。僕はそれを温めるように両手で包み込み、抱きしめる。
それは千佳ちゃんのほんの一部だったけれど、そこから、千佳ちゃんの想いの全てを僕は感じ取ることができた。千佳ちゃんは謝っていた。はっきりと、分かった。僕も涙が出てきて止まらなかった。僕は許す。許すから、もう誰も傷つかないで……。
あれから、僕は能力を使っていない。
そういえば、あの小指はどうなったのかというと、泣き疲れて眠り、朝を迎えると、赤い糸も小指も白い光の中に忽然と溶けていた。隆司は一週間後に学校に現れた。僕はまた仮面少年に戻り、無難な作品を作り続けた。千佳ちゃんのことは、その顔どころか、彼女の手さえも視界に入れないように努めた。僕は怖かった。
五年に進級した時、クラス替えがあり、今まで知らなかった女の子と知り合った。お世辞にも純粋とは云えない二度目の恋をし、それも卒業と同時に終わった。
今にして思えば、蜃気楼のようにぼんやりとした子供時代だった。でも、あの小指の感触だけは、何よりもよく覚えている。
今度、僕がハサミを使うときは、たぶん何か理不尽な事とかにぶちギレして、怒りが頂点に達した瞬間だろう。僕は指どころか、四肢のすべてを刃物にして、そういう輩をズタズタにするのかもしれない。正直、あまり遠い未来でもなさそうだ。最近はいろいろあってイライラしているし、ガチャガチャと身体が震えるときもある。
でも、金属片になって崩れ落ちそうな僕を、あのときの小指だけが、今はそっと支えてくれているのだった。
END
いかがでしたでしょうか。
皆さんはどんな少年時代を過ごしましたか?