第五章 黒い影
またここに来た。
数多くある大きな窓から明るく光が差し込み、それらがゴッドレイを作っている。空気中にはその光を受けてキラキラと舞っているわずかな埃や塵が見える。だんだんとぼんやりしていた景色がはっきりとしてきた。不意に前を見ると、そこには目を見張るほど大きな空間が広がっていた。両サイドには石造りの柱がアーチを成して並んでいて、その場所を長廊と側廊に分けている。柱の側面には多種多様な花の模様が彫られていて、柱の周りにはまとわりつくようにツタのような植物が絡まっている。乳白色の石柱に合う鮮やかな緑色で、所々に様々な色の花が咲いている。しかしそれらのツタは無造作にではなく螺旋状に二本が交差して伸びているため、見事な装飾となっていた。天井を見上げるとどこまでも続く穹窿天井に色彩豊かな絵画が描かれている。あまりに高いのでしっかりとは何が描かれているのかわからないが、絵の中に空のような青色の中で優雅に踊る天使のような姿が見える。何かの宗教画のようだ。その天井の端を這うようにそこにもツタや花が施されいて、見事に自然と建築が調和している。前方には木製の細長のベンチが横に三列、縦に何十列にも並べられており、その終わりには半円型の空間が広がっていた。そこのドーム型の天井にはなにやら目を見張るものがある。なんと降り注ぐように何百、いや何千もの花が様々な色で下に向かって象徴的に吊るされていた。ステンドグラスが上方に張られたその場所は中央に向かって光芒が降り注ぎ、その何千もの花が宝石のようにきらきらと光り輝いている。大きな花束がシャンデリアのようだ。ここは一体どこなのだろう。どこかの国の教会だろうか? 花たちの向こう側には空間の終わりにある祭壇が見える。とても立派な場所だ。ずっと見ていたくなる。
するといつものベンチの一席に、人が一人座っているのが見えた。長い艶やかな後ろ髪に白い衣服をまとっている。前に見たときも、その前に見たときもいつもそこに静かに座っていた。するとその人はさっと立ち上がり髪を靡かせながらこちらに振り向いた。手を前に重ねて、首には何かを提げているのが見える。ペンダントのようだ。顔を見ようとしても不自然にピントが合わず視界がぼやけるので、誰なのかはっきりと認識することができない。すると囁くような声がか細い声が聞こえてきた。
「―――しをすくって―――」
女性の声だ。しかしうまく言葉が聞き取れない。ラジオの周波数が合うようにだんだんと声がはっきりとしてきた。
「―――星を救って。星を救って。救って」
同じ単語を繰り返し言っている。訴えるようにその声も力強くなってきた。するとその声をさらに覆い隠すように、どこからともなくノイズが聞こえてきた。あのどこかで聞き覚えのある不協和音だ。鼓膜を不快に揺さぶるようなその音は次第に大きくなってきて、それと同時に視界もさらにぼやけてきた。耳を劈くようなその音とともに意識が遠のいていく。その音量が最高潮に達した時―――
「ハァッ…!」
啓はベッドに横になったまま目を覚ました。天井が朧げに目に映る。額にはびっしょりと汗をかいており、息ははあはあと上がっている。今の夢は一体なんだったんだ? あの風景にあの謎の人。今思い出したが昨日も同じ夢を見た気がする。気のせいだろうか? 夢は醒めるとすぐに忘れるのに、その内容、その声が刻印されるように脳裏に焼き付いている。一体何なのだろう? あの女性は誰なのだろう? 啓はベッドへ横になったままあれやこれやと考えを巡らせていた。しかし羊皮紙が炎でじわじわと燃えてくようにその夢の記憶は忘却の彼方へと消え始めていた。横からは時計の針がちくたくと進む音が静かに鳴っているのが聞こえる。寝たまま横に顔を向けると窓のカーテンから朝の陽の光が差し込んでいるのが見えた。その時、啓は何か異変に気付いた。視界にではなく啓自身の体に何か違和を感じたのだ。血管という血管が疼いているような感覚だ。体がおかしい。啓はまさかと思い両手をがばっと目の前に出した。そして優しく、しかし確実に念じた。初めにそうしたように、神経を研ぎ澄ませて。すると両手に青色の電光がちらついた。その姿を見て啓は一安心した。もしかするとこの変な感覚は魔術が使えなくなってしまった印かもしれないと思ったのだ。どうやら思い違いのようだ。しかし実を言うと、啓は今日に限らず起きた時に、毎日必ず魔術が使えるかどうかを確認していた。同じく、寝て起きると魔術がなくなっている可能性があると思ったからだ。今までに起こったことはすべて夢で、あの紙飛行機にあったことなども実はなかった…今日寝ると次の日からはまた平凡な生活に戻ってしまう…魔術を手にしてから二週間はそんな恐怖や不安ともに暮らしていた。しかし二週間どころか今は一か月も耐えた。今日もまたこの魔術とともに夢から覚めることができたのだ。なら、もしかすると、もしかしたら、起こっていることは全て本当に本当なのかもしれない! 啓はうまく働かない脳で朝に似つかわしくない興奮を覚えながらぱっと起き上がった。
するとすぐさま疑念が確信に変わった。やはり何かがおかしい。身体に異変を感じる。家系花を体内に入れてからの二週間ほどは血がざわつくような不思議な感覚を身にまとって暮らしていた。それがようやく慣れてきたという時だったのに、それがぶり返したような感じだ。啓はベッドから足を出し、ゆっくりと地面に置いた。するとその異変の正体に気がついた。なんだか体が軽い。朝の倦怠感などどこかに置いてきてしまったかのように軽やかに体が動いた。立ち上がって歩き出すと、それがより顕著に感じられる。地球の重力が幾分にも減少したような体感だ。一体何が起こっているのだろう。これも魔術の力なのだろうか。しかし今日急にそれを感じ出したのは変だ。きっと寝ぼけているだけだろう。小さい頃はよく夜中に目が覚めては、そのまま着替えて学校へ行く支度をすることがよくあった。その頃の癖がまだ抜けていないのだろう。半ば自分にそう言い聞かせながら啓は自室を出て階段を下りた。一階へ降りると、リビングには誰もいなかった。明るい照明と日光に照らされた中、部屋にはテレビの音が響いているだけだ。啓は階段を下りて左手側にあるキッチンへ移動し、朝食の準備をし始めた。いつもの簡単なトーストだ。ナイフを片手にバターを塗っているとテレビから休日の朝のニュースが聞こえてきた。
「―――感染者数は急激な増加傾向にあり、各地で感染者による事件、事故が相次いでいます。東京都では自動車事故数が先月より三十パーセントほど増加しておりほとんどがウイルス患者によるもので―――」
今日も同じようなニュースだ。ここ最近は同じ内容の繰り返しのように感じる。どのくらい亡くなったのか。どんな事故が起こったのか。しかしメディアは本当のことは言わない。報道しないのだ。聴覚もまともに働いていない頭の奥で、この考えだけは意識の範疇に不思議とはっきりあった。
啓はそのままダイニングキッチンへ座り眠気と闘いながらもさもさと食い始めた。朝なので味覚が鈍っている。しかし食べないよりかはましだ。量もあまり多く食べられないので黙々と食べていると数分ほどでなくなってしまった。食事を終えるとそのまま啓は立ち上がり学校への支度をし始めた。歯を磨いて少しの無精ひげをそり、コンタクトレンズをつける。高校に入るタイミングで眼鏡から変えたのだ。母親に強請ったのを啓は今でもよく覚えている。そのコンタクトを目に入れた瞬間、視界が鮮明になり世界が変わったように感じた。と同時にガチャリと玄関のドアが開く音がした。啓はその瞬間地面を蹴り飛ばし玄関へ走った。そして着くが早いか、その姿を見た瞬間に怒鳴った。
「母さん! どこに行ってたの! 心配したよ」
啓は腰に手を当て、半分は安堵を込めて言った。家に入った次に大声を上げられたその女性は驚きで一瞬唖然と啓を見つめたが、次の瞬間にはしどろもどろで話した。
「ごめん、啓。ゴミを出しに行っていたのだけど、カラスで荒らされてたからちょっと掃除をしていたの」
啓はこの話を聞き少し疑った。本当だろうか? 啓がまだ手を腰に当てたままでいると啓の母親が急いで話を変えた。
「学校へ行くの? 支度はもうできた? 顔に歯磨き粉がついてるわ」
啓の母親は自分の口を指さして教えてくれた。優しい声色だ。啓は焦って鏡も見ずに口を手で拭った。すると続けて母親が言った。
「マスクも忘れずにね。もう学校でもらうことはなしにしてよ。ウイルスのお持ち帰りもなしね」
彼女は啓に優しく微笑んで、横を通りながら言った。すると啓は思い出したように彼女に言った。
「あ、今日は土曜参観だったけど無くなったから―――」
しかし彼女からは返事がなく、廊下をすたすたと歩いていった。まあ、いつものことだ。まあいいかと思い啓はそのまま靴を履き「いってきます」もなしに家を出て行った。
家を出て歩いていると鳥の歌うような朝のさえずりが耳に入ってきて、初冬の寒風を肌に感じる。紅葉の葉も枯れて木全体がはげかかっており、わびしさが漂っていた。が、そんなことは気にも留められないほど啓の頭は混乱していた。もうさすがに寝ぼけているということはないはずだ。朝ごはんも食べ、身支度も済ませた。ならなぜ起床後からあるこの体の異変がいまだに消えていないのだろう。体が幾分にも身軽に感じ、気味の悪さすら感じる。もしかしたら変わったのは自分ではなく地球の方かもしれない。今日この日を境に重力が何割減かになったのだろうか? 自分が知らないだけで、ニュースでもやっていたのかもしれない。しかし人通りの多い大通りに出てみても、誰も何も騒いだりしてはいなかった。もし重力が変わったのなら、みんな飛び跳ねたりワルツを踊っていたりしているはずだ。自分も今まさにそうしたい気持ちである。しかし、もし万が一飛び跳ねて本当にいつもの何倍にも飛んでしまった場合、それを周りの人に見られるのは中々世間体が悪い。しかも本当にそうなってしまう予感がするのだ。とりあえずはおとなしく歩いておこう。啓は衝動を抑えながら学校へ向かった。
しかしその道すがら事件は起こった。角を曲がり校門に面した大通りに着くと、いつも通りたくさんの生徒が歩いていた。そんな中啓は遠くに反対側から来ている沙織を見つけた。彼女を見て啓の心は弾み、柄でもないのに思わず名前を呼んで手を振った。しかし沙織は俯いておりこちらに気が付いていない。遠くにいるので判断できないが、下を向いてなんだか元気がないようにも見える。
するとその時、沙織の周りにいた生徒の間でどよめきが走った。悲鳴がいくつも聞こえ、その次には一瞬のうちに皆が火花がはじけるようにぱっと分散した。一点を避けているようだ。全員が恐れ慄いた表情をしている。その中央ではなにやら奇声が聞こえる。男の野太い声だ。
「イヤァァ!!! アァァァ!!!! ウアアアア!!」
その声は車の音も覆ってしまうほど大通りに響き渡っていた。一体誰の、何の声だろう? 啓は生徒たちがいる隙間に目を凝らし真ん中で何が起こっているのかを見ようした。すると、啓は自身の目を疑った。なんと一人の男が刃物を持って暴れまわっていた。意味不明な言葉を喚きながら、生徒を今にも切りつけそうな勢いで腕を振り回している。生徒は走り出し、恐怖に駆られてパニックを起こしている。一人の生徒が横を通り過ぎるときに叫んでいった。
「急に暴れ出したんだ! 逃げて!」
その男の子は周り全体に向かって言った。そこにいた生徒は触発されるようにあちらこちらに逃げ回る。
するとその男が突然方向転換し、前方にいた沙織のもとへ動き出した。しかし沙織はなぜかその様子に全く気付いていない様子だ。他の生徒にぶつかられながら俯いたまま歩いている。啓はその瞬間、脊髄反射のように足を蹴り上げ走り出した。他の思考も全て省いて、ダーツの矢が的へ一直線に飛ぶように沙織のもとへ身軽な体で猛ダッシュした。そして男の振り回す刃物が沙織に振りかかるすれすれのところ、啓は沙織を掴み男のもとから必死で剥がした。衝撃で倒れそうになる沙織を片手で支えた後、啓は次の瞬間には男へ体を向けた。暴れ続けている男の刃物を華麗にかわし、男の首元をロボハンドのようにものすごい勢いで掴むと、啓は呪文を強く唱えた。
「ラバンデュラ!」
すると男の体に強い電流が走り、ビクッと痙攣した。次の瞬間には千鳥足でよろけながら、勢いよく倒れた。男が放ったナイフはカランカランと音を立てながら地面に落ち、男はノックアウトされ動かなくなった。啓は息が上がったまま、男に目を見開いていた。すると、騒然としていた空気だった辺りが急にしんと静かになったのが分かった。周りを見てみると生徒という生徒が取り囲みこちらを見ている。啓は急にドキリとし、手をさっと引っ込めた。そして焦ったままでまかせで言った。
「あ、えっと、空手を習ってて…」
空手に人を失神させる技が果たしてあるのか知らないが、言葉がついて出てしまった。それに今になって急に恥ずかしくなってきた。クラスでも目立たない地味な男子が急に出しゃばって皆の前で大人一人を一丁前に倒すとはなんて図に乗った行動なんだ…しかもここに走ってくるまでにきっとものすごいスピードだったし、何よりたった今魔術を使ってしまった。目立つ行為この上ない。
啓が頭を搔きながら露頭に迷っているその時、群衆の中からパチパチと音が聞こえ始めた。啓がその方向に見てみると、何人かの全く知らない子たちがこちらに向かって拍手を送っている。しかも輪が広がるように歓声と拍手の音はどんどんと大きくなっている。啓の心は追い打ちをかけられ羞恥心は限界を迎えた。恥ずかしい…恥ずかしすぎる。そんなつもりじゃなかったのに…穴があったら入りたいくらいだ。もうやめてほしい。啓はいてもたってもいられず、思わず沙織の方を見た。すると心臓が数センチ浮きあがった。
泣いている。涙を流して、声も出さずに。そのうるんだ瞳で一心に啓を見つめていた。啓の心は余計に混乱した。どうして? なぜ泣いているのだろう? 男とナイフが怖かったのだろうか? しかし俯いていてほとんど見えていなかったはずだ。それに沙織が泣いているところを初めて見る。いつもはあれほど明るい沙織が…どう声をかければいいのか分からない。
啓は不意に校門に立っていた先生の方を見た。電話越しで話し込んでいる。きっと警察かどこかに通報しているのだろう。啓は面倒ごとに巻き込まれないようその隙に、沙織の腕をぐいっと引っ張って群衆の中から抜け出した。野次馬を追い払うように二人は校門、ロータリー、昇降口を走って通り、息も絶え絶えになりながらげた箱へ着いた。その時に啓は再び沙織へ振り返った。そしてできるだけ優しく言葉を選びながら言った。
「沙織、大丈夫? 怖かったんだね。もう誰も襲ってこないから…」
啓は下がり眉と優しいまなざしをできるだけ作って言った。すると沙織が何か言いかけた。
「あたし―――」
しかしその時、一人の生徒が校門から大声を上げてやってきた。
「啓―――! 沙織―――! 大丈夫―――?」
こちらにどたばたとした走り方で突進してきたのは拓だった。拓はげた箱につくとぜーぜーと言いながら手を膝について話し始めた。
「ちょうど後ろにいたんだ…啓を見かけた時にあの男の人が暴れだして…」
すると拓は忙しなくはっと気づいた表情で顔を上げると啓を大声で嗜めはじめた。
「啓、使っちゃだめじゃん! 「アレ」を! そうみんなで決めたのに―――」
しかし啓はすかさず反論した。
「仕方ないだろ! 沙織が危なかったんだから。もう少しで死ぬとこだったんだ」
「それはそうだけど…」拓は納得していない様子でごにょごにょと言っている。しかし勝ち目がないと思ったのか話題を変えた。
「しかも…さっきの人って、明らかに新種ウイルスの感染者だよね…? 僕実際に初めて見たよ。ほんとに暴れまわってるんだね…あれはきっと全国ニュースだよ…」
拓の言葉に啓は続ける言葉が見つからなかった。先ほどの光景は今でも脳裏に焼き付いている。振り回される刃物と、男の表情。狂気に満ち溢れ、肌も黒く血の気がなくなっていた。それに沙織の戦慄の表情とその涙。沙織の涙…
啓は不意に沙織の方を見た。すると涙をぬぐい切ってもう泣いてはいなかった。しかし目はまだ赤く充血している。啓は空虚な言葉と分かっていても意味もなく聞いた。
「沙織、大丈夫? 保健室に行こうか?」
「ううん…もう大丈夫! 平気だよ。そろそろ上に行ったほうがいいんじゃないかな? ホームルームが始まっちゃう」
「あ、うん…そうだね」拓はそう返したが腑に落ちないような表情をしている。啓も同じだ。あまりに衝撃的な出来事の後、今はそう簡単に状況を飲み込めるはずがなかった。しかし沙織が笑みを顔に張り付けた後、すたすたと歩きだしたので、二人は他に何も言葉が見つからずそのままついて行った。すると階段を上がってるときに拓が思い出したように言った。
「でも啓って、あんなに運動神経良かったんだね? そんなイメージなかったけどな」
「どうして?」啓がぽかんとして聞くと拓が当然のように答えた。
「だって啓、すごいスピードだったよ? 沙織のもとへ走ってったとき。暴れてた人の攻撃もあんなに華麗にかわしてたし…」
「ああ…」啓はドキリとして唸るような返事をした。体が幾分にも軽くなったこの異変を今拓に詳しく話そうかと啓は一瞬思った。もしかしたら拓も同じことが起こっているかもしれないと思ったからだ。しかしいろいろと考えたが、今は人込みの中で周りに聞かれるとまずいことになるのでやめておいた。そのまま啓たちは階段を上って教室に入ると、入り口から見て真ん中より少し奥側の席に理惠が座っているのが見えた。騒がしい教室の中、一人本を開いて静かに読んでいる。三人は席に近づくと、沙織がはじめに挨拶した。
「おはよー! 理惠!」
「あ、おはよう。なんだか遅かったわね―――」
しかし理惠の言葉は途中で途切れ、はっと息をのみ目を見開いた。
「沙織、どうしたの!? 目が赤くなって…一体なにが―――」
すると続けて啓に体を向け、腹から怒りの声を張り上げた。
「ちょっと、啓! 一体沙織に何したの!?」
「え、なんで! 俺じゃないよ! 俺が泣かせたんじゃない―――」
不意な叱責にたじろいで必死に反論していると拓がすかさずフォローした。
「い、今そこで暴れてた人がいたんだ。それで沙織が襲われそうになって…」
「え、暴れてた? どういうこと? まさか―――」
「ほら、例のウイルスの…」
「感染者の…?」
「はい―皆さん席について―、ホームルーム始めますよ!」
理惠のぱっと顔色が変わったちょうどその時、川口先生が教室に入ってきた。理惠はまだこちらを睨んだり思案顔になったり、まだ信じ切っていないようだ。啓は自分の席について、色々と納得しないまま前を向いた。なぜ理惠は真っ先に自分を疑ってきたんだ? 証拠も何もないしあまりに理不尽すぎる…すると川口先生が生徒に一枚のプリントを配り始めた。啓はそれをもらってもイライラと妙な焦燥感とであまりプリントに目を通すことができなかった。しかし突然心を掴まれたように、ある一文に目が止まった。啓はにわかに頭で処理しきれずもう一度、小さく声に出しながら読んだ。
「現在の状況が続くことになれば、感染防止のため分散登校、もしくは休校の措置を要請する可能性があるとのことです。」
それは新たな感染症に対する学校の対応についての連絡プリントであった。他の生徒たちは休校という文字に不安の声を上げたり、逆に歓声を出していたりしている。啓はというと心に穴が開いたような、空虚な気持ちになっていた。
啓を取り巻く環境はここ最近で激変していた。今朝のニュースでも言っていた通り、冬休みを挟んでの一か月ほど前から新種のウイルスが引き起こす感染症が国内各地で急激に流行りはじめて、多くの人の生活を脅かしていた。休み明けも学校が始まるのか分からないとネットでは騒がれていた。今日も本来は土曜参観の日であったが感染防止のため中止となり、生徒のみが登校することとなった。それほどまでにウイルスは非常に感染力が高く、すでにクラスメートの何人かは「濃厚接触者」となっていた。その感染症の症状とは一般的なものと同じようで高熱を出したり、下痢や嘔吐、また幻覚、幻聴などがある。しかし症状の中でも一段と目立って皆に恐れられているものがある。それがさっき見たあの男がまさに被っていた、攻撃的状態の症状だ。自我が摘み取られたように意識がなくなり急に暴れ出す。中には凶器を持つものもいて、すでに市民による被害報告が全国各地で相次いでいた。啓は毎日増える感染者グラフの数字と惨い被害事案により毎日憂慮を抱きながら過ごしていた。
横を見ると理惠が先ほどの衝撃を一瞬で忘れたかのように、真剣な眼差しでプリントを熟読している。啓も一番初めからしっかりと文章を読むことにした。
「生徒保護者の皆様、平素より本校の教育活動にご理解とご協力を―――
違う、ここは読む必要がない。次だ。
「新種ウイルスの蔓延が進み、本校でも濃厚接触者の報告が増加しております。政府よりウイルスのステージ分けと感染時の対応について再度通知が来ましたので、ご確認の程お願いいたします。
ステージ1…微熱、咳や喉の痛み、軽度のめまい、憂鬱な気持ち
ステージ2…高熱、嘔吐、下痢や腹痛、呼吸の乱れ
ステージ3…幻聴、幻覚、攻撃的状態、皮膚の黒変
ステージ4(末期)…呼吸困難、歩行障害、心肺機能の低下、心停止
今回の新種ウイルス感染の症状には段階性が確認されており、重症化するにつれて症状が異なります。そのステージ分けは現在も検討中で、今後新たに追加、変更がされる可能性があります。また自覚症状が無い際は、初期ステージを飛ばして急に末期症状が出ることもあります。各ステージ記載の症状が見られた場合にはすぐさま医療機関へ受診してください。感染症と診断された場合は隔離処置となります。その間、学校は欠席扱いとならず出席停止扱いとなります。」
そして最後の文へと移った。「政府によると、現在の状況が続くことになれば、感染防止のため分散登校、もしくは休校の措置を要請する可能性があるとのことです。」
啓はもう一度その文を読んだ時、最初に見た時よりも激しく心がズドンと落ちたように感じた。休校する、学校に行けなくなってしまう。三人に会えなくなってしまうなら自分はどうなってしまうのだろう? 勉強はどうすれば…啓があれこれ考えているとちょうど川口先生がホームルームを終えようとしているところだった。
「ではホームルームを終える前に一つお話しておきます。皆さんは今不安に思っているかもしれないですが―――ちょっとそこ、喜ぶのはやめて! ―――ええ、不安を抱えているかもしれませんが、今大切なことは一人一人が責任ある行動を取ることです。休校を阻止するために自分たちがすべきことは何なのか、しっかりと考えてみてください。では次は移動教室なので早めに切り上げます。終わり!」
先生の合図とともに教室が少し騒がしくなった。皆が休校についてあれやこれやと討論しているようだ。すると拓がこちらに向かって震えあがるように言った。
「学校が休みだって! みんなと会えなくなるなんて考えられないよ…」
すると横に座っている理惠が腕を組みながらほぼ独り言のように言った。
「全くみんな…先生の先ほどの言葉を聞いたのに…こんなに小さい空間で互いに顔を合わせてぺちゃくちゃ喋るなんて…」
顔中に皺を寄せて苛立ちのオーラを放っている。すると拓が言葉を返した。
「みんな…ウイルスの存在をあんまり実感してないんだよ。色々と突然すぎるし、ほんとにいるのかなって、正直僕思ってるよ! 目に見えないし、身の回りでまだあんまり影響出てないし、何となく自分は絶対感染しなさそうっていう謎の自信とかもあるもん!」
拓の今の言葉を聞き、まるで殺人の計画を今しがた伝えられたかのようにすごい剣幕を拓に向けて、一言一言はっきりとかみ砕くように言った。「誰でも感染する可能性があるの…! もっとちゃんと意識を持って…!」
拓は変にへらへらとしていたが理惠にきつく説教されたためだんだんと反省顔になっていった。今しがた暗い内容のプリントを受け取ったこともあって四人の間に沈黙と緊張の雰囲気が流れた。二人のやりとりを聞いていた啓も、拓の発言にはとても共感することができなかった。確かにまだ周りでは感染者はいないが、それでも見えない脅威にさらされて、毎日鬱蒼とした気持ちと恐怖と共に過ごしている。自分だけ感染しないなんてなんの根拠があるのだろう。浮かない顔の啓と同じく横にいる沙織も先ほどから黙っており、以前と打って変わって似つかわしくないほどの悲しみの表情を浮かべている。次の授業の準備をしなければいけないのにその手が進まずただ四人は黙っていた。啓は雰囲気を変えたいと思い、思わず言葉が口をついた。
「ま、まあ、みんな元気出してって。きっと休校にはならないよ。休校になったとしても―――」一瞬言葉を切り、少し声を落として言葉を続けた。
「『あそこ』にはみんなこれまで通り行くでしょ? 今日も放課後に行くんだし。今日は授業が五時間目までだから早く行けるよ」
「あそこ」と言った時、啓は心が少しときめくのを感じた。三人も同じようだ。少し顔がほころんだ。しかし理惠が再び見定めするような鋭い目つきを啓に向けた。
「で、でも、今行ってもいいのかしら? 先生は責任ある行動をって―――」
しかし啓が覆いかぶせるように反論した
「あそこで感染することは、考えづらいよ。密集は極限まで避けられるし」
啓の言葉を聞いて理惠はまだ何か言いたそうな顔をしたが誘惑が勝ったようだ、鼻をフンと鳴らし腕を組んで「そうね」と小さく返事をした。拓と沙織から小さな子どもが作るような期待顔をぱっと向けられると、啓は小さく言った。
「じゃあ、今日もいつもの場所で」
啓の言葉を聞くと三人はこっくりと頷いた。そして啓含む四人ともやっと立ち上がって、次の授業の教室へと向かった。
感染症の流行りはじめた中の学校は全体的に雰囲気がどんよりとしていて活気がどこかに行ってしまったようだった。感染のリスクを減らすため生徒たちはあらゆる場面で先生から再三注意を受けていたし、ウイルス感染を恐れて手にアルコールを滝のように浴びせている生徒もいた。マスクとくるとこれがなかなか厄介であった。授業中先生は何を言っているのかよく分からずただマスクがもそもそと動いているだけだったし、皆が顔を半分隠しているので、クラスであまり話したことのない人たちは啓から見て区別がほとんどつかなくなってしまっていた。夕方ごろのマスクの湿り具合もこの上なく不快なものであった。
「ああ! もうやだ! 僕たちの学校を返して!」
放課後拓は正門を出た直後、時限爆弾がたった今爆発したように大声を荒らげていた。できる限り鬱積した憤懣を発散しているようだ。すると横で理惠が咎めるような目つきを拓に投げかけて言った。「もう少し声のボリュームを落としなさいよ…」
しかし拓はお構いなしに歩きながら演説を続けた。
「ウイルスのせいでみんながおかしくなってる! 先生はみんなピリついてるし、中村先生は僕に苛立ってるし」
「それは…前からのことでしょ。あの人の一回の大声は、十分な感染の飛沫量に相当しそうね」
理恵が皮肉を交えて分析すると、少し元気が戻っていた沙織が思わし気な声で言った。
「もう二年の校外学習は中止がきまったし、もしかしたら卒業式とか修学旅行にも影響が出るかもしれないらしいよ。もしこれとかもなくなっちゃったら、最悪だよね?」
沙織の情報に他の三人は「えー!」と声を上げた。拓の感情はいよいよ憤怒から焦燥に変わったようだ、唇をわなわなと震わせながら言った。
「高校のビッグイベントを二つも無くすなんて…ウイルスさん! 僕たちが一体何をしたって言うんですか!」
拓の嘆きの独白につられたように理恵も悲観的に言い始めた。
「昼ご飯は黙って食べる…他の人とも話せない…毎日面倒な検温は必須だし…」
続けて拓は俯くと右手をぱっと目の前に差し出して、おもむろに言った。
「あーあ、この魔術さえ手にしてなかったら、僕きっと今頃生きていられてなかったよ」
この一言で四人の間の空気が一瞬でパッと変わったのを感じた。黙ってやり取りを聞いていた啓でさえ顔を上げてドキッとしたくらいだ。沙織と理恵もお互い顔を見合わせてニヤッと笑った。
「確かに、拓の言う通りね。この特別な力があるから、また生きようって思えてるわ。こんな未知のウイルスに怯えて暮らす毎日なんて、これなしじゃ耐えられない」
理恵が周りに聞こえないように声のトーンを下げて言った。
啓は大きく頷いて共感の意を示した。きっとこの生活からウイルスの部分だけ切りぬくことができれば、特別な能力を使うことのできる愉楽とその優越感で最高級の毎日になっていただろう。興奮とやりきれなさが入り混じった感情で、啓は思わず感慨深そうに話した。
「ほんとそうだよな。この魔術に生かされてるよ。俺たちが手にしたこの力はいわば…なんて言うんだろうな?」
啓が言葉に詰まると沙織が人差し指をぴんと立たせて囁くように言った。
「砂漠の中に佇む澄み渡った色のオアシス…」
すると理恵も続けて情緒ある雰囲気で言った。
「もしくは、陰鬱な暗いトンネルの中に差す一筋の光ね…」
「みんなどこでその語彙力を手に入れたの?」拓がきょとんとして聞いたが、お構いなしに沙織が元気よく話し始めた。
「今日の拓なんて、ほんとにびっくりしたよ! 今日の体育の時にしたことなんてほんとにおもしろかったんだから」
沙織が体育の授業について言及すると拓はドカンと笑い始めた。啓と理恵が訳も分からず互いに顔を見合わせていると拓が説明し始めた。
「今日の体育の時なんだけど、僕と沙織は種目がバスケットボールだったんだ。その時のコーチが、例の中村先生だったんだけど…それで僕、思いついたんだ。その時、いつもの色々なことに対する仕返しをしてやろうと思って。そう色々な事の…」
拓はそこで笑いがこみあげてきて沙織とまた顔を見合わせてクスクスと笑い始めた。啓と理恵はこの上ないほどの嫌な予感を感じ、二人も思わず視線を合わせた。そして同時にさらなる説明を拓に促した。「それで? 何したの?」
すると拓は隠し切れないにやけで言葉も途切れ途切れになりながら話した。
「先生がシュートの手本を―――見せようとしたんだけど―――ジャンプしたんだ―――ゴール前で―――僕、その瞬間に―――」
拓は炭酸水があふれ出したようにぷはっと笑いながら言い切った。
「あいつの足に根っこ巻きつけてやったんだ! 地面から生やして! 最高でしょ?」拓はげらげらと声を上げて笑った。横にいる沙織も一緒になって腹を抱えて笑っている。「ほんとにさいこー! まるで発射に失敗したロケットみたいだったよ!」
理恵はいよいよ堪忍袋の緒が切れたようで拓を大声で叱り始めた。
「一体何バカのことやってるの! みんなにバレたら大変なことになるでしょ! 他の人の前では魔術は使わないって、そう決めたじゃない」
「何のこと?」と拓ははぐらかしているが、確かに四人でそう決めたのだ。魔術なんてこの地球で聞いたことも見たこともないのに安易に使っては想像のつかないほどの騒ぎになってしまうだろう。次に何が起こるのか予想もできないのでことを慎重に運ぶために今は他の人の前では魔術は使わない、知られないとルールを決めていた。しかし目の前にいるこの男は早速そのルールを自ら破ろうとしてる。
「俺が魔術を使った時あんなに目くじら立ててたのに、自分もやってることやってたんだな!」
啓の言葉に拓もやっきになって反論した。「でも僕は啓と違ってみんなにはバレない様にやったよ! 本当にジャンプしたと同時に根っこを生やしたんだ。先生だけにしか見えてないよ」
場の空気がヒートアップした中、沙織が称えるような調子で話した。
「でも他にももっと色んなことしてるもんね、拓?」
沙織は目をキラキラとさせながら聞いた。啓にとって沙織に以前の活気が戻っているのは嬉しいことだが、調子が悪い方向に向いている。これ以上拓の悪さを掘り出してはほしくない。しかし拓はお構いなしにまるで自身の立派な功績のように話し始めた。
「最初は落ち葉でいやがらせしたんだ。校庭を歩いてるときに頭上に降らせたり、叫んでるときとかにでかく開いているあの口に飛ばして入れたりしたりしてね。それに教官室とかあの人の車にスギの枝を大量に「プレゼント」したんだ! あいつが重度の花粉症とかだったらいいんだけど…」
拓の犯行の自供に啓と理恵は唖然とした。なぜこれほどまで見事な魔術をしょうもないことに使うことができるのだろうか。拓は沙織に喜んでもらえてまるで表彰状を受け取ったような誇りに満ちた表情をしているが、こちらとしてはむしろ逮捕状を送りたい気分だ。この魔法の存在を知られてしまった時どうするつもりなのだろう。啓が拓に冷たい視線を送っていると理恵も嗜めるように言った。
「まったくもう…沙織を見習ってよ。この前なんて、中々ファインプレーだったわよね?」
「え、そうなの? なになに?」拓が拍子抜けな顔で聞いたので啓が教えた。
「俺が美術の時間にカッターで指を切ったときとか、理恵が体育で怪我したときとか、沙織がすぐに治してくれたんだ。得意の魔術でね」
啓が感謝の意を含んだ眼差しを沙織に送ると、沙織は少し照れながら言った。
「やっぱりこの魔術は進んで使わなくちゃ。まあ、当然バレない様にだけど。―――だけどこの前一回だけ、目の前で一人で小さい子がこけちゃった時は見せちゃったんだ、傷を癒す瞬間を。見せてあげたいっていう欲望が勝っちゃって…」
するとスイッチを切り替えたように、自信満々に腕を組みながら言った。
「怪我をしたら沙織にお任せ! ワンコインで承ります」
「お金取るの!?」拓が驚いて声を上げると、理恵も続けて得意げになりながら話し始めた。
「私も前に廊下を歩いてるとき、たまたま通りがかった生徒同士が言い争いをしてたからやめさせてあげたわ。呪文を唱えてね、心を穏やかにしてあげたの。そしたらすっかり仲直りしちゃって、最後には抱き合ってたわ」
理恵は結果に満足したような、困惑しているような調子で言った。すると再び拓の方を向いて言った。
「拓ももっとましなことにその魔術を使いなさいよ。紙飛行機はきっと、そんないたずらばかりをさせるために魔力を拓に授けたわけじゃないはずよ」
すると拓は思いにふけるように言った。
「それは、どうなんだろ? 分からないな。一体何で紙飛行機は僕たちに魔術をくれたんだろうね? 一体どうして僕たちなんだろう?」
拓が急に核心をついたような質問をした。啓もこの魔術を手にしてからずっと疑問に思っていたことだ。一体どのようにして魔術をくれたのか、と同じくらい啓に思案させる疑問でもある。一体どうして自分たちが、どのような意図で魔術を授けられたのだろう。一体どうして…どうして…
啓含む四人は歩きながらしばらく深く考えを巡らせていた。すると数秒後、沙織があっと思い出したように声を上げた。
「そういえばみんな! 聞きたいことがあるんだけど」
「最近変な夢とか見たりしてない?」
沙織は唐突聞いた。「実は今日変な夢を見たんだけど、昨日も同じのを見た気がするんだ。というかここ最近ずっと見てる気がするんだけど。すぐ忘れちゃってずっと聞きそびれてて…今急に思い出したの」
すると啓の頭の中で今朝の記憶が洞穴からすごい勢いで飛び出すようにぱっと思い出された。
「あ! 俺、今日見たかもしれない。確か―――女の人が出てきて、何かを言ってたな。なんだっけな」口に出すとより鮮明に思い出してきた。確かにここ最近見てる気がする。しかし朧げな記憶なのではっきりと言いきれない。
すると理恵が独り言のようにぼそっと話し始めた。
「星を救って…星を救って、だわ。そうよ、そんな言葉が頭に残ってるわ。何回も同じフレーズを言うの…星を救ってって…」
そのフレーズを聞くとあの夢で見た幻想的な景色がはっと啓の脳裏に一瞬だけ映し出された気がした。あの大聖堂のような大きな空間…しかしそのまま記憶の奥底まで沈んでしまった。すると沙織が訝るように言った。
「あたしも聞き覚えがある。でも星を救ってってなんなんだろ? 救う星があるの? 地球のことかな?」
沙織の質問に誰も答えられないで黙っていると、拓が次に話し始めた。
「僕もちょうど今日話そうと思ってたんだ、その不思議な夢のことを! だからこれを今日持ってきたよ」拓はポケットをガサゴソと探って、さも自慢げに一つの紙切れを出した。それを見た理惠が不審げに尋ねる。
「何故『地毛証明書』なんて持ってきたの? 思い出を懐かしむため?」
「違うよ!」拓は憤然とした様子で答えた。
「実は今日起きた直後に夢で何を見たのか書き出したんだ! 一日だけ夢日記だよ。僕も今日絶対みんなと、このことについて話そうと思ったから。地毛証明書なのは、起きた直後に偶々近くにあったから使っただけ…」
これはなかなか(拓にしては)ナイスプレーだと思った。夢の内容を書き出すなんて啓には思いつかなかった。拓は大げさに咳ばらいをしてその書かれた文を読み上げ始めた。
「女の人がいた。多分同じ人」
あまりに簡素な文だったので啓は少し笑ってしまったが、他の二人はうんうんと頷いた。確かにその通りだ。きっといつも同じ人を見ている。
「あと、同じ単語。星がなんちゃら…」
「星を救って、だよ」沙織が静かに訂正した。すると拓がシャーペンを取り出して紙切れに情報を付け加えた。
「それで最後に、首飾りって書いてある。何だろう?」
拓は自分で書いたのにも関わらずきょとんとして聞いた。すると理恵があっと小さく声を上げた。
「私、みんなより覚えてるかもしれない…確かに首飾りをつけてたわ。ペンダントのような…それに模様も覚えてる。ちゃんとは見えなかったけど、馬みたいなのが描かれてた…確か…」
理恵はほぼ独り言のように深く考えながら話した。啓は理恵の記憶力の良さに感心した。それどころか少し疑った。本当に理恵はそんなものを見たのだろうか? 自分はあまりにも覚えていない。啓は自分の頭が少し憎らしくなった。
拓は理恵の言葉をふむふむと頷きながら、紙に情報を書き加えて言った。
「もし他に情報を覚えてたら教えてね! にしても女の人は一体誰なんだろう? みんな夢で同じ人を見てるなんてすごく不気味だよね?」
すると理恵が思案顔をそのまま三人に向けておもむろに言った。
「まあでも…あの紙飛行機に関連していることは確実ね。だってあの日から見る様になったんだもの」理恵の発言に他の三人は黙りこくった。確かにその通りだろう。以前はここまで夢の内容を長く覚えていることはなかった。すると理恵が少しつんけんとした言い方で話した。
「でも、安眠の邪魔をされるのは中々気分のいいものではないわ。もう少し頻度を落としてくれないかしら」理恵の苦情の申し出に三人は笑った。すると啓はあること思いだした。
「そうだ。みんな同じ夢を見てるならこれも一緒かもしれない…今日みんなの体に異変とか起こってたりしない?」
啓は期待を寄せて聞いたが「え? なに?」と聞き返されるだけだった。
「異変だよ。実は今日体がすごく軽くなってるんだ。地球の重力が少なくなったみたいに。みんなもそんなこと起こってないかな?」
啓は少し焦った。予想していた返答が返ってこなかったからだ。みんなきょとんとして共感の意を示してはいない。
「そんなことないよね? 多分啓だけだよ。体が軽くなったなんて―――」
「うそ、ほんと? 何もないの? 俺の方は早く走れたり身軽になったりしてるんだけど…今日だって沙織が襲われたとき時、すごく早く走れてすれすれの所で沙織を男から剥がせたんだ。見てたでしょ?」
啓の言葉を聞くと拓は腑に落ちたようにあーと声を上げた。
「そういえば確かに、啓すごく走った時すごく早かったよ。男の人の攻撃も身軽にかわしてたし。あれってそういうことだったの?」
「でも啓だけがそうなってるのは不可解ね。それに、その異変はいつから起こってたの?」理恵が訝し気に聞いた。
「今日だよ! 朝起きた時にすぐさま違和感に感じたんだ。何が起こってるんだろう?」
啓は完全に他の三人も同じだろうと思い込んでいたため少し失望した。なぜ自分だけなのだろう。啓含む四人は「うーん」と額や唇に皺を寄せながら考えていたが、拓が良く通る声で沈黙を破った。
「まあ、今は分かんないよね! 考えても仕方ない」
そう言って拓は今しがた持っていた夢のメモを上着の横についているポケットにさっと入れようとした。するとそれを見ていた沙織がアッと声を上げた。
「拓、またそんなところに入れようとしてるの? そこはぐちゃぐちゃになるからやめた方が良いって、前にいったじゃん」
沙織が目を三角にして言った。啓と理恵が「なんで?」と聞くと沙織は説明を付け加え始めた。
「先週とかにね、拓のポケットの中身が荒れてることが判明したの。…というか気づけば結構前からなんだけど、いつもそのぽっけから結構な数の『掘り出し物』があって…例えば使いかけのティッシュとか、お菓子のごみくずとか―――」
沙織が拓のポケット事情を赤裸々に語っていると拓が大声でストップをかけた。
「ちょ、やめてやめて! だめだよ、秘密だって言ったじゃん!」
啓が「うえーきたねー」と野次っていると、顔を赤らめた拓がごにょごにょと言った。
「いつも入れた後取り出すのを忘れちゃって…そのままにしちゃうんだよね…この上着もいつも使ってるからごみもたまっちゃって…」
理恵は肩をすくめてやれやれと呆れて言った。
「そんなところをゴミ箱なんかにしないでよ。全く拓は少しだらしがないところがあるわよね」
するとそれを聞いた拓は次に、ふさわしくないほどの堂々とした声色で言い訳を話し始めた。
「でも! これのいいこともあるんだよ! なんというか、タイムカプセルみたいんだ、ここのポケットって」
拓の謎の発言に三人はわけが分からず顔を見合わせていると拓が慌てて言葉を付け加えた。
「例えば、ポケットからくしゃくしゃに折りたたまれたプリントが出てきたときは、あ、これあの時にもらった時のやつだあって懐かしさを感じられたり、お菓子が出てきたときは、昔の自分の未来への贈り物なんだなって感じたりするんだよね。それでおいしく食べられるんだ」拓は一人しみじみと言った。しかし三人はその衝撃的な話に返す言葉もなくただ乾いた笑いが出るだけだった。
「まあ出てくるのは大体、使いかけのティッシュとかなんだけどね!」
そう言って拓は夢の記録を記した「地毛証明書」を、また性懲りもなくポケットにがさっと入れた。
啓たちは変わらず帰路を進んでいた。しかし、いつもの公園はとっくの前に通り過ぎていた。ここ最近の目的地はそこではなくなっている。その公園からさらに南へ進んで、啓たちはその先にあるひとつの小さな山へ向かって大通りをすたすたと歩いていた。
「もう少し…もう少しだよ…あたしたちが自由になるまで…」
沙織が歩きながら不気味な笑みを浮かべて言っていた。不自然に身を縮こまらせていてまるで演劇のヴィランのようだ。横を歩いている理恵が吹き出しながら言った。
「ちょっと沙織、やめてよ。みんなに怪しまれるかもしれないわよ? ねえ拓、今日も『アレ』させてね」理恵が期待を込めて聞いた。すると、
「いいよ! 僕の体力がなくなるまでだけどね…」拓は大げさに保険をかけて答えた。しかし、
「ちょっとみんな、あんまりここでは話さないで…誰かに聞かれちゃまずいから…」啓が低い声で注意を促すと他の三人も黙ってピンと歩き始めた。神経を最大限にまで尖らせる必要があった。万が一のためだ。そこからさらに十分ほど歩いていると草木に囲まれた坂道を登って、啓たちは深い山の中を歩いていた。雑草や高い木々が鬱蒼と茂っており、晴れた日なのに木漏れ日も少なくあたりは薄暗かった。小さく見える山を公園から眺めていたが実際に来てみたことは以前は一度もなかった。そんな縁もなかった場所へ頻繁に足を運んでいる理由は、ただ一つである。
「みんな準備はいい? 今日も魔術を使いまくるぞ」
拓は目的地に到着すると、立ち止まって腹の底から叫んだ。啓含む他の三人は拓の雄叫びを聞いて思わず笑った。
「本当に良かったよね。ちょうど練習にいい場所が近くにあって。人がまるでいないんだもん!」
沙織が満足そうに言った。啓はあたりを見回して沙織の言葉を噛みしめるように頷いた。
啓たちがここに最初に来たのは魔術をもらって間もないころだった。他の人に見られてはいけないと決めてからは人目がないところでの魔術の練習場兼遊び場が必要になった。町郊外ではどこでも人気があり魔術を一度使えば相当な騒ぎになる。そこで拓は放課後ここで魔術を特訓することを提案した。拓は以前から植物の研究でここへよく足を運んでいたため人気が非常に少ないことをよく知っていたそうだ。さらに拓のカモフラージュの草木を周りに生やせば目撃対策はバッチリであった。
その日もいつもの開けた場所に啓たちは到着すると、周りを注意深く観察し始めた。人がいないことが分かると拓が魔術を施し始めた。
「ミオソティス・アルペストリス!」
その一声でたちまち木々は地面からタイムラプスを見ているかのようにぐんぐんと伸び始めた。幹から幹へ、枝から枝へその体が広がっていきあっという間に立派な一本の木になった。不自然に見えない様に大小さまざまなものを生やして角度や位置もまばらにしている。しかし遠くから見ると啓たちがいる一帯だけは見えないように拓は配置した。ここ毎日同じことをしているので拓の腕も上がっているし、心なしかその後のドヤ顔もひどくなっている気がする。
「よしこれで完璧! もう誰にも見られないよ。じゃあ僕はあっちの方に行くから!」
拓は少年のような青臭い笑顔を浮かべながら三人に言った。すると理恵が心配そうに注意した。
「崖には気を付けてよ。本当にすぐそこにあるんだから。前みたいに落っこちそうになっちゃだめよ」
理恵の言葉を聞いて拓は不安になるようなおちょけた敬礼をした。それをみて啓も少し心配になった。ここに初めて来て間もないころに拓がはしゃぎすぎてここから数メートルのところにある崖から落ちそうになったかとがあったのだ。幸いその時は自身の魔術でとっさに命綱を作り間一髪助かったが、同じ轍を踏んでほしくはない。すると拓は手をバサッと上げ教官のような威厳ある声で言った。
「じゃあ、最初にブランコしたい人! あっちまで競争!」
拓は言い終わるや否や向こう側へ猛ダッシュし始めた。すると触発されたように理恵と沙織もキャッキャと叫びながらその後を追いかけ始めた。啓はその後を目で追うと、拓がここの一帯の中で最も太く最も高そうな木の下まで駆けていって立ち止まった後、なにやら手をもそもそと動かし始めたのが見えた。すると拓が立つその地面から細長くしなやかな木の幹が噴水のようにすごい勢いで飛び出してきた。土はその勢いであちこちに飛び散り、幹はずっと高く伸び続けている。するとその幹は急にピタッと止まり、もとあった近くの高い木の一つの枝へUの字に引っ掛かった。まるで滑車に通されたひものようにピンと太い枝に張られるとその幹はそのまま拓たちのもとへ一直線に下ってきた。啓が近くまで走っていくと拓が今しがた下ってきた木の幹の先端を沙織の片腕に巻きつけているところだった。
「もう何回目だろうね? 何度も言うけど手を幹にしっかりと掴んで踏ん張っていてね。じゃないと危ないから…」
「大丈夫だよ。ちょっとこれ、きつすぎない?」
沙織はぶつぶつと文句を言っているがお構いなしに、さらに何十重にも巻きつけられていた。しなやかな幹は腕やお腹にひとりでに巻き付いていてまるで生きている蛇のようだ。となりでわくわくした表情の理恵が立っている。
「よし、これで大丈夫なはず…それじゃあいくよ? 三、二、一―――」
するとゼロの瞬間、拓が生やした木の幹はドリルが地面に潜るように勢いよく戻っていった。と同時にその幹に巻きつけられた沙織は滑車につけられたおもりのようにビュンと上昇していった。幹は戻り続け沙織は叫びながら上がり続けている。
「わああああ!!! うわああああ!」
その様子を見て啓は自分が乗っていないのにも関わらず浮遊感を感じてはらはらとした。上まで上がり切った沙織は興奮隠し切れぬ様子で下に向かって叫んだ。
「これ最高! あと十秒だけ!」
沙織は宙づりになって楽しそうな様子だ。しかし十秒も経たぬうちに拓は再び幹を地面から生やし始めた。優しくゆっくりと伸ばしているため沙織はそのまま風船が落ちてくるように時間をかけて下まで戻ってきた。地に足をつけた瞬間に文句をたらたらと言い始めた。
「ちょっとー、十秒経ってなかったよ! 昨日はもう少し長かったのになあ」
しかし少し息が上がっている拓が必死で答えた。
「でも―――これすごくきついんだ―――体力をすごく使うから―――ちょっと休憩―――」
膝に左手を、胸に右手をつきながら息をなんとか整えている。すると理恵が啓に向かって言った。
「私もしたいけど…でも今日こそは、啓、やってみたらどうなの? これすごく楽しいわよ」
理恵は肩眉を吊り上げにやけながら言った。その提案に啓はドキリとした。
このアクティビティは少し前に拓が魔術を使って自ら編み出したものだ。それからというものこの逆フリーフォールは四人の中の放課後の目玉アトラクションとなっている。しかし実を言うと拓がこの遊具を考えついてからというもの、啓はこれをやる機会から逃げに逃げていた。なぜなら啓は絶叫とつくものは何でも、大が付くほどの苦手だったからだ。前に遊園地で乗ったジェットコースターでは恐怖のあまり一回の乗車で気絶と回復を繰り返したことがあったし、小さいコースターでさえも怖がってしまい音力発電ができるのではないかというほど大きく叫んでしまう。沙織が今しがたやった逆フリーフォールなんて耐えられるはずがない。啓は理恵に向かって早口で言った。
「いや、なんだか今日は両手がどっちも痛いから無理だなあ…」
本当のことを言うと格好が悪いのでとっさに嘘をついた。しかし、
「もう言い訳は通用しないよ。今日だってご立派にあたしを助けてくれたじゃん。あんなにぶんぶん手を振り回して。手が痛いはずがないよ!」
沙織が恩を仇で返すように啓の嘘を見破った。啓は追加の言い訳で考えを巡らせていたが、お構いなしに体力が復帰した拓が啓の腕に幹の綱を巻きつけていた。
「ちょっと! 俺ほんとに無理なんだって! まじで―――」
啓はできるだけ抗おうとしたが拓は冷静にあやし始めた。
「啓、大丈夫だよ。そんなに怖くないし、楽しむ心が大切だから」
拓は仏のような笑みとともに穏やかに言ったが、啓には罰を与えんとする閻魔のようにしか見えなかった。何を言っているのだろう? 死にに行くようなものなのに…啓が一人そう思っていると、拓から知らぬ間にスタート位置に立たされていた。
「ちゃんと幹を握っていてね。あと上がってるときに目を瞑っちゃだめだよ」
拓はそう言いながら腕に巻きつけると、啓の否応をも聞かずにカウントダウンを始めた。
「三、二―――」
「いやマジで、無理だって! 頼むよ!」
啓が叫ぶ隣では、沙織と理恵が手を叩いて歓声を上げている。
「一―――」
ゼロの瞬間、啓は魂がすっぽりと抜け落ちたかと思った。啓の体が勢いよくロケットのように発射されたからだ。強い重力を感じ、内臓も骨も全て沈んだ。強い風を頬に感じ、木々の木の葉が服をかすめる。啓は恐怖で思わず目を瞑った。耳にはビュンビュンと風が当たる音が聞こえる。早く終わってくれ…終わってくれ…と念じることしかできなかった。するとスピードはさっと落ちて啓は宙づりになったまま停止した。衝撃で言葉にならない音が啓の口から唸って出た。下からは笑い声が混じった歓声が聞こえ、拓が叫んでいる。
「ひろー! どうだった? 目は瞑ってないよね?」
しかし啓は恐怖のあまりほかに声も出なかった。ただ惨めにぶらさがったまま片手で幹にしがみついている。啓はなんとか景色を見ようとして目をこじ開けた。すると目を見張るほどの壮大な景色が細く開いた目に入ってきて、啓は恐怖を忘れてしまった。針山に刺さったまち針のように山から生えている木々のその向こうには、自分たちが慣れ親しんだ街並みが雑然と、しかし雄大に広がっていた。あるところでは陽の光がキラキラと反射しているビルたちがまるで背比べをしているみたいに横にいくつも並んでいたり、あるところでは住宅地の中にまさにあみだくじができそうなほど幾つもの小道が縦横へ張り巡らされていたりしている。こんな高いところから自分たちの町を初めて見るので距離感がいまいち掴めず、まるで大きな平地にたくさんの積み木が丁寧に載せられているみたいに見える。心地よいそよ風を肌という肌に感じ啓は心が洗われたように感じた。ここ最近流行っているウイルスの感染への恐怖心も、生活のなかで感じる陰鬱な気持ちも一瞬だけ、しかし確実に消え去っていた。するともう少し先まで視界を広げようとしたその瞬間、啓は少しの揺れを感じて幹はゆっくりと下がり始めてしまった。啓は下っていき再び視界は深緑一色となる。ある程度下がった頃啓は下を見ると拓が吐きそうな顔をしながら呪文を唱えているのが見えた。
「ミオソティ…う…ミオソティス…」
そんな拓の隣では沙織と理恵が興奮した様子で啓に叫んでいた。
「ひろー! どうだった? 楽しかった?」
啓は地に足をつけるや否や、三人に話し始めた。
「すごく感動したよ! 景色は綺麗だったし、風は気持ちよかったし。はじめは怖かったけど、案外なれると大丈夫だな。ちょっとだけ絶叫も克服できた気がするよ」
すると不思議と得意げそうな表情の理恵が啓に言った。
「だから言ったでしょ? やってみないと損なんだから。じゃあ次、私ね」
理恵の言葉に拓は雷に打たれたような顔を作って見せたが、無慈悲に理恵に持ち場へスタンバイさせられた。すると啓が慌てて伝えた。
「あ、俺は一旦離れるよ。ちょっとそこまで魔術を使って練習してくるから」
二人は頷き沙織はここに残ると言って手を振ったので、啓はそのまま一人で歩き始めた。いまだに先ほどの興奮と多幸感が指先にまで広がっている。あの街並みと山々は脳裏に強く焼き付いている。いつか見る走馬灯でも思い出されそうだ。明日もさせてくれるだろうか? 一人啓が歩きながら考えを巡らせていると、鬱蒼と茂った森の中では鳥の声や虫の音が微かに聞こえていた。ところところで朧げに木漏れ日が枝や葉に反射していて僅かな灯りとなっている。啓は歩いているとすぐに少し開けたいつもの持ち場に到着した。ここのスペースだけは盆地のように少し平らになっているため、走りやすいし細かな動きもしやすい。少し木の間からこちらが見えてしまいそうな気がするが、そもそも近くに公園も家もない何もないこんな森の中で人がいることがないのでまず大丈夫だろう。啓は周りを見渡し一呼吸置くと呪文を小さく唱え始めた。
「ラバンデュラ」
すると青い光が啓の手の平にちらついた。わずかに熱を感じて啓の心は興奮を覚えた。初めて魔術を使ったあの日からこの気持ちは変わっていない。新鮮さ、高揚感が薄れることはなかった。次に呪文を口にせず頭の中で魔術を使えるように強く念じた。すると先ほどよりも激しく電気の光が手から迸った。思った通りだ。啓はこの練習の中で呪文は唱えなくとも魔術を使えることを発見していた。今日ベッドでしたように頭の中で強く念じれば、声に出す時よりも弱くともその思いもこうして形にすることができる。これも上達すればより高度に強い威力を伴わせて魔術を使うことができるのだろう。すると啓は思い立ったように両手をがばっと振り上げ呪文と唱えた。より語勢を強く、より神経を研ぎ澄ませて。すると次の瞬間啓を中心に渦巻くように多くの眩しく輝く稲妻がうごめいて走った。竜巻が大量の静電気を帯びたみたいにそれらは激しく回転すると、次に啓は高くジャンプしながら手の平から線上の小さな稲妻を次々に打ち上げた。呪文なしでも強く光るそれらは啓の手から打ち上っては消え、打ち上がっては消えを繰り返して、あたりをキラキラと光らせていた。明るさも熱気も、啓のテンションも最高潮に達したとき、着地と同時に全ての意識を目の前の一点に集中させ呪文を叫んだ。
「ラバンデュラ!」
すると手の平から棍棒のように太く眩い稲妻が発射されて体中に衝撃が走り、後ろによろけた。それと同時に目の前の木に魔術が直撃してドンと地割れのように低く大きなが鳴った。衝撃で木は揺れて黒い煙が立ち込めている。啓はその姿を見て思わず笑いが出た。面白くてではなく、嬉しさと気持ちの高ぶりから出たものだった。少しやりすぎただろうか? 手加減はしたつもりだったが。それに思った通り確かに普段からは考えられないほど大きくジャンプすることができたようだ。恐らく1メートルは裕に越えていた。今朝からある違和感は勘違いではないみだいだ。新たな力を知らず知らずのうちに授かったのだ。一体何が起こっているのだろう?優越感と高揚感を抱きながら啓はへへっと笑いながら顔を無意識に拭った。すると顔を前に戻した時、
「おまえは―――」
心臓を殴られたかのように急にドキッとした。体が硬直して、手を目の前にかざしたまま目を見開いた。今そこの木の間から人影が見えた気がしたのだ。声も聞こえた。急に心臓が早くなった。脳の処理が追い付かずただパニックになった。何をしてしまったのだろう? 全てを見られていたかもしれない。誰だったんだ? 気のせいなのだろうか? でも確かにそこにいた。人影をしっかりと見たんだ。あんな爆音を鳴らしてしまったからだ。あまりに軽率になっていた。一瞬で多大な量の文章が脳の中で巡りまわって、啓は冷静さを忘れた。とにかく他の三人に知らせなくてはならない。もしこのままこの森から逃れられればことは思ったより深刻にはならないだろう。啓はそのまま地面をけり上げ凸凹とした森林道を走り始めた。いまだに心臓は強く鳴り響き動揺で脳や視界が揺れ動いた。そこまでは遠くには行っていないはずだ。すぐに三人は見つかるだろう。そう思いを巡らせていつもより何倍も身軽な体で走っていると、なんと向こうの方から理惠がこちらに向かって走ってきていたのが見えた。啓は全速力で近づき話しかけようとした。が、理惠の勢いに完全に負けてしまった。怒りの形相を向けて啓に叫んだ。
「ちょっと啓! 危なかったじゃない! もう少しで本当に死ぬところだったわよ!」
啓は思わぬ叱責にたじろいだが、急いで言い返した。
「え、え? なんのこと? それより、今そこで―――」
「啓が放った雷が当たりそうになったのよ! こちらに向かって打つなんて、なんて危ないの! もう少し慎重に使ってよね!」
理惠の口からきいたこともないほどの大声が放たれていた。近くに拓と沙織もやってきたが同じく額に青筋を這ってキッと鋭い目線を送っている。理惠の言葉を聞いて啓の頭は余計に混乱した。今さっき魔術を使っていたがところかまわず放っていたわけではなかったからだ。渦巻型に放ったり、上向きに飛ばしたり、木に当てたりしていただけだ。あの開けた場所の外側に出したりはしなかった。明らかにおかしい。啓は必死になって言い返した。
「俺、やってないよ! そっちに向かって稲妻を放ったことなんてない! 濡れ衣だよ」
「でも明らかに啓の魔術だったわよ! 一体他の誰があなた以外にあの青い稲妻を放てるというわけ?」
理惠がごもっともなことを言い啓はひるんで返す言葉が見つからなかった。もし稲妻が飛んできたのならそれは一体誰のものだろう? 自分以外に使えるはずがあるわけない。啓は反論の余地もなく口をパクパクとさせて言った。
「知らないよ。でも確かに俺じゃないんだ。誓って―――」
「しっ! ちょっと黙って…!」
しかし途中で沙織が啓を制止した。口に人差し指を当て周りをキョロキョロと見ている。啓が何だと訝ると沙織が最小限の音量で言った。
「人の声が聞こえた」沙織の言葉でドキッとし、三人も耳を澄ました。すると確かに、どこか遠くから男の声の叫び声がかすかに聞こえてきた。若い男の声だ。
「―――た、助けて、助けて! あぁ―――」
啓たちはそれを聞いた瞬間驚きの目を見合わせた。なにやら助けを求めている。聞き間違いではなければピンチに瀕しているようだった。それは大分動揺している上ずった声で、啓たちに恐怖すら与えた。さらに向こうへ走っている音ががさごそと聞こえる。
啓は直感で、三人に視線を置いたまま声が聞こえた方に向かって叫んだ。
「大丈夫ですか? 助けが必要ですか?」
啓は相手側に聞こえるように今の最大限の音量を出した。しかし向こうからは反応がない。ただ森の中で木の葉が息をするような音だけが聞こえる。もう行ってしまったみたいだ。しかしあの声色は確実に異常だった。啓は唖然としている三人に向かって言った。
「助けが必要みたいだ。行こう。分からないけど今行かないと…」
啓は他の思考も全て飛ばして他の三人の否応も聞かずに動き出した。今行けば追い付くかもしれないと思ったのだ。
啓は徐々に走り出すと拓が背後で泣きべそをかきながら言ったのが聞こえた。
「え、ちょっと待ってよ、待ってって…! 怖いよ…!」
そう言いながら拓はなんとかついてきた。沙織や理惠も同じく急に使命を与えられてように機敏に動き出し、一列になって啓についてきた。一体誰なのだろう? 誰かが怪我をしたのだろうか? それとも動物か何かに襲われている? 次々に疑問が浮かぶ頭で啓は、一瞬声が聞こえた方向に向かって走っていた。その間にも山はより一層深くなっていき木の枝や木の葉、蜘蛛の巣が体中に当たっては啓たちの体を襲っていた。一体どこまで行ったのだろう? もう見失ってしまったのだろうか? 確かにこの方向に向かって走っていったはずだ。啓の心に最高潮の不安が押し寄せてきていた。しかしその時、啓は急ブレーキをかけてストップした。日の光がさっと視界に入ってきたのと同時に、急に大きな障害物が目の前に立ちはだかったからだ。あまりな急停止だったのでドミノが倒れてくるように背中に強い圧力を感じた。おそらく拓あたりはこけてしまっただろう。でも啓にとって今そんなことはもうどうでもよかった。
啓は目の前をよく見た。初めは大きな岩が現れたかと思った。しかし全体を、それは少し年季の入ったネズミ色のバンであることが分かった。啓は自分の目を少し疑った。一体なぜこんな山の奥深くに一台の車があるのだろう? 周りに目線を広げるとここの一帯だけはもともと獣道だったことが分かった。車一台分が通れるほど幅だけほんの少しだけ雑草の量が少なく木も生えていない。その車が向くその先には渓谷の崖に続いておりその先に広がる青空が見える。この車はここまで走ってきたのだろうか。車が辿ってきたであろう背後の道を見てみると、獣道だったと言っても今はあまりに凸凹でここまで来るのにほぼ不可能と言っていいように思えた。啓はもう一度周りをよく見回した。どうやら人の気配はなく助けを求めていた人は完全に見失ってしまったようだ。
啓はバンの方が気になり、よく見てみようとフロントの方に移動した。すると再び心臓がドキッと跳ね上がった。なんと車の運転席に人が座っている。こんな山奥で一人車の中座席にもたれかかっており、深く眠っているように目を瞑っている。作業着のような鼠色の服に胸元には社員証のようなカードを提げている。後ろから見ると死角になっていて初めはその存在に気が付かなかった。啓は目配せをして三人に知らせた。それを見て彼らも驚いた表情をすると、理惠が不安げな声で呟いた。
「どうしてこんなところに…? 大丈夫かしら―――」
するとその時座席に座っていた男が急に、まるでたった今地球に酸素が戻ってきたかのように息を深く吸い込んで目を覚ました。目を見開いたまますごい音でハアハアと呼吸している。啓たちはビクッとなりその姿を唖然として見つめた。声をかけようとしたがその時、その男は窓のすぐ横に立っていた啓の姿をキッと見つめた。そしてそのまますごい勢いで窓から頭を乗り出し、すさまじい力で啓の胸倉をつかんだ。そのまま叫ぶ。
「助けてくれ! 助けて! 俺は感染してない!」
さっきの声だ。啓は一瞬でそう気付いた。ついさっき山のなかで助けを求めていた声と一緒だ。顔中に皺を寄せた恐怖の形相でその男は唾を飛ばしながら叫んでいる。啓は衝撃と怯えで一瞬のうちに心拍数が上昇した。その後も続けて男は支離滅裂なことを言う。
「感染してないんだ! 信じろ! 俺は違う―――」
その間にも手の力はどんどんと強くなり、啓は苦しくなってきた。必死に剝がそうともがきながら啓は言う。
「大丈夫です。大丈夫ですから、落ち着いて…ひとまず病院に行きましょう」
そう言いながら啓は確信していた。明らかに感染者だ。おかしな発言に加えて、よく見てみると肌が黒変している。今まさに幻覚を見ているみたいだ。それに胸元のカードにはとても見覚えのあるロゴが印されている。このロゴは―――
「ちがう! 感染していない! 俺は見た! 全てが手遅れになる前に!」
力も弱まることがなく続けて男は怒号を浴びせる。男は啓の胸倉をぶんぶんと揺らし始めた。焦点が合わないようで眼球が気味悪く小刻みに揺れている。
「感染してない! 俺は見た! あの研究所! あの研究所は―――」
しかしそこで急に男はぱっと啓から手を放し、まるで魂が抜けたように唐突にばったりと座席にもたれかかった。意表を突かれて啓は思わず聞いた。「え? だ、大丈夫ですか?」
しかし男からの返事はない。目を啓へ一点に見開いている。すると首が不自然な方向へ曲がり始めた。まるで引付にあったようにゆっくりと上へ、上へ顔が向く。右手や左足もどこからか糸がつながれている操り人形のようにピンと突っ張り始めた。充血が良く見えるほど目をこちらに向かって大きく開けて、不気味に口角も上がり始めた。その開いた口からよだれがぽつぽつと滴る。啓たちはその突然の気味の悪い光景に衝撃で互いに目も合わせることもできなかった。為すすべなく固まっていると、沙織が振り絞ったような、しかしはっきりと聞こえる声で三人に言った。
「―――連れて行かないと、今すぐ病院へ―――」
しかしその時、男はロックの外れたばねのようにバサッと前かがみになった。頭をハンドルに強く打って、クラクションが鳴り響く。と同時に、男は強くアクセルを踏んだ。エンジン音とクラクション、タイヤと砂利の音が大きく鳴り響き車体は猛スピードで前へ走り出した。車は一瞬で最高速度まで達し、激しく揺れながら一直線に崖へ向かう。
四人はほぼ同時に叫んだ。そして追いかけるように駆け出した。横から拓が呪文を叫ぶのが聞こえた。しかしあまりに急であまりに予想外のことだった。拓の放った蔦の命綱は車体を掴めることなく空振りし、車は構わず速度を上げた。そのまま猛スピードで奈落の底へと飛び降り―――
1秒間の静寂、その刹那が永遠のように感じられた。体感はあまりにも長く、受け入れるにはあまりにも短かった。啓の口から言葉にならない声が漏れ、沙織が信じたくもない光景に口を覆った。次の瞬間―――
ガン!
鈍く地面に打ち付けられる音が聞こえ、
ゴン!
一音一音に頭を殴られているような感覚がし、
ガシャン
車体は鈍く響く音を出しながら地面に衝突を繰り返して、轟音と共に底へ打ち付けられた。惨憺たる金属の咆哮は広大な渓谷に響き渡っている。横にいる理惠は膝から崩れ落ちた。沙織と拓も呼吸が不揃いになり口を塞いで震えている。啓の頭に大量の感情が押し寄せる。人が飛び降りた。車に乗りながら。一体どうして。受け入れられない。受け入れられるはずがない。一体なぜ、どうすれば―――視界は動揺のあまりピントが合わずぼやけて、呼吸は恐怖のあまりうまくできない。耳には自分や他の戦慄が伝わる息遣いと、冷たく鳴く鳥の声が劈くように入ってくる。煩い沈黙がしばらく続いた。
「―――通報しよう、通報しないと―――」
啓が血の気の失せた声で最初に言った。のどもからからに乾いていた。何も理解できていない。怖くて仕方がない。自分が今何を言っているのかもよく分からない。
「通報しよう」自分に言い聞かせるように言った後、啓はおもむろにポケットから携帯を取り出そうとした。しかし手が震えて力も入らずうまく掴めない。握りつぶすように携帯を取った後震える手でなんとかダイヤルを打とうとした。しかしその白い画面にさっきの無残な映像が無意識に映し出されて心臓を抉られるような感覚になった。恐怖に苛まれながら啓は電話を掛けた。
「もしもし…もしもし…救急です。崖の上で人が飛び降りて―――今すぐ来てください――――」
救助を待っている中、四人の間には存在するはずもなかった重い空気が流れていた。電話を終えた直後、沙織は肩を震わせて泣き始めてしまった。とても静かにただ鼻の啜れる音だけが聞こえていただけだったが、啓にとっては沙織から発されるその音一つ一つがまるで胸を深く引っかく鋭い爪のように感じた。胸に、脳裏に刻み込まれてその傷は癒えることはない。沙織の泣き声が啓の心の中で何度も何度も反響していた。理惠も沙織の涙を見ると、つられて悲痛な面持ちで瞼が潰れてしまいそうなほど強く目を瞑っているのが見えた。心の中で何かと闘っているように理惠の口から言葉にならない音が漏れた。しかしその後、しばらくしてから沙織の手を優しくそっと掴んで握っていた。自分も深く傷を負っている今、理惠があげられる最大限の優しさだと啓は思った。拓は恐怖に戦き木に寄りかかりながら、両腕を掴んで震えていた。目は虚ろになって地面をひたすらに見つめていたが、不釣りあいにも目は赤く充血していた。早く来てほしい、早くこの状況を終わらせてほしい。啓の心の中でその思いが毎秒ごとに大きく膨れ上がっていた。
「一体どうして―――どうして飛び降りたりしたんだろう」
救助を待っている間、拓が一番初めに言った。地面を一点に見つめている。
「僕たちが話しかけた直後だよね。急に様子がおかしくなって…」
「恍惚状態になってた。急に話さなくなって、首がおかしな角度になって…俺を一心に見つめてた」
言葉も途切れ途切れになって言いながら、啓はその光景を思い出してしまった。あの狂気の表情とこちらに向いていた眼球。フラッシュバックを起こし啓は思わず顔を両手で塞いだ。
「あの人、明らかに感染者だったわよ。その前に無茶苦茶な発言をしていたもの。感染してないって何度も…」
理惠は鼻を啜っている沙織の手を握ったまま二人に向かって言った。ポーカーフェイスに翳りがあり、鋭い眼差しを放っている。続けて理惠が言う。
「だから意識なく飛び降りたりしたんじゃないかしら。自我がなくなってしまって―――」
「でもそんな症状聞いたことない。急にあんな引付に合ってよだれを垂らすなんて…そんな症状、今回の感染症にない」
拓は初めて地面から目線を外してこちらを向いた。普段のはつらつとした声色から想像できないほどの小さな声で意識も朦朧とした様子とともに反論する。
「可能性があるのは「攻撃的状態」だけ。最初は確かに暴れてた。だけど恍惚状態と飛び降りは説明がつかない。一体どういうこと?」
理惠は拓の反論に言い返すこともできず、ただ思案するように下を見て黙った。すると啜り泣いていた沙織が上に顔を向けて三人に言った。
「これ―――あたしたちが疑われることってないよね?」
その一言でもとより冷たい空気が流れていた四人の間に、さらに恐ろしく凍った恐怖が流れた。自分たちが疑われる? その可能性を考えていなかった。啓が一抹の不安を抱くと理惠がすかさず答えた。
「きっとないわよ。四人の高校生が大人を車に乗せたまま、証拠も残さず飛び降りさせるなんて不可能だもの」
その言葉を聞いて啓は確かにそうだ、と思いながら我に返った。自分たちが殺人者に仕立て上げられることはきっとない。まるで自分自身をそう信じ込ませるように何度も小刻みに頷いた。そして沙織と拓も納得したのか再び虚ろな表情になって地面に目を戻した。
その後しばらくすると、遠くの方から救助ヘリがやってくるのが見えた。こんな山奥まで救急車で迎えに来るのは無理だと判断したようだ。そのまま隊員たちはヘリから渓谷の底へと降り立った。その時初めて啓は直で車の様子を見ることができた。ペットボトルのようにぺしゃんこになりながら横転している車は窓ガラスなどは割れて原型もとどめておらず、煙がもくもくと上がっている。その陰から人が一人、連れ出されるのが目視できた。ぐったりとしていて、体中が赤色に染まっている…それが血だとわかった瞬間、啓は針が飛んできたかのように目をぎゅっと瞑って逸らした。今になってだんだんと理解してきた。目の前に広がる無残な光景と消えることのない恐怖。楽しく自由な時間の中に、突然突きつけられた現実を啓は受け入るしかなかった。今日、目の前で人が一人、車と共に飛び降りた。おそらく亡くなってしまっただろう。自分たちはなにもできなかった。どうすることもできなかったのだ。彼は明らかに感染者だった。それにあの助けを求める声と胸元の社員証。そこに記された名前と見覚えのあるロゴ―――啓は思い出しながら頭の中で一つ一つ丁寧にかみ砕くように整理していく。するとある一つの、ここ最近ずっと頭からこびり付いたように離れなかったある疑念が、まるで液体が個体へ姿を移すように、点が線で結ばれるように、確信に変わったのを感じた。
啓は視界を前に移した。目の前に広がる渓谷を覆いかぶさるように広がる空はすでにオレンジがかっている。キャンパスに滲んだように輪郭のぼやけた雲たちがぽつぽつと浮かんでいる中、月が夕暮れ時に似合わないほど白く輝いて顔を出している。
その日は満月の夜だった。




