第七章 潜入大作戦
冬の夜の寒さはまるで小さな針に刺されているような痛みを肌という肌に感じる。外気に曝されている指先や耳はその刺激の餌食となり、ほとんど感覚すらなくなり始めていた。啓たち一行は潜入大作戦を決行するため、研究所の近くまで夜道を歩いて接近していた。ここに来るまでに電車は二駅、バスは数駅の移動を要した。その間啓は洪水のように緊張と焦りが押し寄せてきて落ち着いてはいられなかった。その気持ちを紛らわすかのように、道中啓は三人の耳にたこができるほど潜入の手筈を何度も説明した。それに緊張以外にも啓の心を邪魔している感情があることを啓自身気づいていた。これは誰にも話していないことで、それどころか自分の心の中で考えることすらなんだか恥ずかしく思えた。久しく会う人にはどんな顔をすればいいのだろう? そもそも会うことになるだろうか? 啓は他の三人にも心の内を明かすことを考えたが今は切り出す勇気もなかった。
移動中、理惠は気持ちが揺れ動いていたのか一度覚悟を決めたその瞳は覇気がだんだんとなくなってきていたが、帰ろうとしたそぶりは一切見せなかった。反対に拓はというと最初こそあんなに張り切って潜入に賛同していたのにも関わらず途中でことの重大さに気が付いたのか、電車で一駅移動した頃からは「やっぱりやめよう」が口癖になってしまっていた。沙織はある時にはごねる拓をあやしてあげたり、ある時には持ち前の明るさでチームを鼓舞したり、またある時にはじっと車窓から見えるオレンジ色に染まった街の景色を見つめていたりしていた。四人の中では最も肝が据わっているように見えるほど、その燃えた眼差しの目を見据えていた。しかし啓と目があった時にはにこっと温かみのある笑顔を投げかけてくれて、不安という霧を晴らし啓の心に夕日の光を導いてくれるのだった。
そんな四人は今研究所に続く薄暗い街路を黙々と進んでいた。その凍えるような寒さで自然と口数も減ってしまっていた。拓、沙織、理惠の顔が少ない灯りに照らされて歩きながら見え隠れしている。啓がポケットに手を突っ込んだまま歩いていると、突然横から理惠が思い出したように質問した。
「待って。私たち、どうやって研究所内に入るの? 多分、というか絶対関係者以外入れないようになってるわよね」
「それに関しては大丈夫だ。俺がなんとかするから…ほら、見えてきた…あれが研究所だ…!」
理惠の怪訝そうな顔もお構いなしに、啓は今見えた今日の戦場の舞台となる場所を指さした。その姿を見て胸が不自然に高ぶった。と同時に
「懐かしいなあ。昔と何も変わってないみたいだ」
啓は思わず言葉が口からついて出ていた。すると皆の視線が啓一点に集中した。
「え、啓、ここに来たことあるの?」
「あ、いや、来たことない。何でもないよ」沙織の質問に啓はたじろいで咄嗟に答えを誤魔化した。ドキリとしながらも、啓はひとりでに懐かしさを感じていた。思い出が記憶の部屋を去っても五感は覚え続けるものだ。この柊の香り、外郎餅のように白く無機質な立方体の外観。幼い頃に心で写した映像の数々が次々と頭に呼び起された。しかし啓は顔色一つ変えずにただ心の思いを搔き消した。建物全体を見てみると夜で薄暗くあまり良く見えないのに、かすかに見える輪郭からその巨大さがわかる。学校の体育館よりも遥かに高く大きな建造物の白い壁にはぽつぽつと灯りの見える窓が付いていて、遠くの方まで棟は続いている。そのさらに向こう側には隣接している発電所があり煌々とたくさんの灯りが青色に光っている。―――今日新たに遺体が発見されたところだ。公式の発表によると工事車両との接触が原因らしいが―――その景色は啓の不信感とは裏腹にプラントのイルミネーションが幻想的な雰囲気を放っていた。啓たちは歩道に接した研究所の入り口まで近づくと、その前に立ち止まった。啓が声を潜めて言う。
「みんないいね? 絶対にばれないように事を運ぼう。それに家系花を落とさないように気を付けて」
沙織と理恵は啓の言葉にそっと頷いたが、拓はまた例の駄々ごねを始めた。
「ねえ、本当に入るの? 今ならまだ―――」
しかし啓は拓の言葉も途中に敷地内へ足を踏み入れると、背を低くしながら忍び足で走り始めた。そこは校庭の半分よりも小さいくらいの平面駐車場が広がっていて、研究所の建物の入り口までは少し距離があった。後ろから続いて駆けてくる三人の足音が聞こえる。乾燥した空気が目を掠める中、啓は目の前にあるエントランスではなく別方向を目指して走っていた。正面玄関から入るなんて、そのまま刑務所に飛び込むようなものだ。事前に調べて啓は都合の良い入り口の目星を立てておいたのだった。心臓の音と自分の荒い息遣いが心拍数を高める。駐車場を照らす微かな街灯たちや柊の植木たちが遠ざかっていき、そのまま啓たちは研究所建物横の灯りも少ないその裏路地へと入っていった。車一台分くらいが通れそうなそこは建物に沿うようにゴミ捨て場があり、頭上には研究所間をつなぐ渡り廊下やパイプ管がところ狭しと張り巡らされていて辺りに陰気な雰囲気を漂わせている。そんな中啓は小道を進みながらある一つの扉を探していた。このあたりにあるはずだ…目当ての入り口が…そんな時啓はハッと息をのみ、次の瞬間にはすぐさま方向転換をした。白色のペンキに錆びかかったスチールドアがすぐ横に現れたのだ。啓は近づいて扉横の壁に張り付いて静止した。すると薄暗い中今来た道から三人がハアハアと息を上げながら走ってくるのが見えた。拓の足音だけが異常に大きく周りに響き渡っている。啓がしまったと思ったその時、沙織が一番最初に啓のもとに到着した。文句を垂れ流している。
「ちょっと…啓…速すぎるよ…もう少しゆっくりでも…いいんじゃない…」
沙織は息も絶え絶えにそう言うと続いて拓、理惠も到着した。二人とも膝をついてぜーぜーと言っている。啓は申し訳なさ半分、不満半分を感じながら言った。
「ごめん。後ろを見てなかったよ。それと拓―――もう少し足音を控えめにしてくれる? それのせいで俺たちが潜入してることがばれるよ」
啓が鋭く指摘すると拓は頬を赤らめながら顔を上げた。すると啓は何度もした説明を再度始めた。
「この扉がその入り口だ。この扉を入ったすぐ横に警備室がある。まず俺が入ってそこで監視している警備員を電気ショックで失神させる。その後で俺たちがいたことがバレない様に、全館を監視している警備室のパソコンを壊すんだ。オーケーと言ったら入ってきて」
啓は早口でまくしたてるように言い切った。すると理惠が心配そうに聞いた。
「でもやっぱり…鍵がかかってるわよ、オートロックだわ。どうするの?」
「大丈夫…これがあるから」そう言って啓はポケットをガサゴソとして、あるものを取り出した。一同はハッと息をのむ。
「啓! それってここのカードキー!? どうしてそんなもの持ってるの?」
沙織は最小の音量で最大の驚きと共に聞いた。カードキーは微かな灯りを反射してキラリと光っている。啓は得意げな顔で小さく言った。
「説明は後…とりあえず今は行かないと。拓、一緒に入って援護を頼む」
唖然とした三人を置いて啓はカードキーをかざして扉の鍵を開けた。カードリーダーからピーと無機質な音が流れる。そのまま啓はノブに触れて一呼吸置いた。そして深く考えた。これから自分たちは一世一代の勝負に出る。もう途中でやめることなどはできない。そう思うとドキッと心臓が鈍く唸った。横を見てみると拓がまだうまく状況を飲み込めない様子で啓をじっと見て突っ立っている。それを見て不安がさらによぎった啓は感情を振り払うように拓に向かって小さく頷いた。そしてドアノブを回してついに扉を開いた。
ギィィィ―――
重々しく鉄が音を立てた。その音が啓の心拍数を掻き立てる。誰もいませんように…そう啓は願った。しかし扉を半ほど空けて中を見た時、啓は頭が真っ白になった。すぐ横の警備室の中にドアも開けたまま人が一人いるのが見えたのだ。啓がいる場所と逆方向に向いていてこちらの存在には気づいていないようだが、すぐ目と鼻の先だ。こんなに近いとは思っていなかった。しかも警備室のドアも開けっ放しだ…啓は予想外の事態に慌てたが何とか冷静を保った。扉の音を立てて閉まらないように手で支えるとサッと中に入り、拓を手招きして素早く中に入らせた。扉をくぐった時拓も警備員がそこにいることに気がつくと、そのあまりに早すぎる出迎えに衝撃で目を大きく見開いた。早速中に入ったことに大層後悔しているようで、手をバタバタとしながら口パクで何かを訴えている。
「や・め・よ・う、や・め・よ・う」
しかし啓は首を横に振りながら冷静にゆっくりと扉を閉める。錆びた鉄の音が微かにその空間に響き渡った。神経を研ぎ澄ませながら啓は周りをよく見てみると、入ったそこは薄暗い廊下になっていることが分かった。人が二人くらい通れそうなほどの広さで、すぐ横には知っていた通り警備室になっていたが、予想外にもドアは開けっ放しでいた。中にいる警備員は二人も人が入ってきたのに、なんとその異変に全く気が付いていない様子だ。何台もあるモニターの前に座って机に肘をついてこっくりこっくりと揺れている。どうやら日々の寝不足で意識が朦朧としているようだ。ナマケモノのように目のトロンとしている表情が想像できる。啓はしめたと思い、早速最初の作戦を実行することにした。拓も置き去りにまずは警備室に入り込んだ。開けっ放しのドアを通って警備室の中に入るとそこは四畳半ほどの狭い部屋だった。ビデオテープや何かの資料ファイルなどが入っている本棚にぐるりと囲まれたその部屋の壁の一面には、警備モニターがいくつもの設置されておりどこかの部屋や廊下を不気味に映し出している。ライトもついていない薄暗い部屋の中、その警備モニターだけが煌々と部屋を照らしていた。啓はその前に座っている男にゆっくりと近づいた。まるで断崖絶壁を歩くように一歩一歩を慎重に進める。緊張で視界の警備員の頭が揺れ動ている。自分の息遣いが荒くなってくる。足音よりも心臓の音で気づかれてしまうのではないかというほどドキドキと脈を打っている。そんな中、啓は計画を何度も頭の中で反芻した。小さな電気ショックを与えて失神させるだけだ。致命傷にならないほどに。その後に監視システムをダウンさせる。大丈夫だ…大丈夫だ…啓は何度も頭の中で念じた。そして男の真後ろに立ち止まった。拓の方を横目でちらっと見ると、口を両手で覆ってわなわなと震えている。まるで珍獣を扱うサーカスを見ているような表情だ。啓は再び前を向き深く息を吸った。手を差し出して、震えるその指先で男の首に―――触れた。
男はそこでようやく啓の存在に気が付いたようだ。初めてモニターから目を外して椅子を回転させながらこちらに体を向けた。拓と啓が同時にハッと息をのんだ。思った通り虚ろで焦点が合わない目をしてよだれが若干垂れている。ほとんど目は線のようになって閉じており寝ぼけているようだ。
ごめんなさい…啓は罪もない人を犠牲にしてしまうことに罪悪感を覚えた。手を触れたままその顔に小さく謝る。そしてぎゅっと目を閉じて呪文を唱えた。
「ラバンデュラ…!」
次の瞬間、手から電気が迸り衝撃が伝わり、辺りは光に包まれる―――かと思いきや、何も起きなかった。稲妻が手のひらから迸ることも、男が失神して倒れる音も聞こえない。ただ静寂が流れている。異変を感じ啓は手をかざしたままぱっと目を開けた。すると斜視のように啓の外側を向いていた男の瞳はゆっくりと焦点を啓へ合わせて動いた。それと同時にハの字だったその眉は、ダルマのように吊り眉になった。目をかっぴらき眉間に皺ができ衝撃で男の口があんぐりと開くと、次の瞬間には大声で叫んだ。
「し、侵入者だ!」
「え! なんで! どうして!」
啓と拓は同時に叫んだ。男はものすごい剣幕でぱっと立ち上がり耳が潰れそうなほどの怒号を浴びせた。
「何してるんだ! お前! 侵入者だ! 侵入者だ!」
「な、なんで…どうして…!」啓は訳が分からずポケットをガサゴソと漁った。するとそこにあるはずの家系花がなんと入っていなかった。どこかで落としてしまったようだ。
「まずい! 拓! 花がない!」
啓が叫んだ次の瞬間、ドンと机をたたく音と共に警報とアナウンスが鳴りだした。
「―――警告A! 警告A!」
「小僧ら! ただじゃ済まんぞ!」
男は大声を荒らげながらその場を駆け出した。警備室を出て外部に侵入を伝えるつもりのようだ。それを見た啓が必死に叫ぶ。
「まずい! 拓! この人を外に出すな! 何とかしてくれ!」
「どうしよう! どうしよう!」
拓は完全にじたばたと慌てふためいており完全にパニック状態だ。拓も警備室の中へ進みながら両手をブンブンと振り回し呪文を連呼する。
「ミオソティスミオソティスミオソティス!!」
すると拓の呪文によりどこからともなく大量の葉がすごい勢いで流れ込んできた。まるで嵐のようにあたりを飛び回り一瞬で部屋を覆いつくした。
「なんじゃこりゃ! どうなってるんだ! えぇ!」
警備員の男は異様な光景に混乱し頭を塞いでしゃがみこんだ。竜巻のように葉は渦を作りビュンビュンと回転し速くなっている。啓は拓に向かって叫ぶ。
「拓! やりすぎだ! やめろ!」
「ミオソティスミオソティスミオソティス!!」
しかし声は届くことはなく拓の勢いは留まる所を知らない。絶えず葉は舞い回り続けて視界がほとんど見えなくなった。包丁のような葉のススキは啓の顔や手のあちこちに掠めて切り傷を作る。
「いたい! やめろ! 何がどうなってるんだ!」
「―――警告A! 警告A!」
葉の嵐の最中男が叫んで警報が鳴り響く、まさにカオスな状況を成している。そんな中啓は拓の制止を諦め、膝をつきながらモニターまで近寄った。手探りで男が押したスイッチを見つけ、それを押すとなんとか警報を止めた。すると部屋のどこかから警備員の声が聞こえた。
「もういい! たくさんだ!」
男はそう叫ぶとばねのような勢いで部屋の外を目掛けて駆け出した。
「まずい―――」
啓が思わず言葉を漏らした。その時部屋の外から女の子の声が聞こえた。
「啓? 大丈夫―――」なんと理惠が外のスチールドアを開けて入ってきていた。何も知らずに扉警備室の扉の真ん前にいる。男はブレーキも掛けられず突進した。
「理惠! あぶない!」
「きゃあ!」
理惠はよけきれず頭を覆って身構えた。扉を出た瞬間男はよけきれずそのまま理惠に接触する。
「うわああああああああ!!!!!」
男が叫び声を上げると同時に二人は猛クラッシュした。理惠は投げ倒されながら背後の壁にものすごいいおいで打ち付けられ、男は理惠を覆い被せるように倒れこんだ。廊下に痛々しい音が響き渡る。
「理惠!」葉の嵐が吹き荒れる中啓は叫んだ。部屋を突き抜けて理惠のもとへ急ぐ。
「ミオソティスミオソティ…え?」
拓もようやく異変に気が付き手を下ろした。暴れまわっていた大量のススキの葉がひらりと落ちていき、拓も理惠のもとへ走る。
「理惠! 大丈夫!?」
啓が目の前に立ち尽くしそう叫ぶと理惠は倒れこんだまま弱弱しく答えた。
「大丈夫…私は大丈夫よ」男に体ごと覆いかぶされた中、手を床に突きながら起き上がろうと奮闘している。するとその時、横のスチールドアが音を立てながら開き、沙織が慎重に顔を覗かせた。一瞬で蒼白な表情になる。
「え、一体何が…?」
廊下に広がる異様な光景に沙織は言葉を失った。葉っぱだらけの部屋のすぐ前、理惠が起き上がっているその真下で、なんと男がぐったりと微動だにもせず倒れこんでいる。完全に失神したようでうつ伏せになりながら目を閉じている。啓は一連の流れの後のこの予想だにもしない展開に頭が付いていかずただただ混乱した。
「この人…失神してる?」沙織が消え入るような声で聞いた。
「…一体、なんでこの人は気を失ってるんだ?」
啓もつい頭の疑問が口について出た。激突した衝撃でノックアウトされたのか? でも体が幾分にも細い理惠の方は意識に別状はないようだ。何が起こったのだろう。啓は考えをめぐらす横で拓も髪の毛がぼさぼさになりながら衝撃の表情を貼りつかせている。すると立ち上がった理惠がぼそっと呟くように言った。
「色々と突然すぎて、私もまだよく分かっていないのだけど―――私よ…多分、私がやったんだわ」
「え、どういうこと?」啓は理惠の謎めいた自白に困惑し目を丸くして聞いた。すると理惠は言葉を探しながら、まずは今入ってきた沙織に状況を説明しだした。
「その…さっき私が一人でここの様子を見に入るって言ったでしょ? 入った瞬間この人がこの警備室から走って飛び出してきたの。それで私はよけきれなくてそのまま顔を覆って身構えた。そしたら…」
理惠は肘を左手でさすりながら今度は啓の目を見て言った。
「…防衛本能のようなものが働いたの。私も全然知らなかったわ」
理惠の声は震えていて眼に微かな戦慄の感情が見える。啓は困惑したまま聞いた。「というと…?」
すると理惠はすうっと息を吸って話した。
「あの人の心の中で最も恐ろしい記憶を開いたの。心の奥深くまで侵入してトラウマを引き出したわ。この人は私に触れた瞬間にその記憶の餌食となって失神したみたい。
…前に啓にやったのと全く反対のことをしたのよ。この魔術をもらった日に啓も体験したの、覚えてるでしょ? 啓自身が記憶の空間に入り込んで旅をしたの。その時啓には一番心地の良い記憶を見せて心に安らぎを与えた。だけどこの人には…」
理惠は下に目線をやりながら言葉が途切れた。男は変わらず地面に突っ伏して起き上がる気配もない。その様子を見て啓は腑に落ちながら驚きを隠せなかった。自分の体験とは真反対のことがこの人の身に起こったのだ。自分は記憶の中で母親の姿を見て安らぎを得たが、一体この人はどんな記憶を見て失神したのだろう? それほど恐ろしい記憶とは一体どんなモノなんだ?
啓が身震いすると、横で拓が完全に感心した様子で言葉が漏れた。
「理惠、それってすっごいよ…マインドコントロールだ」
沙織も畏怖の念をこめたまなざしを理惠に向けた。今初めて理惠の魔術に感服しているようだ。もう誰も見掛け倒しだなんて言えない。しかし二人の視線も気に留められないほど理惠の表情には衝撃が広がっていた。男を見つめたまま黙っている。すると啓が思い出したようにぱっと三人に言い放った。
「この人―――このままだとまずい。誰かに見つかったら異変に気付かれるよ。外に出してどこかに隠そう」
啓の言葉に三人は夢から覚めたようにああと唸った。沙織が答える。
「そうだよね。あたし運ぶよ―――拓は足の方を持ってくれる?」
沙織の指示に拓もうんと返事をし、機敏に動き出した。ガタイの良い成人男性を持ち上げ、二人はえっちらおっちらと運び出した。啓もまだ脳の処理が追い付かずただその姿を見つめていた。しかし扉から男の体を4分の三ほど出したころ、拓がせき込んで言った。
「待って…誰か来てる…!」
耳を澄ますと確かに廊下の向こう側から誰かが走ってくる音がする。啓の心臓は跳ね上がった。
「みんなどこかに隠れて!」
啓はそう言いながら反射的に警備室の中に入った。隠れ場所を血眼で探す。そして部屋に一緒に入ってきた理惠と共にモニターがある机の下に飛び込んだ。小さくかがんで音も立てずにじっと息を潜める。するとその時、暗い部屋の中で目の前に広がっていた大量の葉が地面に沈み込むように消えていった。おそらく拓が怪しまれないように後片付けをしたのだろう。しかし啓が拓のファインプレーに感心する間もないほどすぐに、その足音はついに廊下まで到達した。息の荒い音を響かせながら扉の前まで来る。もう動くことはできない。机の下、薄暗い中理惠と啓は息も潜めてじっとその場にいた。まるで猫から逃げおおせたネズミのように心臓はすさまじく早く波打っている。神経を、特に聴覚を研ぎ澄ませていると一人の男の声が部屋のすぐ前で聞こえた。
「あれ、誰もいないみたいだ」
啓はその声を聞いた時、不思議な感覚に包まれた。その声に聞き覚えがあった。どこで聞いたのかは思い出せないが、確かにその清涼な声質はどこかで耳にした。それに、
「警報を出しておいて警備員はどこに行ったんでしょう?」
なぜそんな気持ちになるのか啓は分からなかったが、その存在自体に強いシンパシーを感じた。まるで昔に離れ離れになった飼い猫に再会したような―――それとも彼が飼い主の方だろうか? ともかく今この部屋に入ってきたその姿にも、下半身しか見えていないのにその挙動、放つ雰囲気においてなぜか強い親しみを覚えていた。本当なら気を張り詰めて極限まで警戒しないといけないこの状況なのに、不可解にも微かな悦びを感じていた。
「おい田中! これは誰かが侵入したってこった。警告Aが出されたんだぞ……」
すると扉の前にいる別の男が非常に焦った様子で言った。この二人でこの場所に駆け付けたようだ。田中と呼ばれた男は悠然と言葉を返した。
「なら、早急に上部へ報告しないといけませんね。警備体制を強化しなければ。それに―――」
男はそこで言葉を切った。次に放った声には清涼さに冷血さが加わった。
「私たちの計画も中止しなければ。完璧な状況の中で遂行したいのでね。邪魔が入っては困る。東館の処理を頼めますか? 私はこの館を担当しますので。時間までにすべてを止めないと」
「ええ? やめるのか? ……ああ、分かったよ。確かに止めてくるから―――」
男は最初戸惑いながらも、彼の目線から何かを感じ取ったのか、諦めたように彼の指示に同意した。そのまま廊下をもと来た方向にまた駆けて行った。もう一人の男も部屋をぐるりと見回した後、続いてこの部屋を後にした。その間啓と沙織は酸素不足になるほど呼吸を浅く音も立てずにいた。廊下から足音が遠のいていきどこかの扉が閉まる音がすると、啓は勢いよくテーブル下から飛び出した。思わず声が漏れる。
「ああ、間一髪」
両手両足を地面についてはぁはぁと息をついた。無理にかがんでいたためつま先がピリピリとしびれている。
「本当に危なかったわね。この部屋にいることを怪しまれなくて良かったわ」
理惠も怯えと安堵が入り混じった表情と共に机の下から出てきた。「念のために戦闘態勢を作ってはいたけど、あまり犠牲者は出したくないもの」
「ああ、そうだね」啓も立ち上がり、頭が回らないまま返事をした。すると
「二人に無事だって伝えてくるわ」理惠は素早く且つ慎重に部屋を通って鉄扉から出て行った。
「ああ、ありがとう…」啓は頭がぐらぐらとしてすぐに返事ができず、理惠の影に感謝を述べていた。扉が閉まるガチャリという音がすると、啓の間に久しく静寂の時間が訪れた。防犯カメラの映像が啓の肌や服を鈍く照らし、テーブル下にあるコンピューターのハードディスク音だけが微かに鳴っている。そんな静寂の中、沸騰した湯のように疑問という泡が啓の頭の中でふつふつと浮かび上がってきた。一体全体さっきの感覚は何だというのだろう? 顔も見えなかったのに、会ったこともないはずなのに、なんだか魂が共鳴するような不思議な感覚に捕らわれた。あの声もどこで聞いたのだろう? ここ最近どこかで聞いた気がする。いやむしろ、なぜかずっと前からその声を知っていたような気もする。そんな考えに捕らわれて二人の会話をあまり聞いていなかった。確か名前は田中と呼ばれていた。計画が何かという話をしていたような気がする。なんのことだろう?
額に手を当てたまま考えに耽っていると、スチールドアの音を立てて三人が入ってきた。沙織が右手に何かを持っていて、手を振ってアピールをしている。啓はそれを見た瞬間思わず叫んだ。
「俺の花! ラベンダーだ! どこで見つけたの?」
沙織が啓の家系花の入ったケースの握りしめていた。沙織は微笑みながらどこか緊張感のある目つきと口調で言った。
「外のドアのすぐ近くに落ちてたの。多分カードキーを取り出すときに落としたんだよ」
啓は思わぬミスと沙織からの視線で恥じ入り、かすかに自分の顔が赤くなるのを感じた。言葉がうまく出てこず、ぼそぼそと言う。
「あ、ありがとう…ごめん、気をつけるよ」
そう言って沙織から家系花を受け取った。花に目を移すとラベンダーが悲しんで、なんだか悲嘆のセリフを言っているように見えた。すると続けて沙織はおもむろに両手を伸ばしてきた。そしてあろうことか―――啓の右腕を掴んだ。
「え…!?」
啓は訳が分からず混乱した。すると沙織はお構いなしと言うように、目を閉じて優しく、そして小さく呪文を唱えた。
「ヒッペアストラム」
すると沙織の手の平から花と同じ鮮やかな赤色の煙が漂い始め、それと伴い啓の手の傷がするすると消え始めた。拓の葉に刻まれた痛みの感覚は次第に癒えていき、数える間もないほど早く元の状態へと戻った。啓はただその様子を恍惚したようにぼーっと見つめていた。すると最後の傷口がしまった後沙織が言い放った。
「さっき拓にもしたんだ。このためにあたしは来たんだよ」
沙織はありったけの笑顔を作った。啓の心臓は肋骨に当たってしまいそうなほどドキッと跳ね上がった。先ほどの失態の恥じらいとたった今この身に起こったことによって啓の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。何とか口の筋肉を動かして感謝を述べた。「あ、ありがとう」
するとその様子を見ていた理惠が思い出したようにぱっと言った。
「啓、ここの監視システムも潰しておくんじゃなかった? さっさとやりましょう」軽やかに言うと目線をモニターに移した。理惠の言葉に啓も次の行動を思い出しハッとした。ブルブルと顔を横に振ると、足を動かしデスクの前に立つ。微かに心に緊張が走った。
「ああ、やってしまおう」
そう言うと啓は下に手を伸ばし、テーブル下にあるデスクトップPCにそっと触れた。落ち着いて手のひらの一点に集中し、呪文を唱えた。
「ラバンデュラ」
するとあたりに一瞬青の光が走った次の瞬間―――
バンッ
パソコンがショートする音と共に、部屋全体が真っ暗になった。モニター画面に写されていたカメラ映像が一斉に消えたのだ。斜め後ろから拓が草臥れた様子の声が聞こえる。
「真っ暗だ…僕の人生くらい」
「え?」と沙織。続けて理惠が呆れて声を漏らした。「とりあえず部屋の外に出ましょう」
啓が廊下側の光を目指して動くと三人も後ろからついてきた。一旦部屋の外に出て啓がぱっと後ろを振り向くと、みなが三者三様の表情をしているのが見えた。拓は下唇を突き出してもうすでに懲り懲りだという表情をしているが、沙織は勇ましく次の指示を待っている目つきをしている。理惠は一度ストッパーが外れたのか並大抵のことではもう動じてないようで、悟りを開いたような冷徹な目つきをしている。啓がちょうど次の指示を出そうとした瞬間、扉を通って出てきた理惠がこちらに話しかけてきた。
「ちょっと啓、いい?」
理惠はほぼ耳打ちするくらいの距離に近づき、小さな声で言った。
「さっきあの警備員を失神させた時だけど―――死体が見えたの、あの人の記憶の中で。この建物内だったわ。佐々木さんではない誰かよ」
理惠は目線をちらつかせながら言った。啓の頭に衝撃が走る。この建物のどこかに死体があった。確かだろうか。まだあるだろうか? 一気に考えが巡ったが、それらの思考がこの計画の決意をさらに固めた。あの警備員は死体を見た記憶で失神したのだ。それほど恐ろしい記憶であったのは納得だ。この潜入は間違いではなかったのだ。何としてでもその遺体を探し出さなければ。啓は理解の印に理惠へ小刻みに数回頷くと、理惠も頷き返しながら後ろに退いた。扉前で円になった一同に啓は言った。
「みんないい? ここからが本番だ。とにかくバレない様に部屋を見回って怪しいものがないか探すんだ。常にスマホは手にしていてほしい。それと大所帯だと目立つから二人ずつに分かれよう」
そう言うと拓の方を向いて話し始めた。
「拓は俺と一緒に来たほうがいい。へましないか心配だから俺に見張らせて」啓は遠慮なく端的に言った。実をいうとこの潜入で一番危惧していたのは拓が本当にうまくこの計画を遂行するかにかかっていた。沙織や理惠に比べて日常生活でも頼りのない一面が散見する拓であったため、この潜入では啓自身の目でしっかりと監視しておきたかった。しかしそれを聞いた拓は自身を恥じるべき場面にも拘わらず「うん!」と元気よく返事をし、ぴょんと跳ねながらこちらに近寄ってきた。またもや耳も赤くなっている拓に、啓は若干の気色悪さを感じた。すると理惠が啓に向かって言った。
「なら沙織と私は一緒に、一階と二階を見るわ。二人は三階と四階をお願い」
理惠の提案に啓と拓は荘厳な眼差しで頷いた。
「じゃあ後で落ち合おう」そう言うと啓は拓に手招きをしながら奥へと続く廊下を駆けていった。そして突き当りの壁にある扉に手をかけ慎重に開いた。中を確認し誰もいないことを確認するとすぐ後ろにいる拓に大丈夫のサインを出した。さらに後ろを見ると元居た場所で理惠と沙織も動き始めるところだった。何も声を出さずに心の中でエールを送ると啓は拓と一緒に扉の中へと入って行った。
その中は階段の踊り場になっていた。青い蛍光灯を反射している錆びた縞鋼板の床と鼠色のコンクリートが壁になっていて息の詰まるような閉塞感を感じた。ひんやりとした冷たい空気と怪物の寝息のような風の音が響いていて、啓の心に緊張感が走る。
「誰もいない?」拓が不安そうに聞いた。そして
「うん、誰もいないはず。足音は控えめに頼むよ」啓が囁くように言って答えると、次にはバネのように駆け出し軽やかに階段を上がって行った。後ろから拓も同じく駆け上がっている音が聞こえる。しかし言われたことをちゃんと意識しているのか、足音はあまり響いていない。啓は踊り場が現れるたびに手すりをぐいと掴んで体を旋回をし、階段を不気味に照らす蛍光灯の光は目の前に現れては消え、現れては消えを繰り返した。目が回り始めたころついに一階から三階へとついた。最後の一段を昇り切り扉の前に着くと、拓と顔を見合わせながら一緒に息を整えた。
「まず三階から見るんだね?」拓が息を潜めて聞いた。
「うん。まずはフロアに誰もいないか確認しよう。拓は人が来ないか階段の方を見てて」
啓はそう答えると扉に手をかけて軽くひねった。スチールドアがキィ―っと錆びた音を立てる。啓は極限まで細く開くと目の前の様子を伺った。開くとそこは左右に廊下が広がっていた。シミの付いた乳白色の壁に各研究室への扉が等間隔でぽつぽつと付いていおり、頭上にはいくつも並んだ照明が先の方まで青白い光を放って廊下を照らしている。壁には縦長の銀色のロッカーや木製の棚が所々に並んでいる。夜も遅いからかその場には人の気配はないようだ。啓は「大丈夫だ」と拓に伝えるとその場に足を踏み入れた。そのまま拓も扉を潜ると慎重に扉を閉めた。まるで冬の隙間風のように音も立てずに侵入した二人は扉を出て左方向へと進み始めた。
「これからどこを見るの? 手あたり次第ここの部屋たちを調べてみる?」
拓が啓の耳へと囁いた。その吐息交じりの声から若干の焦りが感じられる。しかし啓の方が何倍も危機感を感じていた。ここにきて何か目星があるわけでもないからだ。安達さんや瀬古さんのデスクの場所さえ知らない。それらが分かれば何かヒントが得られるかもしれないが…虱潰しで探していくしかないのか。焦りを募らせて歩いていたその時、啓は異変を感じた。一瞬時が止まったように、ほぼ同時に啓と拓は顔を見合わせた。廊下の突き当りに差し掛かった時に右の方向に男性の声が響き渡ってきたのだ。
「あああぁぁぁ………はぁはぁはぁはぁ…うぅ!」
何かに悶えているような、聞き手を不安にさせるような声だ。二人は何も言葉を交わさずに俊敏に体を動かした。そして壁から慎重に顔を覗かせて右に続く廊下の様子を伺った。するとすぐそこに扉に体を向けて俯いている一人の男性がいた。扉にドンドンと頭を打ち続けて言葉にならない音を口から漏らしている。その姿を見て啓の頭に衝撃が貫いた。不可解な言動に黒変した肌。これはまさに―――
「感染者だ…! どうして研究所内に…?」
拓は唇に指を当てながら確信を持って言った。しかし間違いないだろう。確かにこの様子はウイルス感染者で、たった今発作が起こっているみたいだ。服装はワンポイントの入った紺の作業服を着ており、アップバングの髪形をしている。眼球が飛び出そうなほど大きく開いた目以外は口元も眉も無表情を貫いており、顔にも痣のような黒変した肌が見える。今もドンドンと扉に頭を打ち続けており収まる気配はない。
「ステージ3くらいだな…どうしてこんな所に野放しになってるんだ?」
その狂気的な姿を見て啓の心は恐怖で蝕まれそうになった。なぜ研究所内にいるんだろう。やはりこの様子だとウイルスと何かしらの関係があるのだろうか。疑念は頭をめぐるが、しかしそれでもやらなければならないことは意識の中にはっきりとあった。
「―――撮ろう。何かの証拠になり得るかもしれない」そう言って啓は壁から全身を出し男に近づいた。一歩一歩慎重に進めながらポケットからスマホを取り出す。
「はぁ…はぁ…」ドン、ドン、ドン―――
その間も絶えず男はノイズを出し続けており、こちらに気が付く様子もない。後ろから拓も付いてきている。啓に注意を促した。
「気を付けて…こっちに襲ってくるかもしれないよ」
しかし啓は返事する余裕もなく、一心に男にカメラを向けていた。
ドン、ドン、ドン―――
規則的なリズムで音は鳴り続け、不気味さすら感じる。近づくほどにスマホを構えた腕が震える。
ドン、ドン、ドン―――
啓の呼吸も微かに激しくなる。心拍数は上昇する。啓がやっとの思いで録画ボダンを押した。しかしその時―――
ドゴッ
啓の背後で鈍い音が聞こえた。と同時に、拓が廊下に響き渡るほどの悲痛な声を上げた。「イテッ!!!」
「何だ…!?」啓は意表を突かれてぱっと後ろを振り返ったその瞬間
「ウワァァアアァァァァァァアァァ!!!!!!!」
何と背後に別の男が立っていた。廊下の影から不意に現れ、けたたましいほどの雄たけびを上げている。今まさにこの男が拓を殴りつけたようだ。完全に前方へ意識を集中していてその存在に全く気が付かなかった。その男は続けて拓を襲おうとしている。
「嘘!?」啓は頭が真っ白になり、慌てて拓を庇おうとした。しかし間髪入れず、
ドンッ!!!
今度は啓の後頭部に強い衝撃が走った。啓は激痛で悶えてよろける。後頭部を両手で抑え込む。
「ってぇ…!!」
啓は今しがたその姿を撮ろうとした男に後ろを見た隙に殴られた。男は触発されたかのように斜め上に顔を向けて甲高い叫び声をあげる。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
続けて男は啓に殴りかかった。鬼面を張り付けたような顔で拳を突き出す。
「やめろ!」
啓はいまだに痛みに悶えながらなんとかよけた。しかし
「ハぁ!! アァ!!! アァッ!!!!」
男は連続でジャブを繰り出し、啓に襲い掛かる。完全に攻撃的状態の症状だ。我を忘れてなりふり構わず拳を振り回している。背後でも同じような叫び声が聞こえ、拓の悲鳴が聞こえる。この状況を何とか打破しなくては。啓は男の攻撃をよけながら最良のタイミングを伺った。ショックを与えて失神させてやりたい。しかしこんなに動いて暴れまわっていては、思った量の電流を流すことができない。このまま何も考えずに魔術を使っては致命傷を与えてしまうかもしれない。
「ウワァ!!! アァッッ!!!!」
男は左右の腕を交互に突き出し絶えず前進しながら攻撃を続けている。啓はそれをスマホ片手に後退しながら左右に身を動かしてよける。しかし次の瞬間、男は肩や腰を大きく捻った。そしてサイレンのような声を出し強烈な右ストレートを繰り出した。
「ッッッウラァァァァァ!!!!!」
啓は咄嗟の判断でその場にしゃがみこみ攻撃をよけた。すると男は攻撃が当らずにバランスを崩しその場によろけた。その一瞬を啓は逃さなかった。動きが鈍った両足をロックするように両腕で抱え込み、同時に腕の中心に精神を集中させ呪文を唱えた。
「ラバンデュラ!」
すると男は一瞬ビクッと痙攣し、次の瞬間には
ドサッ
後ろに倒れこんだ。今の今まで暴れまわっていたのが嘘かのように、その場で大の字になり失神している。
啓はその様子を見て息を上げながら立ち上がった。スマホをポケット入れる。しかしほっとしたのもつかの間、今度は背後から叫び声が聞こえた。
「アルペストリス!」
後ろを振り返ると、拓の手のひらから長い縄のようなツタが飛びだしているのが見えた。目の前の離れた男へツタはするすると飛んでいき、まるでカウボーイのように華麗にそれを操ると、拓は男の上半身を力強く縛り付けた。
「おらっ!」
そのままぐいと引っ張ると、男は前へバランスを崩し跪くように倒れた。男は餌に引っかかった魚のようにバタバタと抗っている。しかし、男のパワーは弱まる所を知らず、叫び声をあげるとその場で勢いよく起き上った。次の瞬間には上半身が縛られたまま前方の拓へ猛突進し始めた。男は拓にもうクラッシュをするつもりだ。拓はツタの紐を掴んだまま叫んだ。
「わ、わぁ!!」
男が走り出したのとほぼ同時に、啓は地面を蹴って拓の元へ走った。まるで自身が稲妻になったように猛スピードで駆け抜け、男は隕石のように拓へ迫り来ている。五メートル、三メートル、一メートル―――その距離は近くなる。拓は反射的に腕で頭を覆った。
啓は叫んで拓を右手で庇い、ノールックで左手を前へ突き出した。そしてほぼ同時に呪文を叫んだ。
「ラバンデュラ!」
すると丁度タイミングを計っていたかのように猛スピードで突進していた男の胸に指先が触れていた。
男は咆哮すると啓の電撃で大きく痙攣した。そしてそのまま膝から落ち啓の足元へと倒れこんだ。ドサッという苛酷な音はまるで試合終了を表しているようだった。空間に突然の静寂が流れる。二人はただはぁはぁと息も絶え絶えにその倒れた体に目を見開いていた。ただ聞こえるのはざわめいた心を体現するかのような自分と拓のこの息の音だけだ。今起こったすべてのことを脳内で処理するのには時間を要した。今二人の大人を打ち負かすことができたのだ。その事実に対して興奮という感情は端に追いやられ、恐怖が風船のようにぶくぶくと膨れ上がっていた。男の顔や手の周りにはいまだに細い青色の電流がチラチラと見え隠れし、その度に男の体は不気味にもピクピクと痙攣していた。横を見ると拓が男に繋がったツタをまだ両手で掴みながら、同じくはぁはぁと息を上がらせていた。目を開いて怯え切った表情をしている。しかし啓の方を見ると口元が少し緩み、次に言葉を投げかけた。
「ナイスプレー」
状況とは似つかわしくないほどの軽い言葉で言うと、震えてぎこちない口で笑顔を作った。その言葉と表情で啓の心の恐怖がほんの少しだけ取れた。言葉を返そうと啓が口を開きかける。しかしその時、頭上で青白い閃光が走った気がした。それとほぼ同時に―――
ドオオオオオオォォォォォォォン!!!!!!
天井が爆破され轟音が鳴り響いた。反射的に二人は頭を塞ぎその場にしゃがみこんだ。一部のコンクリートが崩れ落ち、啓たちに襲い掛かる。照明のガラスや天井の破片が床へけたたましい音を立てながら落ちて、辺り白い砂埃で覆われた。訳が分からない。今度は何なんだ? 目や口に埃が入って苦しい。咳が止まらない。何だ! 今度は一体何なんだ!
「啓! 大丈夫!?」
隣で拓が叫んだ。啓は頭を庇いながら恐怖に押しつぶされていた。まさかラボの潜入はここまで命を危険に曝すものだとは予想していなかったからだ。今の爆発は一体なんの仕業なのか。こんなことなら三人を連れてくるべきではなかった。状況が飲み込めず混乱と動揺で動けずにいると、次第に瓦礫の音は静まっていき辺りの砂埃は収まり始めた。
啓は顔を上げ隣を見てみると、拓が膝をついて涙目になりながら腕で口を覆っているのが見えた。啓と同じくらい動揺しており、呼吸を整わせることを忘れている。その瞳は恐怖そのものを表していた。あたりにはノックアウトした二人の男が倒れている中で、瓦礫や小さなコンクリートの破片が散乱している。頭上を見ると天井に穴が開いている。一体何が起こったのか。さっき一瞬見えた閃光は一体―――
その時啓はハッとした。廊下の前方に何かただならぬオーラを感じたのだ。何か怪物が迫ってきているような…何か自分たちを危殆に瀕するような…啓はその存在の方向へパっと顔を向けた。すると、
トン トン トン―――
廊下の向こう側から人が一人歩いてきているのが見えた。高い背丈に広い肩幅。その屈強な体に紺の作業服。啓は一瞬で誰なのか分かった。赤穂重治―――今日まさに拓のスマホで見た記者会見に映っていた人物の一人だ。ギラギラとした活気のある雰囲気に不敵の笑顔を見せていた。しかし今の表情はあの映像とは全くの別人のように見える。その歪んだ顔でできた額や口の皺の一本一本には憎悪と残忍さが刻み込まれている。啓はまるで目を見開いて磁石で引き寄せられるように目の前の男を見つめていた。啓はその姿から本能的に感じ取った。何かが起こる。何か不吉な予感がする。しゃがんだ姿勢のままおもむろにポケットからスマホを取り出した。震える手で赤穂にレンズを向けようとした。すると男は歩きながらものすごい剣幕で右手を差し出した。そしてその手をハエを追い払うように前方へと振り払った。その時、信じられないことが起こった。
スマホをかざした啓の右手に強い青筋の電流が流れ、スマホがパリンという音を立てた。それと同時にスマホは啓の手から離れ数メートルほど勢いよく投げ飛ばされた。
啓の右腕に痛みが走り思わず左手で抑えた。肘から指先までがびりびりと痺れて一人でにブルブルと小刻みに震えている。
「ひ、啓…!?」
拓が叫んだ。意味が分からない。なぜスマホが一人でに飛んで行ったんだ。あの青い電流とこの痛みはまさか―――
赤穂は間髪入れずに歩きながら次の動きを仕掛けた。肘を上げながら胸の前に両の手の平を前向きに重ねてひし形を作ると、全身を使って息んだ。次の瞬間―――
廊下に反響するほどの叫び声を上げた。まるで悪魔を召喚するような、万物をも従わせるような声色で。すると赤穂の手の平から何本もの青い稲妻が飛び出し、こちらに向かって襲い掛かってきた。啓は反射的に腕を振り上げ呪文を唱えようとした。
「ラバン…!」
しかし反応が遅く防御が間に合わなかった。何本もの稲妻は啓の腕へ、胸へ轟音とともに直撃した。その衝撃で体はのけぞるように吹き飛ばされ、啓の体が宙に浮く。信じられない。今目の前で見たものが。今自分の体に起こったことが。何も飲み込めない―――
そのまま啓は背中から床にドンと打ち付けられた。衝撃が体中に伝わる。背骨に広がる痛みに悶えながら右手を床について上半身を起き上がらせた。全身の痺れが止まらない。頭もくらくらとする。視界がぼやける中で何とか目の前にピントを合わせると、なんと男が休息の間を与える気もないように、第三の攻撃を準備しているところが見えた。啓はその時感じ取った。そこに酷いくらいの怨恨があることを。こちらには想像できないくらいの敵意を持たれていることを。
「余計な真似を」
男はそう怒鳴るとまたもや青い光が手から這い出てきた。まるで竜のように、ジグザグに動きながらこちらへ迫り来る。啓はついに恐れおののいてしまいただ何もできず、頭を庇った。死ぬ。死んでしまう。
するとその時、
「ミオソティス!」
拓の呪文とともに何かが地面から這い出るような衝撃と音がした。目の前に何かが覆うような気配がした。と同時に―――
ドオオオオオオォォォォォォォン!!!!!!
自分目掛けて飛んできていた稲妻が目の前の何かに激突した。自分の体ではない。啓はぱっと前を見ると幹ほど太い蔦が何本にも絡まり合った壁が啓を守っていた。稲妻の衝撃で黒く焦げておりシューと音を立てて煙が上がっている。間髪入れずにその影から拓が飛び出してきて啓に向かって叫んだ。
「立って! 逃げないと!」
拓は啓の手をぐいと引っ張って立ち上がらせると、そのまま全速力で走り始めた。啓はよろけながらなんとか拓の後ろについて廊下を駆ける。しかし恐怖と衝撃で力が入らず、うまく足が動いていない。まるで悪夢の中で走っているようだ。目の前で拓が叫んだ。
「まさか僕たち以外にも使えるのがいたなんてね!」
「まさか。俺たちの夢かもしれないな!」
啓が叫び返した時背後から全速力の足音とともに、怒号が聞こえてきた。
その瞬間ピカッと光り廊下全体が明るくなった。またもや男が放つ稲光が二人よりもはるかに速いスピードで襲い掛かってくる。しかし間髪入れずに、
「ラバンデュラ!」
走りながら後ろを振り向きて、啓は防御の魔術を放った。男の閃光と啓の稲妻が激突し耳を劈くほどの爆発音が鳴り響く。
「夢なら醒めてくれ!」
拓は哀願するように叫んだ。啓は必死で逃げまとう中、ある一つの疑念が心に浮かんでいた。あの男、赤穂が魔術を使えるのなら「あの人」も使えるのだろうか? もしかすると、今日行きしなからずっと考えている彼も自分と同じ魔術者なのだろうか。そう考えながら廊下の突き当りまで着くと、地面を強く蹴って右に曲がった。
「このままだとろくに調査すらできない!」
「何言ってんの! 調査とかもうどうでもいいでしょ! 殺されかけてるんだよ!?」
拓が全速力の中憤怒と戦々恐々の感情が混ざり合った表情をこちらに向けた。その時またもや後ろから怒鳴り声が聞こえてきた。
「待て!」
同じく突き当りを右に曲がり追いかけている男がまた攻撃を放とうとしている。啓は走りながら反射的に顔を後ろに向けて魔術を打ち返そうとした。しかしその時、
パリンッ パリンッ パリンッ―――
頭上に取り付けられた幾つもの蛍光灯が軒並み割れて、ガラスの破片が啓たちに襲い掛かってきた。と同時に男から放たれた稲妻が走っている目の前の棚に激突した。キィーと音を立てながら倒れ掛かる。
「危ない!」
啓は棚の下敷きになりそうだった拓を捨て身で横に引っ張り、すれすれのところ何とか落ちてくる棚から避けた。その時倒れた棚が啓の肩を掠めるのを感じた。そのまま木製の棚は床に打ち付けられガッシャ―ンと音を立てた。間一髪だった。
「クソ! 危ないでしょ!」
拓は走りながらキッと後ろに向かって鋭い目線と共に叫んだ。今の攻撃を受けて拓の中のスイッチが入ったようだ。男の方向にパっと手を差し出して呪文を唱えた。
「ミオソティス!」
まるでリベンジを挑むような声色だ。左右の研究室の中からゴゴゴという地鳴りのような音が聞こえてくる。拓の口角が不気味にニヤリと上がった。
「何をしたの…?」
啓が恐る恐る聞いたその時、轟音を立てながら右側にあった研究室の扉を突き破り鬼の棍棒よりも何倍も太く大きい樹木の幹が横向きに飛び出してきた。それは男に鈍い音を立てて衝突し、男は左の壁に激しく打ち付けられた。うなだれるように壁にもたれながら床へとするする落ちていく。
「ハハ! ざまあないね!」
その様子を見た拓は完全にハイになったように高笑いをして男に叫んだ。その時啓は思った。人の心には元来より善良と共に邪悪が棲みついているのかもしれない。あの拓でさえその時は反撃の成功により悪霊が憑いたような笑みが顔中に広がっていた。
「拓、ちゃんと前を見ろ! また突き当りだ。次は右か?」
啓の声を聞いて、拓はまるで釣り竿で操作された針のように右へ方向転換した。
「出口はどっちだ…うわ!!」
「キャア!」
しかしその時左から影が飛び出してきた。ドンと正面衝突して高い叫び声が聞こえる。啓はその顔を見て驚きの声を上げた。
「理惠! 大丈夫? どうしてここに?」
飛び出してきた理惠が左肩を右手で抱えて痛みに煩悶しながら立っている。すると
「逃げてきたの! ここにいてはまずいよ」
同じく左側から走ってきた沙織が代わりに答えた。額に多くの汗を滲ませて非常に焦っている様子でいる。
「え、二人も? 一体何から逃げてきたの?」
啓はそう言いながら、再び四人が揃ったことで安堵した。ずっとアラームのように高鳴り続けていた胸がすっと落ちていくような感覚だ。しかしその感情もつかの間、沙織の背後の遠くの方に人影が一瞬見えた気がした。その影は勇ましく清涼な声で叫び声を上げた―――
一瞬雷が落ちたかのように辺りが光に包まれると、次の瞬間にはその彼方から稲魂が一直線に飛んできた。
「伏せて!」
理惠が狼の遠吠えよりも響く声で叫んだ。しかし啓は脳内に雷を放たれたかのように動揺していて反応が遅れた。その男の放った稲魂は間一髪、啓の髪の毛を掠め背後の壁へと激突した。衝撃と爆風が啓たちを襲い四人は顔を覆う。コンクリートは一瞬で粉々になり辺りは砂埃でいっぱいになった。
「逃げて!」
沙織は叫ぶと四人は悲鳴を上げながら男のいる反対方向へ猛スピードで走り始めた。
「今のって、誰!? 誰なの!」
「分からない! けど顔は見たことあるの」
拓と理恵が走りながら叫び合った。しかしその横で啓は頭の中で思考がコードのように絡み合い球になってはショートしていた。監視室で聞こえたあの声の主だ。確か名前は田中だったはず。今呪文を叫んだその声は監視室で聞いた彼の清涼な声と全く一緒だった。それに一瞬見えたあの顔は拓のスマホで見た記者会見の映像に映っていたではないか。マイクは用意されてはいなかったものの赤穂の隣で補佐係として机の前に座っていた。あの声の主は彼だったのか。啓の頭の中で点と点がつながっている中、絶えず後ろから鳴り響く足音が迫っていた。
「どこかに隠れたいわ。一度撒いて安全にここから脱出したいの。ああ、こんな所、来るべきじゃなかったわ!」
理惠はほぼ涙声になりながら恐怖に慄いて言った。啓は理惠の言葉で思わず歯軋りした。啓の中ではまだ計画は終わっていなかった。この建物のどこかに横たわっている遺体もまだ見つけていないし、さっき男にスマホを壊されたことで何も映像が手元に残っていない。これでは世間へこのラボの、ウイルスの真実を曝すことなどできない。しかし今のように三人が命の危険に瀕するようなことも許されない。
啓たちは走りながら迫り来る男と攻防線を続けていた。青い稲妻や蔦が飛び交い合いあちこちの照明は割れ、壁の一部のコンクリートは至る所で粉々になった。その間も啓はしきりに後ろを見て絶えず走りながらその追いかけている姿を見ようとした。長い脚に白衣の服装。セットされた艶のあるナチュラルパーマ。ついさっき戦闘した男に比べて幾分にも若そうに見える頬の肉付き、その目―――どこかで会ったことがあるのだろうか。啓はまたしても不思議な感覚に捕らわれた。
しかしその時啓の気持ちを覆い隠すように拓が野太い声で呪文を唱えた。そしてその網のように放った蔓が猛獣を捕獲するように男を捕らえた。男はそのまま倒れて身動きが取れなくなり、床に這いつくばりながらその場でじたばたとした。地面を揺らすほどの咆哮が背後で聞こえる。
「ナイス、拓! よく考えたわね」
理惠は感心すると、拓は走りながらできた赤ら顔をさらに赤く染めた。
「でもすぐにほどけるよ…どこかに隠れなきゃ」沙織は険しく警告した時、四人は渡り廊下を走り抜けて併設された別の館へと出ていた。そこは人が三人ほど通れそうな廊下が遠く向こうの端まで伸びており、その途中にも均等間隔で左右へ道が伸びている。その通路間の壁には扉があり一つ一つ部屋になっているようだ。上半分は昼白色、下半分は群青色のデザインの壁をした廊下には障害物が一つもないが、左右の通路にはどこもところ狭しとスチール製の棚やロッカーが設置されているのが見えた。啓は走り抜けている間あることを思いついた。
「拓、いろんなところに幹や蔦を放ってロッカーを倒していってくれ! 俺たちがどの方向に逃げたか分からないようにさ!」
啓は自身のひらめきで悦になりながら拓の方を一瞥した。すると一瞬憂惧に襲われた。さっきまで赤らめていた顔がもっと赤くなっている。汗も多く噴出していて、なんだか熱っぽいようだ。しかし啓が心配の声をかける間もないほど即刻啓の提案に賛成したように堅く頷くと、すぐに両手を左右に振り上げて呪文を唱えだした。通路にある棚を次々になぎ倒していく。至る場所からロッカーが床に打ち付けられ、コンクリートや鉄の衝突音が廊下に反響してステレオで聞こえてきた。
「ナイス、拓!」啓は思わず鼓舞する言葉で声を上げた。
啓たちは絶えず廊下の端を目指して真っすぐ走っていた。すると中ほどで一台だけ壁に沿ってポツンと設置されている棚があった。ここの縦に続く廊下には左右に続く通路と違い一つも障害物がないのに、ここにだけ置かれていて不自然に感じる。何より廊下の幅の三分の一を占めていて走って通るには邪魔だ。後ろで拓が続けて勢いに任せて呪文を放った。
「のいて! ミオソティス!」
拓の放った植物の蔓はその棚に絡みつき、右の通路に滑らせるように押しのけた。するとその時、全速力だった啓は突然突っ張ったようにその場で急停止した。あまりに急に止まったので後ろを走っていた拓に衝突を喰らった。焦燥と苛立ちが混じった声が聞こえる。
「何? どうして止まったの?」
しかし啓は横にある壁の方を一点に見つめていた。今退けた棚の元居た位置に扉が一つ現れたのだ。明らかに今棚を使ってその存在を隠されていた。少なくとも啓にはそう感じた。
「今棚を使って隠されてたよね? 怪しくない?」
啓が扉を指さして訝るように言った。唖然として返事のない三人を置いて、啓は扉に近づくとドアノブに手をかけてガチャガチャ言わせた。しかし
「鍵が掛かってるわ。ここもオートロックよ…ねえ早く逃げたほうが―――」
理惠が髪を耳にかけながら言った。啓はじれったい気持ちになった。何かがこの中で隠されているような気がする。なぜそう感じるのか分からないが、わざわざ扉の前に棚を置くなんておかしい。するとその時、今来た方向から足音が聞こえてきた。地団太を踏むような強い足取りでこちらに向かっている。
「追い付かれるよ…!」
拓が拳を上下に振って訴えた。しかし啓はその場から動けなかった。微動だにせず自分自身と対話するように小さく呟いた。
「隠れるならここしかない」
啓は一か八かドアノブの上にあるオートロック部分に手をかざすと呪文を唱えた。
「ラバンデュラ…開け…!」
神経を一点に研ぎ澄ませてその部分を撫でた。するとバチンと音を立ててオートロックはショートした。シューと黒い煙が立ち昇り始める。啓は占めたと思いドアのレバーハンドルを下げて強く扉を前に押すと
「入って!」
勢いよく開いたドアをまるで防潮板を外して溢れた波のように潜ると、啓含む四人は真っ暗の部屋の中へと入った。しかし異様に重たい扉だ。金庫のような重厚な鉄扉を啓は閉めると視界が何もない中扉に耳を当てて息をじっと潜めた。咄嗟に考えた行動だったが最善だっただろうか? 真っ暗な部屋の中四人の荒い息遣いが聞こえる。すると左の方から籠った音で微かに足音が聞こえてきた。渡廊下を通りこの廊下にたどり着いたようだ。その音はどんどん大きくなる。五メートル、三メートル、一メートル―――どうか扉に入る所を見られていませんように…頼む…お願いだ…
するとあろうことか、その足音はこの部屋の前で止まった。啓はサッと血の気が失せた。まさか。嘘だ。見られていないはず。まだ自分たちがこの部屋に入った時には、廊下に男の姿は見当たらなかった。見つかるはずがない。啓は扉を開かれないように無意識に握っていたハンドルバーを必死で上げていた。
向こうの方からも上がり切った息の音が聞こえる。啓含む四人が息を止め一瞬の沈黙が流れた。もうだめか―――
しかしその時、その足音は再び右へと動き出した。廊下に反響し、その音は遠ざかっていく。それを聞いた瞬間啓の心は踊った。まだ生きている喜び。見つかった時の恐怖に震えて安堵を噛みしめた。まだ何も達成してはいないのに喜びはひとしおだ。
「遠くに行ったみたいだ。もうみんな、出ても大丈夫だよ」
啓は愁眉を開いた優しい口調で言った。しかし、返答はなくしばらく間が開いた。最初に理惠が口を開いが、この上なく険しくおどろおどろしい口調だ。
「啓、なんだかこの部屋おかしいわ。異臭がするし、なんだか寒気がするのだけど…」
理惠の不可解な言葉に啓は一瞬戸惑った。しかし、聴覚に振り切っていた感覚が嗅覚にも行き渡り始めると、啓もその異変に気付かずにはいられなかった。確かに生ゴミの腐敗したような鼻をつんとする臭いがこの部屋に充満している。むしろ思っていたよりもその臭いはきつく、だんだんと吐き気がしてきた。真っ暗で何も見えないが部屋の奥の方から漂っているようだ。啓はすぐさま呪文を唱えて指先に灯りをともした。それを見た拓と沙織もスマホでライトを点けた。
「一体何の臭いだろう? 部屋の電気はつかないみたいだけど」
拓が扉のすぐ横にあったスイッチをカチャカチャと弄りながら言った。しかし啓はすでに部屋全体の様子を見回していた。この部屋は六畳ほどの広さで、置かれている物の多さで圧迫感を感じさせられる。部屋の真ん中にはドア付きの壁があり、この部屋を二つに分けている。扉を入ってすぐ前方には銀色のスチール棚が縦に壁に沿って隙間もなく置かれている。棚の中には何かの資料であろう大量のコピー紙が積まれていたり、ファイルや本などが立てられたりしている。部屋前方の壁には棚のすぐ横に事務用の二つのユニットテーブルが並んであり、大分古そうなデスクトップパソコンがそれぞれの机に置かれている。埃をかぶっており長らく使われた形跡はない。部屋中央の壁は上半分がガラス、下半分がコンクリートになっていて、上半分のガラスは白い斑点のような酸焼けや埃でひどく汚れている。部屋全体が長い間掃除されていないようだ。ガラスの向こう側も汚れで見えづらくなっている。それでも啓は気になりよく目を凝らして部屋の反対側を見てみた。他の三人も同じ方向をほぼ同時に見た。その時―――
衝撃が頭を貫いた。全ての言葉が、思考が、夢や希望さえもが空虚の奈落へと吸い込まれていくようだった。最後の光も霧の中に消え自分自身の体も投じてしまいたくなる。さもなければ、今後一生この景色は心に根を食い込ませては寄生し幸福さえも蝕んでいくだろう。ただ受け入れられない、見たくもない景色がそこには広がっていた。
人がいる。おそらく人だろう。しかし体は液状化しており原型は留めていない。褐色になったり黒変した肌から所々筋肉や骨が見えている。スーツのような服は体液を吸って縮れては変色している。周辺の床には体から溶け出した脂や血液が広がっており、石化した体液が辺りで鍾乳石のように床から伸びている。その池の中には抜け落ちた髪の毛や歯、その他体に付随していたものが散乱しており、まさに地獄そのものを表しているようだ。顔は不自然に上を向いていたようで顔がこちらを向いているが、眼球は飛び出しており頬骨も曝され誰かも判別がつかない。どのくらいこの体はここに放置されているのだろう。生々しい光景に脳はその目に写る景色の処理を拒み、思考は停止した。鼻中の粘膜にまとわりつく強烈な死臭は視覚や聴覚さえも麻痺させ吐き気は蓄積される一方だった。耳鳴りや波打つ拍動、乱れた息遣いが骨伝導で脳内に煩く反響した。
皆が声も出せず、ただ呼吸の仕方を忘れたかのように青白い顔で突っ立っている。啓が朦朧とした意識の中横を見ると、沙織が両手をうずめてその現実から自身に備わっている全ての感覚を遮断しようとしている。しかし魔の手のようにそれは一番敏感な心を侵しているのだろうか、沙織の荒い息は次第に咽ぶような泣き声に変わっていった。
「これって―――」
拓が何か言おうとしたがすぐに口を封じた。受けた衝撃があまりにも強く、続く言葉すら口から紡ぐことができない。誰なのか。一体どうしてここに。なぜこんな姿で―――他のみんなも同じだろうが、疑問は竜巻のように啓の脳内を渦巻いていた。しかし不可解と不条理で憔悴しきった精神の中でも使命感はわずかに残っていた。皆に聞こえるように今出せる最大の声で呟いた。
「―――撮って―――」
喉はからからに乾いていて、まるで声帯が化石化したようだ。驚くほど声が出ない。
「撮って―――撮らないと―――早く―――」
まるでこの場から一刻も早く立ち去りたいような縋るような口調で、啓は周りを促した。拓と理恵が返事もせずスマホを取り出すと、パシャリとシャッター音を鳴らした。密閉され切ったこの空間に整然で無機質なその音が無駄に響いて不気味さが漂った。そこに途方もない、救いようもない沈黙が流れる。ただやるべきことは一つ。啓は確信して言った。
「逃げよう。一刻も早く。この場所から逃げよう」
啓は後ろに振り返って言った。するとその時、
ゴゴゴゴゴゴ―――――
突然地面が微かに揺れて下の階の方から爆発音が微かに聞こえた。まるで怪物が目を覚まして唸り声をあげたような音だ。予想外の出来事に啓たちは動揺を隠せずお互いに顔を見ながら目を見開いた。
「何? 何の音なの?」理惠が両肘を掴んで怯え切った様子で声を震わせた。すると今度は廊下の方から女性の自動音声アナウンスの声が聞こえてきた。
「火事です。火事です。一階の研究室Cで火災が発生しました。落ち着いて避難してください」
あまりに唐突の警報に心臓は抉られたようにドキッと唸った。もう予想外の出来事ばかりでパニックを起こしそうだ。実際沙織はあまりに受け入れがたい事の連続で、一瞬取り乱した。それを見かねた啓はほぼ叫ぶように言った。
「この部屋を出よう。とにかく出口を目指すんだ。」
そう言って駆け出すと他の三人もしがみつくようについてきた。重い鉄扉を開けて部屋の外に出ると、廊下の明るさに一瞬目が眩んだ。そのまま啓は左へと走りだした。もと来た道を辿ればいいんだ。本館へと戻りそして一階へと降りて、あの監視室横のスチールドアからでる―――あの扉のことを思い出すと、今日この研究所へ足を踏み入れたあの時がずっと遠い過去のように思えた。何も知らなかったあの頃、嘘よりずっと酷い真実をまだ見ていなかったあの頃。
啓が錯綜とした感情と一緒に走っている間も、絶えず廊下には火災放送が鳴り響いていた。この不自然に音程が上昇するサイレンは、まるでその感情をさらに締め上げて抉るかのようだった。しかし幸いにも先ほど追いかけられていた男の姿は見当たらなかった。廊下にはただ四人だけの足音しか気配を感じさせるものはない。
渡り廊下を渡りさらに突き進んでは突き当りを左に曲がり右に曲がりを繰り返して、啓はようやく見覚えのある非常階段への扉とみられるものを見つけた。その頃にはほぼ酸欠状態になり眩暈は酷くなっていた。視界はどこまでも白み始めていたが、ただここから脱出したい一心でその扉の前まで駆け付けた。着くと倒れるように開いたが、その時
「啓! そこじゃないわ!」
背後で理惠が叫ぶ声が聞こえた。しかし完全に遅かった。脳は理惠の言葉を理解せず、自分が誤った扉を開けたことに気づいたのは数歩入った時のことだった。息も絶え絶えにその場所で縞鋼板の階段や青白い蛍光灯を探したが、どこにもなかった。変わりに目に入ってきたのは、銀色のパイプやバルブが所狭しと晒されている薄暗い通路を抜けた先にある広大な空間だった。啓は普段の精力があればすぐ引き返すこともできただろう。しかし今はもう視覚に与えられたこの空間を歩きながら受動的に眺めることしかできなかった。体育館の半分ほどの体積もあるこの場所は床が鉄格子になっており、下には錆びた銀のスチールや銅のパイプや空気タンクが何台も詰め込まれるように置かれている。その空間の左右にもフェンスが敷かれておりフェンスの向こう側にも同じような錆びたり汚れた黒や銅のタンクがいくつも置かれている。天井を見ると巨大な水銀灯が4つほど設置されているが光は弱く、この空間全体を薄暗く照らしている。前方を見ると壁が前面ガラス張りになっており、隣接する発電所が一望できるようになっている。その景色はまさに圧巻で幻想的だった。そのプラントはまるで一つの町のように建物や巨大なポンプなどがぎっしりと並んでいて広大な敷地にはみ出しそうなほど広がっている。その建物は巨大なジャングルジムのように何階も設置された足場とそれを支える白色の鉄骨からできており、その中には円柱や立方体のタンクやパイプがむき出しで縦横無尽に張り巡らされている。それらの建物の中心で大蛇が背伸びしたようにそびえ立つ巨大な排気管にも青色の光が施されておりその小さな町を照らしている。ここの水銀灯よりも目の前に広がるプラントからの光をこの空間はより多く受け取っているようだ。発電所全体が光眩しく輝いて見える。啓がいるこの空間にまた目を戻すと、そのガラス張りの壁の沿って中央に何やらたくさんのモニターや制御装置などが設置されている。そこだけ床が舞台のように高くなっておりその前にはスロープがある。どうやらここは指令室か何かのようだ。啓はその制御装置に目を移した時、初めて気が付いた。この空間の大きさと暗さで全く気がつかなかったがそこに人影が見える。
啓は一目見ただけでそれが誰なのか分かった。その面長の頭に広い肩幅。小さい頃から変わらないそのたくましい後ろ姿。今日ずっと密かにこの場所で探し求めていた人、それにさっきあんなことを知ってしまった以上一番助けを求めたかった人だ。彼を見て色々な思いが込み上げてくる。啓の足は近づきたいと言うように勝手に数歩出ていた。そのなだらかな曲線の肩に乗って、その肩甲骨の出た背中におんぶされ、その腕の中で目を閉じてしまえば氷が溶けてゆくように眠りに落ちていく。それが幸福だと知ったのはそれを失ったずっと後のことだった。彼が道しるべとなり彼に着いてゆけば、彼が作った獣道を辿ってゆけば、四つん這いでも二本足でもいつだって前に進むことができた。だけどその姿を追って、彼の作った獣道の先にあったこの場所に来た今、まるで行く先もない断崖絶壁に立たされているような気分だ。道しるべは海霧へと姿をくらまし、この辺境で彷徨い続けている。そんな気分だ。
男はこちらの存在に気が付いたようでぱっと振り返った。その顔を見て現実を突きつけられてしまった。分かっていたが受け入れられなかった。やはり彼だった。あの記者会見の映像よりもさらに頬はこけて顔色が悪くなっている。幼いころに見たあの多幸感に包まれた表情は見る影もない。啓たち一行の姿を見ると蒼白な表情をした顔をさらに青白く染めた。何か口を開きかけたが、啓は構いはしない。糸が切れたように口から叫び声が出ていた。
「父さん!」
啓の悲痛が伝わるその絶叫でその男は一瞬動揺した。しかし代わりに後ろで三人の声が同時に重なって聞こえた。
「父さん!?」
「父さんって……! ならやっぱり苗字が同じなのって……」
理惠が衝撃を受けたように目を白黒させて言った。すると男はスロープを下りながら厳めしい声を張り上げた。
「今の爆発はお前らだったのか! ぬけぬけと侵入して―――」
しかし啓は男の言葉に返せないほど自分の心から気持ちがあふれ出していた。
「父さん! 一体どういうこと? ここでなにが起こっているの?」
会話はまるでかみ合わない。男の方も構わず叱り飛ばす。
「どうやって入った? どうやって警備を突破したんだ?」
啓は完全にブレーキが壊れたようだった。続けて質問を喚き続ける。
「立て続けに起こる職員の事件事故は一体何? みんながウイルスと何か関係してるって噂を立ててる。本当なの? 違うよね?」
啓は希望を込めて哀願するように言った。しかし男は質問には答えず一歩一歩ゆっくりと出してこちらに歩み寄っている。その度に埃と塵が灯りに照らされて舞う中、その嫌悪と染まった顔が濃く映ってきた。啓の目頭は熱くなってきて、同時に喉も詰まったように痛くなってきた。さらに叫ぶ。
「お願い。家に戻ってきて。こんな所にいちゃだめだ。ここは―――」
啓の狼狽した姿を見て男は初めて不審な表情を見せた。
「―――なんだ? 何か見たのか?」
男に改めて聞かれると啓はあの光景を思い出し頭がぐらっと揺れた。啓は一瞬躊躇った。あのことを言うべきか言うまいか。しかし一言一言が勝手に喉でつっかえながら口から出てきた。
「あの―――あの死体は何? 隠されるように置かれてあった! あの光景を見て俺は―――俺たちの精神はもうめちゃくちゃだ―――何か言って―――」
啓はどうにか言葉をつなげようとこみ上げる涙を喉仏を掴んで必死に制止した。男は啓が死体に言及した時微かに動じたのを感じた。しかし何も言わずその変わらず冷酷な表情で啓の目の前に立ち止まった。辺りに静寂が流れる。聞こえるのは自分の息遣いや唾を飲む音、どこからか聞こえるモーターの音だけだ。すると男は微かに口を開いた。ほぼ啓にしか聞こえないような音量だ。
「あの遺体を見たのか?」
啓は錘を首から提げたようにゆっくりと首を縦に振った。
「あれはここの職員だった松脇千奈美さんの遺体だ―――そうでしょ? 去年十月に仕事に行ったっきり行方が分からなくなってた。そこからずっとあそこにいたんだ。服がスーツのままだった」
啓は頭の中で道筋を立てていた。今日公園で三人にも話した事件の一つ。松脇さんはここの職員で去年の十月から行方が分からなくなっていた。家族によると松脇さんは仕事に行ったきり自宅に帰ってこなかった。ずっとあの場所にいたんだ。そしてあの警備員が見て失神した遺体は彼女のものだった。遺体は数カ月も放置されている様子だった。確かに筆舌に尽くしがたい姿だった。警備員がその記憶で気を失ったのは無理もない。啓は目の前の男に何か納得できる答えを期待した。どうしてあんな姿になっていたのか。何が起こったのか。訳が分からず混沌とする中で、自分の父親を信じたかった。しかし彼が再び口を開けた時、そこから出る声色は驚くほど冷たく、全ての期待も淡い思い出も凍らせるかのようだった。啓は自分の耳を疑った。
「彼女の死は無念であった。ただ―――組織の為には免れるものではなかった」
そこにはもう啓の心を安心させた声の主はいなかった。その言葉を聞いた瞬間愛情と信頼でできた鎧はからからと落ちていった。目を見開いて最後に振り絞った声で聞く。
「まさか―――あの人の死を正当化するの? あんな姿になって?」
するとその険しい表情に青筋が浮いた。睥睨した眼差しで声を大きく上げる。
「お前には到底理解できないことだ。組織に犠牲はつきものなんだ」
その一言でピンと張りつめた糸が切れたようだった。その逆上した態度で啓の期待で灯った炎は怒りの深紅へと色を変えた。もう我慢できなかった。自分の父親がこんな人間だなんて。こんなことを言うだなんて! 一度その怒りを覚えるとそれが引き金となり次々に憤懣とした感情が湧きあがってきた。過去にされた不条理な仕打ち、あの口争する彼の声―――思い返してみると父親らしい行動なんて幼い頃のものばかりだ。今となってはありもしない姿を哀れにも自分の中で作り上げては、現実との差異に幻滅を繰り返している。その上被害者は自分だけではない。自分だけではないんだ―――
啓は気づいた時には拳が自分の父親に向かっていた。その拳骨に青い光を迸らせて、上向きに振り上げている。しかし彼の方が反応は早かった。反射的に顔面を左手で覆うと右手を啓の方へ払った。辺りに網目状の電磁シールドが張られ啓の拳が彼の頭に届く前に啓は後方へと投げ飛ばされた。右肩から地面に打ち付けられ、そのまま頭を床に強く打った。
「啓!」
三人が同時に叫んだ。啓は何も声を発することができず、強く打った右肩を掴みながら弱弱しく起き上がった。眩暈は酷くなり痺れは止まらない。さっきは悍ましい事実を知らされ、今は実の父親に打たれもう訳が分からない。訳が分からないのに悲しさという感情だけは一丁前に膨れ上がっていた。今投げ飛ばされた時に一瞬見えたあの激昂と闘心に満ちた目。わが子を見るような目では到底無かった―――男は衝撃で息が乱れ、自分が今やったことに彼自身が驚いているようだった。目を見開いてこちらを見つめている。沙織は啓に駆け寄り、拓と理恵は啓を庇うように男の目の前に立ちふさがった。その時彼は見逃さなかった。拓が右手にスマホを持ち、彼を撮ろうとした時だ。再び何かが彼に憑依したようだった。目は怒りに染まりものすごい形相で右手を素早く振り上げると、一瞬の閃光が明滅した。次の瞬間には、液晶の割れる音と共に拓のスマホは遠くへ投げ飛ばされた。また証拠の一つがなくなってしまった。間髪入れずに男は怒号を上げると両手を振り上げた。
「今すぐ出て行け! 俺の城から出て行け!」
するとたちまち轟音と共に嵐のような稲妻が所かまわず降り注いできて、床の鉄格子を揺らした。沙織が啓の手を掴み急いでいった。
「立って! 逃げないと! 早く―――」
啓は沙織の手に掴んで立ち上がった。そのまま狭い通路を通って全速力で指令室から飛び出した。もうここにはいたくなかった。彼の顔を見たくなかった。早く逃げ出したい。二度と戻りたくない。啓は走った。なりふり構わず走った。辺りに響く雷鳴の音でかき消されるように、何も考えることはできなかった。もはや心に負った深い悲しみは全ての血流を通って全身に広がっているようだった。一歩前に出すたびに、腕を振るたびに、一挙手一投足さえもその感傷を直で感じさせた。後ろで稲妻が光っても、怒号が響いても、誰かの悲鳴が聞こえても、啓はただ走った。後ろを振り向かずただ出口へと一直線に走った。非常階段で四階から一階へと降り、廊下に出た。誰かの自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。しかし啓は走った。返事などする気も起きなかった。監視室を横目に通り過ぎスチールドアへと突っ込み外へと出た。その瞬間冷たい外気が体のあらゆる肌へ無情に啄むように触れた。啓の煢然で惨めな気持ちがより顕著に感じられて、また涙が込み上げてきた。必死にこらえようとさらに走るスピードを上げた。また自分の名前が後ろで聞こえる。しかし構うものか。啓は止まらず走った。研究所横の裏路地を出て平面駐車場へと出た。灯りが頭上にちらついて、アスファルトを照らす。二十秒ほど走ったころ、啓は最後の力を振り絞ってついに敷地から外に足を出した。そのまま街灯も少ない歩道を駆け抜けたかったが、もうその時は息も絶え絶えにスピードを落とさざるを得なかった。するとちょうどその時、背後で金切声が聞こえた。
「拓! 大丈夫!?」
沙織と理恵の叫び声がこの街路に響き渡った。啓は異変を感じ初めて後ろを振り返った。すると研究所の敷地から出たところで拓が地面に倒れているのが見えた。啓はその時ばかりは動揺した。今にも体力と精神の限界で崩れ落ちそうだったが、ふらふらと拓の元へと近づいた。すると拓が顔を火照らせ、汗でびっしょりになりながら起き上がろうとしているのが見えた。目は半分ほどしか開いておらず、呼吸が乱れていて、意識は朦朧としているようだ。
「大丈夫、拓!? ほら、立ってみて、腕を貸すから―――」
拓は返事もできないまま左腕は沙織、右腕は啓に担がれ何とか起き上がった。拓の呼吸は乱れており、口呼吸が白い息となって出ている。後ろで理惠が言った。
「きっと魔術の使い過ぎで体を壊したんだわ。紙飛行機の警告をすっかり忘れていたわね。今日はみんなゆっくり寝て休まないと……」
理惠は自分も疲れ果てているはずなのにみんなを労わるように声をかけた。しかし啓は拓を担いで重々しく歩く中、その言葉を素直に受け取ることができなかった。ゆっくり寝て休む? そんなことできるはずがない。今日心を引きちぎられるようなことが一度だけではない、何度も起こったというのに。精神は悲鳴を上げているというのに。そう考えるとまた蒸し返されるように様々な光景が目に浮かんできた。あの隠し部屋にあった今までに見たどんな者よりも恐ろしく生々しい人の姿。そして自分の身を守るためにわが子を投げ倒した彼の残忍な眼。心をかき乱す雷鳴の音―――啓の視界は涙で少しずつ滲みぼやけてきた。泣くまいと必死にこらえていた時、沙織が声をかけた。
「啓……大丈夫?」
こんな寒空の下なのに暖かみの籠った優しい声色だった。啓は返事をしたかったが熱と痛みを帯びた喉で言葉がつっかえしばらく沈黙が続いた。鼻を啜り、吐息交じりの声が出た。
「もう何も分からない。頭が混乱して、受け止めきれないんだ」
一度言葉を紡ぐと糸を引いたように次々に出てきた。不自然に乾いた笑いが出る。
「おかしいよね。ずっと信じてたのに。自分の父親が―――父親が―――人殺しだったなんて」
もう我慢できなかった。大粒の涙があふれ出てくる。頬を伝い地面へ滴り落ちる。理惠の背中を撫でてくれる手の温かみで涙の量はより増幅された。
「三か月くらい前に家を出て行っていたんだ。それから一度も見ていなかった。今日が久しぶりの再会だった。全く、感動的だったよね。あんな出迎えで、こちらの言葉なんて聞くそぶりも無くて。
昔からああなんだ。自分は何もできないのにプライドだけは高くて傲慢で、家族のことなんか何も考えていない」
啓はごそごそとポケットを漁り、出したものを三人に見せつけた。
「このカードキーだって、潜入の計画を立てていた時にクローゼットをちょっと漁ったら、あの人が置いて言った服の中から出てきたんだ。全く管理能力すらないんだよ。今だってもう誰も追いかけてこないでしょ? あの人が食い止めてるんだよ。もう追うなって言ってるんだ。今日俺たちが侵入したことも警備員を失神させたことも全力で隠すだろうな。まあ、俺たちの為じゃなくて自分のためだけど。自分の家族が無断で侵入しただなんて絶対に知られたくないだろうから」
啓は全ての言葉を言い切り風船がしぼみ切ったようにぐったりとしてしまった。変わらず自分は拓を担ぎ、理惠は啓の背中に手を当ててくれている。拓はほぼ目を閉じており、沙織も掛ける言葉がないようで、全員にしばらく沈黙が続いた。風が頬を掠める。駅が近くなり車道に車が見え始めている。街頭が多くなり駅前の店が見えてきた。横断歩道で止まった時、後ろで理惠が口を開いた。優しく思慮深い面持ちの伝わる理惠の声だった。
「啓―――あなたのお父様が手をかけたわけじゃないと思うわ、そうでしょう? 今は信じましょう」
理惠の言葉を聞き啓は目から出る涙の最後の一滴を袖で拭った。否定も肯定もできず、ただ俯いて街灯に照らされる地面のタイルを見つめた。しかしその時沙織があっと声を上げ、右を指さした。
「ちょ、ちょっとこれ見て。ウイルスのことやってるよ」
急な呼びかけに困惑しながら言われた通り啓は自分の右側を見た。するとそこは道路に面した家電量販店でショーケースに並んだ大型テレビがガラス越しに見えた。ちょうど今放送している夜のニュースで、アナウンサーが話している。
「―――今日夕方ごろ、保健所は新型ウイルスについて新たな情報を通知しました。現在症状によってその感染度合いが区分されているステージ分けですが、今日そこに新たな症状が加えられました。ステージ3の肌の黒変の症状と大いに関係があるようです。」
「え、今更増える事なんてあるの? 初めてだよね?」沙織がきょとんとして聞くと、理惠が不信な様子で頷いた。アナウンサーは続けて話す。
「黒い斑点ができ蕁麻疹のように肌が黒くなるこの症状ですが、この発疹が進行する中で新たな症状が見られています。斑点が集合する場所にはある一定の規則性があるようで、多くの患者の肌に同一の印のようなものが斑点によって形成されるという報告がなされています。その印とはこちらの―――」
画面は切り替わりある一つの図が画面上に表示された。それを見た瞬間衝撃で胸を貫かれ、あわや拓を地面に落とすところだった。沙織と理恵も声を上げ、信号は青になっているのに誰も前に進めなかった。
画面に写されたのは、強く見覚えのある一つの印だった。
逆三角形のなかにさらに三角形があり、その真ん中には縦線が引かれているあの印だ。
「専門家によると今までの感染症に類を見ない症状であり、この印が患者の恐怖を増幅させていると―――」
そう、あの日、魔術をもらった日に初めて見たあの印。機体に描かれていたあの印。忘れようにも忘れられない印。
「まさに闇のシンボルであると―――」
「え―――そんなまさか。あり得ないわ―――」
「どうして―――」
皆が動揺して完全に我を忘れた。理惠は恐怖に苛まれたように言う。
「これって―――紙飛行機に描かれてたものよね?」
「どうして紙飛行機に書かれてたあの印が、ここに映ってるんだ?」
お互いに顔を見合わせる。一心にテレビを見つめたまま啓の口から言葉がついて出ていた。
「あの紙飛行機が、ウイルスと一体何の関係が―――?」




