第四章 神託の儀式
啓は人生の中でここまで衝撃的で、ここまで心拍数が上がるようなことは今までになかった。高校受験の合格発表の時も自分の番号を見た瞬間興奮したのは覚えているが、たった今死を覚悟し神経が冴えているこの感覚とは全く違うものだった。緊張感と興奮に恐怖が絡まりあって啓はその場で足をふらつかせていた。他の三人も驚いたその表情がそのまま顔に張り付いてしまうのではないかというほどずっと目を見開き呆然としていた。四人はそのままゆっくりと恐る恐る機体へさらに近づいた。
「…紙飛行機だわ。信じられない。」
理恵が消え入るような声で最初に言った。すると沙織がより大きな声で言った。
「本当に紙飛行機だったなんて。 あたし、半分冗談のつもりだったのに」
「こんな大きな紙飛行機見たことないよ。一体誰が作ったんだ…」
啓はそう言い、そのサイズ感から驚きと同時に恐怖を感じていた。
間近で見るとその大きさをより実感する。高さはビルの一階分はありそうで、機体の上には大人が何人も乗れそうだ。紙飛行機の質感は画用紙のようなざらざらとしている見た目だが、とても頑丈そうでその厚さはコピー紙何十枚にも相当する。あんなに派手に不時着したのにも関わらず、砂による少しの汚れ以外は何の損傷もないようだ。
四人は各々巨大な紙飛行機を見て回った。ゆっくり一周するだけでもその大きさから数十秒かかる。ただただその威圧感に圧倒され啓は何の言葉も発することができなかった。さらにその他に目を瞠るべきは、紙飛行機の着陸と一緒に突如生えた、今は風に靡いている色鮮やかな植物たち―――確かに先ほどまではただの砂地だった。まるでこの機体がこの生命たちを地底から呼び起こしたかの様だ。理惠はその光景に思わず感嘆の念が零れる。「なんて幻想的なの…一体この草花たちはどうやって生えたのかしら」
すると啓がいた場所と反対側の翼の方から拓の声が聞こえた。
「ちょ、ちょっとみんな来て! これ見て!」
その焦りようから啓やその他二人は急いで拓のもとへ走った。そして拓が指さすところ見た。機体の右側の翼の表面に、なにかのマークが描かれている。逆三角形のなかにさらに三角形があり、その真ん中には縦線が引かれている。見たこともないマークだ。何かのシンボルのように見える。そして次の瞬間には、そのマークの下にゆっくりと文字が書かれ始めた。まるでツタが絡まりあって道を作るように、滑らかかつ摩訶不思議と文章が徐々に書かれている。
「え、なにこれ? どうやって…? 何が書かれてるの?」慌てて沙織が目を凝らし文字を読もうと試みた。啓もすでに書かれていた一文を読もうとしたが、聞きなじみのない意味不明な単語の羅列に何も理解ができなかった。
「我が主よ、我らは神託者なり。今こそ我らに神聖なる神託を与えたまへ」
…主? 神託者? 神託とは一体何のことだ? 主とは誰のことだ? 啓の頭に次々と疑問が浮かぶとすでに二文目が書かれていた。
「今は魔術時。されば人の心の深淵を侵すことを許したまへ。我らは神託と共に生き我が職務へ忠実になることをここに誓う。」
四人はこの不可解な文字列を我を忘れたかのように見ていた。啓は意味が何も分からなかったが、ただ一つ、この紙飛行機に書かれた文字はこの空間にいる誰かではなく、ここにはいない何らかの主に向かって書かれたものであるということは分かった。見えない何者かと対話しているようだ。するとマークと今書かれた文は煙が消えるようにさっと紙飛行機から消え、新たにメッセージが書かれ始めた。啓はその内容に不意を突かれて心臓が数センチ浮いたのを感じた。
「此処に居る4人の者達よ。我らは主の使い、神託者である。今こそ我らの神託を受けよ。さすれば、そなたらに才を授ける。」
紙飛行機はこちらに向かって話しかけていた。拓の口から驚きと困惑で言葉にならない声が漏れた。
「ぼ、僕らに話しかけてるよ! どうすれば―――」
「シッ! 静かにして!」理恵は喋ってもないのに紙飛行機に聞き入ろうとして、拓の口を閉めた。
啓と沙織もお互いに顔を見合わせた後、紙飛行機に視線を戻し次の文を待った。また、紙飛行機はするすると新たな文を書き始めた。
「今、我らの機体にそなたらの望みや展望、『夢』を念じよ。さすれば其れに代わる魔術を与えよう」
魔術。啓はその言葉を見た瞬間、鳥肌が急に立つのを感じた。魔術を手にしよう、なんて台詞はいつもなら馬鹿げていると思っただろう。しかし今大空を飛んで落ちてきた自分の何十倍も大きさのある飛行物体から、四人以外の誰もいない異質なこの空間で伝えられると、その言葉が何の疑念もなく啓の頭に入ってくるようだった。
「魔術―――あたしたち魔法使いになれる、ってこと…?」
沙織が半分は驚き、もう半分は期待を込めて聞いた。他の三人に向かって言っているようだったが、半分くらいは紙飛行機に問いかけているようにも聞こえた。しかしそこで一つの疑問が生まれる。果たして自分たちはこの機体と対話することができるのだろうか。今や四人は数歩下がったところで紙飛行機を見ていた。相変わらずあたりには自分たち以外誰もいない。夕暮れ時のかしましいカラスの大合唱も鳴き声すら耳に入ってこない。わずかな沈黙の後、新たに機体に文がゆっくりと書かれた。
「左様。」
この返答に四人は思わず息をはっと飲んだ。しかし続けて機体は文を書いた。
「しかし、幾つかの条件をここに示す。魔術者はこれらを完璧に呑まなければならぬ。
一つ、魔術者はそれぞれ、家系花を会得する。」
「…か、家系花?」拓は声を裏返しながら言葉を復唱した。
啓もその単語に意味がわからないでいると、次に紙飛行機は説明を付け加えた。
「家系花は神託と共に教示され、魔術者でいる限りそなたらはその花と人生を共にする。その花と一心同体でおられぬ限り魔術の力は使えぬ。花自体がそなたらの魔術の生き写しとなり、さらに花の真の名が呪文となる。故に家系花を手に入れ、其れと心身を共有することに傾注せよ」
「…花と心身を共有するって、どういうこと…?」
拓が三人に向かって怪訝そうに言った。間もなく紙飛行機は次の条件を書き始めた。
「二つ、神託の授与は必定ではない。そなたらの意思の強さに依存する。夢を明確に保持し、その期間が長いほど神託は確実なものとなる。対して夢を持たない、或いはその意思が弱ければ、神託の拝受は不可能であろう。」
文をさっと読み終えると四人は再び顔を見合わせた。
「意思に依存する…あたしたちの思い次第ってこと…?」
沙織は神妙な顔つきと共に言った。微かに沙織の目の奥で熱く感じるものが啓には見えた。しかし反対に理恵は急に不安そうな表情になった。
「強さによるって…どういうこと…」理恵はそう言い、自分の意思の弱さに不安がよぎっているようだった。すると紙飛行機はこれまでよりも速いスピードで新たな文章を書き進めた。
「魔術時は儚く、且つ有限である。そなたらの手筈が整えば、今ここに神託の儀を始めることとする。」
なんの前触れもなしに紙飛行機は全貌の明かされていない儀式の開始を一方的に宣言した。その言葉で風に靡いていた周りの花々たちも、その背丈をわずかに伸ばした。まさに儀式の始まりの瞬間を、首を長くして待っているかのようだ。啓たちは不意を突かれて後退りする。
「一人、前に進み出よ。機体に手を翳し、そなたの夢を機体に念じよ」
紙飛行機は一文字一文字が魂を宿すかのような文字を篤と、文を自身の体に書いた。四人は急な指示にたじろいで再び顔を見合わせた。啓以外の三人はどうすればいいのか見当もつかない様子で、特に理恵は興奮という感情に不安が引っ掛かったようななんとも言えない表情をしていた。沙織がみんなに向かって言った。
「どうしよう! 何かが始まるみたい! 前に進んで念ずるって…どうすれば…」
沙織は先ほどまでは好奇心が勝っていたようだが今は怯えて身震いをしている。
啓は自分が一体どんな顔をしているのか分からないまま三人に向かって言った。
「…俺が行ってみる。最初に。」
機体にいちばん近かったし、これから何が起こるのだろうという好奇心が勝った。啓は足元の野草を踏み鳴らしながらゆっくりと慎重に紙飛行機に近づき、機体のすぐ目の前に立った。もとより早かった心拍数がぐんとさらに早くなったが、不思議と意識はしっかり目の前にあった。すると紙飛行機は啓の行動を促すかのようにもとあった文章をさっと消した。「機体に手を翳し、そなたの夢を機体に念じよ」啓は言葉通り機体に手を添え、目を閉じた。
しかし夢を念じよと言われても何を、どう念ずるべきなのか分からない。明確になりたい姿や職があるわけではないので、啓は少し考える必要があった。今や心臓はドクンドクンと脈を感じるほど強く早く鳴っている。啓はおもむろに心の中で唱えた。
「工学部に入りたい。どこでもいい。電気工学を学びたい。そしてそれに合った職を手にしたい。電気を扱いたい」
ゆっくりと噛みしめる様に啓は思いを念じた。一つ思いを唱えると次々に言葉が溢れ出るようだった。翳した手にどんどん力が入る。
すると手の平のあたりに焼き石の様なじりじりとした熱が帯び始め、啓は固く閉じていた目を薄く開いた。そこには翳した手の隙間から金色の光が漏れ出ている。啓が息を呑んだ、その次の瞬間だった。機体全体から、そしてその踏みしめた地面から地割れした様に鋭い光が空を切り、辺りは光の海となった。と同時に、足元に纏わりつくような圧迫を強く感じた。啓はすぐさま目を下に落とすと、なんと太い蔦が地面から這い出て啓の足に絡まり付いていた。まるで魔術か何かに反応して啓の身体に棲み付こうとしているみたいだ。蔦は更に伸びて太ももにまで到達し、啓は今すぐにでも逃げ出したい様な恐怖感を覚えた。するとその時、啓は機体に翳したままの手のひらに何かが触れるのを感じた。とても不思議な感覚だ。新しい生命に触れたような、鼓動が感じられる。そして得体の知れないその何かが体内にじわじわと流れ込んできた。この身体と同化しようとしているのか、それとも侵食しているのか。次第に辺りの光芒は弱くなってきて、腕に伝わる奇妙な感覚も沈静化してきた。光が完全になくなった頃合いに、啓は優しくゆっくりと機体から手を離した。すると機体の手を翳していた辺りに、一凛の花が描かれ始めていた。それはとても見覚えのある、華奢でありながら凛とした、あの花だ。そしてその下に何かの文言が斜体で書かれている。啓はゆっくりとそれを声に出して読んだ。
領域=創造 電気を操る 家系花=ラベンダー
「ね、ねえ、みんな、これ見て!」
啓は文章を一目でさっと見ただけで、すぐさま背後の三人に叫んだ。
「今光が弱くなったタイミングでこれが現れたんだ。この花と―――この文が」
啓がそう教えると、三人は近づいて、機体を覗いた。
「領域…創造…電気を操る…? 家系花…家系花って!」
興奮も抑えられない様子の拓に理恵が言葉を続けた。
「さっき紙飛行機が言ってた花のことよ! 肌身離さずにって言ってたわ。 しかもラベンダーって―――」
「ついさっき啓からもらった花だ。今手元にある。」
啓はまるでパズルの最後のピースを合わせるかの様に、地面に置いてあった小さいラベンダーの鉢を取った。先ほどまで可憐な愛しいわが子のような存在のラベンダーだったのに、今ではまるでとんでもない威力を持つ爆弾か何かのように見えた。啓がその花に穴が空いてしまうほど注視していると、沙織が横であっと声を上げた。
「見て、紙飛行機が何か言ってるよ!」
他の三人もすぐさま紙飛行機に目を移すと、新たな指示が書かれていた
「我らが述べたように、家系花とそなたと一心同体になる必要がある。まずその花を今、摘みたまえ」
紙飛行機の言葉を見て、拓がハッと息を呑んだ。おもむろにポケットから先ほど家に置き忘れた園芸ばさみを取り出して啓に手渡す。しかし急に刃を突きつけられた啓はしどろもどろに言う。
「え、何? 摘むって、どうすればいいの? 俺、全然わかんないんだけど」
「花の下あたりをこのはさみで切ればいいんだよ」
「花を―――切る?」
啓は少し抵抗を感じた。切ってしまえば、この花の息の根を止めてしまうことになる。それが花を摘むということなのかもしれないが、自分がするとなれば話が違う。そこにある命を感じてしまう。普段の食事だってそうだ。食卓にでる肉や魚は誰かが手に掛けたものだが、それは決して自分ではない。だから罪の意識なんて感じない。しかし他の三人の期待が全面に込められた表情から推察するに、ここでこの命を手に掛けなければ展開は進まないようだ。啓は顔をしかめながら、えいとその茎をはさみで切った。するとすぐさま紙飛行機は新たな指示を出した。
「その花の一部をそなたの体に入れ、心を通わせよ。今、食せ」
最後の言葉を紙飛行機は自身の機体にはっきりと刻み込んだ。啓は再び息を呑む。そして再びラベンダーに目を戻した。食す。食してこいつと心を通わせる必要があるんだ。いつもなら花を口に入れることに嫌悪感を示しただろう。しかし今はそれが初めから伝えられていたかのように、何の抵抗も感じなかった。それよりむしろ食した後のことが今は気になる。啓は花を手に持ったまま目を瞑って一呼吸置いた。
何かとんでもないことが起きる。これを体に入れてしまえば、もう後戻りはできない気がする、そんな予感が啓の中でふつふつと湧いた。何が起こるか分からない、怖い、しかしその先が見てみたい。啓は目を瞑ったまま思案した。そして再び目を開けた時、紙飛行機に一言だけが浮かび上がっていた。
「食せ」
啓は心の拠り所欲しさに三人の顔を一瞥した。啓の方をまるで火の輪潜りでもする様に手に汗を握っている。今や誰も何も言葉が出てこないようだった。啓は覚悟を決めるかのように三人に頷き、そしてラベンダーの一部を口に入れた。何回か咀嚼した後、ぐっと力を入れて飲み込んだ。
すると次の瞬間、啓の体中に強い電流が流れた。頭から足先まで衝撃が走ると同時に、全身を流れる血液という血液がぐつぐつと沸騰するような不思議な感覚になった。思わず顔をしかめて目を瞑った。熱い。眩暈がする。遠くに行きそうな意識を呼び戻し再びかっと目を見開いた。するとなんと啓は、全く別の空間にいた。広い壮大な森林を見下げて啓は宙高くに浮かび、大きな空と遠くに見える地平線が啓を取り囲んでいた。風は強く吹き荒れ服と風は大きく靡く。啓はわっと叫び声を上げた。しかし壮大な景色と眩い陽に声が飲み込まれて、何も啓には聞こえない。すると再び体に電流が流えて血液はぐらっと熱くなった。啓が思わず目を閉じる。そして再び目を開けると、またもや違う景色が目に飛び込んできた。啓は炎の海に包まれていた。けたたましいほどの轟音が耳を劈く中、皮膚が溶けてしまうほどの熱さを間近で感じる。啓が逃げ出そうとしたその瞬間、再び血液がこれまで以上にかっと熱くなり、眩暈を感じて絶叫と共に啓は頭を抱えた。目の前に視線を戻すと、今度は静かな洞穴に啓は立っていた。広くどこまでも続く大きな洞窟で、少し向こうに川が流れている。洞窟の銀灰色に染まった壁に澄んだ青色が揺らめいて反射していた。忽然と訪れた静寂と対照的に、啓の心拍数は今や最高潮に達している。逃げまとう鼠の様な荒く細やかな自分の息遣いだけがここに反響していた。啓の心に後悔の念と、次に何が起こるか分からないという恐怖が一気に押し寄せてきた。啓は恐る恐る一歩を前に踏み出したが、またもや体中の血が煮えたぎった。それと同時に、天地が逆さまになった。理解する隙も与えずに、大量の冷水の雨が啓の頭に襲いかかり、耳を聾するほどの音が啓に降り注いだ。啓は水とその冷気で呼吸ができずに喘ぎ、全身の血はドクンと沸き立つ様に波打つ。一瞬のうちに水は止み、啓は再び目を開けた。すると啓は元の公園に戻っていた。全ては一瞬のことで全てが幻の様に消え去った。啓は乱れた呼吸の中、大量の酸素が肺に戻ってくる。まるで生き返ったような気分だ。神経の感覚が再び戻ってきている。すると沙織の声が耳に入ってきた。
「啓! 大丈夫!?」
他の二人の叫び声も聞き目を周りにやると、拓が自分の背中側に回り腕を必死に抱えていることが分かった。啓はずっと拓から体を支えられていたようだ。
啓は拓から離れ、おもむろに両手を見てみた。しかしどこも濡れておらず、どこも傷ついてはいなかった。すべて夢だったのだったみたいだ。 しかし体はなお熱く、不思議な感覚を帯びている。
「何があったの? ひどい夢でも見ていたみたいに叫んでたよ」
沙織が心配そうに啓に聞いた。呼吸も整っていないまま啓は自分を奮い立たせて答えた。
「ああ…どうだったっけ…そう、色んな景色を見たんだ…花を飲み込んだ後なんだけど…」
「景色? 一体どんな景色だったの?」
理恵が急き込んで聞いた。それに啓は答えようとしたが、不思議と何も言葉が出てこなかった。どんどん記憶が薄れていく。まだ脳裏に残っている景色を引き出そうとしても、水を掴むようにするすると落ちて消えていった。それよりも今は血液と共に全身を流れるこの奇妙な感覚に意識が向いていた。
「体が熱くなったんだ、沸騰したみたいに。すごく不思議な感覚がする」
啓が手首を反して熱く波打っている静脈を見た。すると沙織が小さく、しかし興奮した様子で言った。
「それって魔術を手に入れたってことじゃない…? 『神託』とかいうものを受け取れたんだよ、きっと」
沙織の言葉で啓ははっとした。自分は今魔術を授かったのか? それなら今なら何か特別なことができるのか?
答えを求める様に啓は紙飛行機に目をやったが機体には何も書かれていなかった。何も教えてくれないのなら、今は自分で何かやってみるしかない。
「啓! 力を入れて念じてみるのよ!」
理恵がひとつ提案した。理恵が柄にもなく啓を急き立てて言った。啓はそれに小さく頷く。さっき紙飛行機は花の名前自体が呪文になると言っていた。その名を口にして念じれば、電気が操れるのだろうか。啓はゆっくりと目の前に右手を伸ばし手のひらを前に向けた。目を閉じて深呼吸をし、そして花の名を呟いた。
「ラベンダー」
何か劇的な展開を期待した。が、何も起こらなかった。啓はただ目の前に手を伸ばして、花の名前を呟くという滑稽な姿を見せただけだった。
「あ、あれ、何も起きない…どうして」啓が顔を赤らめながら手のひらを見た。心なしか手も恥ずかしそうに赤らんでいる。すると拓が何か閃いたような顔であっと声を上げた。
「確か紙飛行機は花の真の名前が、呪文になるって言ってた。真だよ、真!」
「真? 花に真の名前があるの?」沙織がきょとんとし拓に聞いた。すると神妙な顔つきになった拓が答えた。
「真と言えるかどうか分からないけど、花には『学名』というものがあるんだ。世界共通で使われているその花の名前のこと。ラベンダーなら―――『ラバンデュラ』。もしかしたら、呪文はそれなんじゃないかな」
拓はまるでとっておきの秘密を打ち明ける様に囁いた。とっておきの情報を聞いた啓は鋭い目つきで前に再び向いた。
腕を前に突き出し全ての神経を手のひらに集中させると、思いを念じた。そして花の名前を小さく、しかしはっきりと言った。
「ラバンデュラ」
次の瞬間体中を漂っていた不思議な感覚がすべて手のひらに集中し、ひどくやけどしたように熱くなった。それとほぼ同時にそこから青色の稲妻が反動とともにものすごいスピードで飛び出し―――目で追う余裕もなく―――
ドォォォォォン!!!
啓が出した稲妻は凄まじい音とともにその先にあった樹木に直撃した。襲われた樹木は折れて横転し、大きく炎上した。まるで雷が横から落ちてきたような光景だ。その様子を見て、慌てて啓は右手を左手で掴んで引っ込めた。…今しがた一体何が起こったんだ? 震える右手をぱっと見てみると、まだ線香花火のように電気がバチバチと周りでうごめいていた。
「ひ、啓! 今のって、稲妻じゃない! 信じられない!」
理恵が驚きで口を覆ったまま啓に叫んだ。拓も沙織も今の魔術に数歩退いて、驚愕し泡を吹きだしそうな様子だ。拓が首を横に振りながら何かを言っている。
「魔法だ…信じられない…手から…嘘だよ…魔術師だ…信じられない…」
しかし四人の中でもいちばん、啓が動揺していた。たった今何が起こったのか頭の中で整理することが必要だった。
つい先ほど右手をのばして花の名を呟き、電気を操れるように念じた。力を込めて力いっぱい念じた。すると電気の怪物が自分の体内から這い出るかのような強い感触を腕から掌、そして指先へと感じ、同時に稲妻が噴き出した。すごく強い衝撃だった。強い反動を感じて体ごと後ろに倒れそうになったほどだ。その放った威力も相当だったようで、いまだに樹木は大きな炎と共に煌々と燃えている。四人はその光景を離れて眺めていた。
「本当に魔術が使えるんだ、俺。信じられる?」
啓は三人に向かって言った。そしてゆっくりと手のひらを上に向け、花の名を再び口にした。今度はより弱く、制御して念じた。
「ラバンデュラ」
ビリビリと音を立てながら、稲妻は優雅に空高くへと飛び上がった。そして光の筋が星のように瞬きながら雲の中に消えた。その様子を見て、三人は歓声を上げた。
「す、すごい、啓! もう使いこなせてるじゃん!」
沙織は興奮した様子で言った。啓は照れくさそうに笑う。
啓の心の中で恐怖が薄れていき、興奮と希望の気持ちが膨れ上がってきた。最初はその迫力に圧倒され恐怖すら感じたが、今こうしてコントロールすることができることを知り安心した。なにより、たった今魔術師になった、そんな事実を啓は受け止めきれず、そんな事実が啓を最上級に興奮させていた。これから何をしよう、どんなことがきるだろう。電気を操るなんて、一体世界中で何人ができるだろうか。いや、きっと誰もできない。
「次、僕が行きたい! 僕も魔術をもらいたいよ! いい?」
啓の満足そうな顔を見て拓が声を上げた。拓の遊具の順番待ちをする小さな子どもの様なお願いには、三人も首を縦に頷くしかなかった。すると拓の表情は一変、口をきゅっと結ぶと、強張った表情とともに紙飛行機へと近づいた。次に行くと自分から言い出したものの、やはり少し緊張しているようだ。
「思いをしっかりと念じるんだ。手のひらが熱くなるはずだから」
少し離れた場所から叫ぶ啓の言葉を聞いて拓は小さく頷く。そして手を添えた後紙飛行機に念じ始めた。手に汗を握る沈黙の時間が流れる。きっと花屋になるとか、そんな夢を念じているのだろう。しかし花屋からどんな魔術が貰えるのだろう? 啓が念じた思案していると先ほど啓が手を翳した時と同じように、拓の指の隙間から強い光線が差し出してきた。と同時に拓の足元に蔦が現れて、その脚に絡まり付き始める。横から見ると、まるで蛇が地面から這い出て肉を貪ろうと纏わりついているみたいだ。啓たち三人は狂気じみた光景に思わず後退する。
「ぎゃあ!」それに気づくと拓は気味の悪さに、がらがらに掠れた声を裏返して叫んだ。一瞬紙飛行機に翳した手を離しそうになり、啓が本能的に制止する。「離すな!」
すると拓は、しわくちゃにした紙を更に足で踏みつけた様な必死の泣き顔をゆっくりと三人に向けた。つい数分前まであんなに心を躍らせていた者人物と到底同一人物であるとは到底思えない。なんとも情けない顔だ。
「なんなのこの蔓! 一体どうなってんの」
「絶対手を離しちゃだめだよ! 怖がらないで」と沙織は叫んでなだめるが、中々無理なお願いであると啓は感じた。今や拓に纏わりつく蔓は、腿を越えて腰にまで到達している。このまま巻かれ続ければ、成れの果ては現代版のミイラだ。
「離したいよ! 手も熱いんだけど」拓が涙声で喚く。そんな中辺りに浮かぶ光たちは目を劈くほどの眩いものへと強まっていた。もし拓が啓と同じ順路を辿っているのだとすれば、次に待ち受けるのは―――
「え、まって。なにこれ」
狼狽え始めた拓の姿を見て、啓の予想は的中した。
「何か手に触れてるんだけど、なに」
拓は嫌悪を全面に押し出した声色で叫んだ。理惠が困惑して啓に訊く。「何、触れてるってどういうこと?」
「手を翳して暫くすると、生き物に触れるみたいな感覚になるんだ。そのまま体内に入ってくるみたいな―――拓! 大丈夫だから我慢しろ!」
そう宥めるが、啓自身興奮と動揺が混濁して、自分が一体何を叫んでいるのかもよく分からなかった。
「なにこれ、気持ち悪いんだけど!」
拓の絶叫で、啓は指先に残る不可思議な感覚をありありと思い出していた。確か、その鼓動は皮膚から肉へと細胞を蝕むように入り込むのだった。
「むり、むりむりむり」
その命の様なものはインクが染みこむ様に這入り込む。それは肉から血管へと―――
「ひゃあ!!」
拓は限界を迎え、遂にその手を離してしまった。と同時に彼に纏わりついていた蔓は魔法が溶けた様に一瞬で千切れ落ち、煌々と放たれていた閃光は一瞬で消え失せた。
「「あああ!!!」」
鼠の様な必死の逃げ足で紙飛行機から離れた拓に、三人が近づいて次々に責め立てる。「どうして離したの!」「きっともう少しだったわよ…」「光が弱くなるタイミングだって言っただろ!」
「な、なにが起こった―――?」腰を捻って座りこむ拓が、情けを乞う円らな瞳を潤わせて呟く。「僕、しくじった? だって怖かったから―――」
「で、でも見て!」
沙織が機体を覗いて、歓喜の声を上げた。「機体に花が描かれてるよ!」
「うそ!」と声を上げた他の三人も機体に駆け付けて、その胸を撫でおろした。
「なんだ! 光が弱まってなかったから受け取れてないかと思ったよ」
啓がそう言うと、拓が息を整わせながら言った。
「最後の最後に何かに触れる感触があったんだ。それがどんどん体に入り込んでくみたいで―――反射的に離しちゃった。本当に怖かった」
拓はこの時点で相当恐怖に震えあがっていたので、啓はこの後花を飲んだ時にさらなる地獄が待っているなんてことは、到底言えなかった。
「機体には何が書かれているのかしら」理恵が急かして聞いた。
拓がまだ涙目の中、皆は目を移した。すると目を大きく開けた拓の口から「わあ」と吐息のような声が出た。そこには見覚えのある、とても小さく可愛らしい花の絵と共に、斜体で文言が書かれている。
領域=制御 植物を操る 家系花=勿忘草
その文字を見ると四人はほころんだ顔を見合わせ叫び声を上げた。「やっぱり!」
「植物を操るだって! 拓の夢にぴったりじゃん」
沙織が納得した顔で拓に言った。拓は誇らしげな表情をしている。
「家系花は勿忘草…うん、やっぱりこの花な気がしてた」拓はそういうと嬉々としてポケットから、一緒に持ってきたドライフラワーの勿忘草を取り出した。しかし表情がぱっと陰った。
「家系花って、ドライフラワーでも有効なのかな?」
一抹の不安がよぎり拓の眉間に皺が寄る。しかし啓が素早く答えた。
「どっちにしろ食ったら分かることだよ。とりあえず口に入れてみるんだ」
啓は辛い場面をさっさと終わらせてあげたい気持ちで言ったが、拓含む他の三人はアトラクションの順番待ちが来た時のようなわくわくした顔で頷いた。
「なんだかこれを食べるのはもったいない気がするけど…魔術が使えるようになるなら」そう言って拓は勢いよく勿忘草を口に入れた。しかし一瞬にして顔をしかめた。
「うわあ…これは…」厭悪しながら何故か不必要に咀嚼をする拓へ、沙織がいたずらに煽る。「おいしい?」
「うん…とっても…」そう唸ると、まるで喉に棘が通るかのように上がり切った肩と力んだ腕を振り上げて飲み込んだ。
「わあ、ほんとに―――」しかし拓が何を言いかけたその瞬間、突然銃で撃たれた様に拓の体が仰け反った。啓が体を支える間もない程、ものすごい勢いで地面へと倒れ込む。
「拓!」ほぼ同時に三人は叫んだ。すると驚くべきことに、体を地面に強打した拓はそのまま海老反りの身体を固い砂地に自ら何度も打ちつけたのだ。苦しそうに何かを呟きながら自傷し続ける。
「ああ!」突然声を上げたかと思えば銃で撃たれた様に体を右往左往させ、四肢を痙攣させた。その異様な光景に他の三人、特に啓は命の縮む思いに苛まれる。一体自分の身体に何が起こってしまったのだろう! こんな反応を起こすなんて自分の身体に一体何が―――
三人が手も足も出ない中十秒が経ち、暴れていた拓は突然目を開けた。
「拓!?」その瞬間、三人は拓に向かって叫ぶ。目を覚ました拓は地面へ仰向けに寝転んだまま、呆然と周りを見渡した。まるで突然異世界に召喚された様な表情だ。身体中砂だらけになった姿を放心状態で眺める。そしてしばらくすると、三人に向かって優雅に言った。
「グッドモーニング」
突然の挨拶に不意を突かれて、三人はただ困惑した表情でお互いに顔を見合わせた。狐につままれた気分の三人も構わずに、拓は自分の身体を起こすと頭を掻いて冴えない表情で訊く。
「一体何がどうなったの? 僕の服をこんなに汚したのは誰?」
「自分でやったのよ。それも物凄い暴れようで。一体今何を見ていたの?」理惠は余りの衝撃的な光景を見た直後だったので、怯えながら訊いた。しかし拓の答えはその表情と同じくらいパッとしないものだった。
「何も覚えてない…あ、待って! 口の中がいつもより苦い気がする。なんでだろ。何か思い出せるかも」
「それ、さっき食べたドライフラワーじゃない?」
沙織の指摘で萎れた拓に、理惠が割り込んで訊いた。
「何でもいいけど―――啓の結果から推察するに拓は今、魔法が使えるってことよね?」
理惠は魔法を見たい衝動を抑えきれない様子で、皆に確認した。
「…やってみる」拓はそう言って三人に小さく頷き、おへその高さに両手を上向きに差し出した。そして、花の名を優しく囁いた。
「花の名前は…ミオソティス・アルペストリス」
すると金色の光と共に拓の手の平の上に、ピンと佇んだ綺麗な花がきらきらと根本から現れた。青色の花弁に黄色の花心、勿忘草だ。それを見て四人は生まれたばかりの赤ちゃんを見たように笑顔がこぼれた。
「すごい、拓! すごくきれい!」
しかし沙織が歓声を上げたのも束の間、拓は突然何か決心したようにニヤッと笑った。自分が何ができるのか確信した様子だ。それとほぼ同時に力を込めて腕を下から上へ振り上げる動作をした。すると地面がゴゴゴと鈍い音を立てながら揺れ始める。何かが迫ってきているようにその音はどんどんと大きくなってきた。
「ちょ、ちょっと、拓、何したの…?」
理恵が声を震わせて聞いた。するとその直後、ドーンと大きな音と共に何かが地面を割ってものすごいスピードと共に飛び出してきた。啓、沙織、理恵はその衝撃に叫び声をあげ、思わず後退した。すると上から素っ頓狂な叫び声が聞こえてきて、啓は天を見上げた。
地面から飛び出してきたものは太い樹木だった。今も伸び続けていて十メートルほどの高さになっている。その上にぶら下がってハイになり叫んでいるのは、木の召喚主である拓だった。
「ひゃあああっっっほい!!!!」
興奮に恐怖が混ざり合っているのか、叫び声もきれいに出せておらず声が裏返っている。三人は驚いて上を見上げたまま唖然とした。
「ちょ、ちょっとびっくりするじゃない! 死ぬところだったわよ!」
理恵は怒りで手を口の前に添えて叫んだ。確かに、間一髪大けがをするところだったが、啓は拓の思いもよらない行動に驚愕し思わず笑い声が出てしまった。沙織も啓と顔を見合わせ腹を抱きながら笑っている。
「拓ってば、びっくりするんだから! ほんとにすごい!」
すると木の幹はゴーっと音を立てながら徐々に根元から地面へと戻っていき、拓が地上へと下りてきた。「拓―!」と歓声を上げながら三人が拓に近づいたその時、着地が甘かったせいで拓は地面へと転げ落ちてしまった。
「拓! 大丈夫?」啓がそう叫び他の二人も駆け寄ると、中々派手に着地をしてしまったようだ。拓の腕から血が出ている。砂地に皮膚を擦りむいたようで、痛々しい光景だ。しかも、魔術を必要以上に使ったからか、とても息が上がっている。はあはあと言いながら拓は「いてー」と唸り声をあげていた。理恵が拓を窘める。
「調子に乗るからよ! あんな急に、ジャックと豆の木みたいなことを…絆創膏、誰か持ってない?」
「絆創膏より先に、傷口を水で洗ってきたほうがいいよ!」
沙織の助言を聞き、拓は弱弱しく頷き公園の水道まで駆けだした。一分ほど待っていると拓はそそくさと戻ってきた。
「ごめんごめん―――最後にやっておきたいことがあったんだ。見てて」
そう言うと妙に優美な様で掌を前に突き出した。その掌が向く方向は、今も煌々と燃え続けている木だ。啓たちが見当も付かずに顔を見合わせていると、拓は再び呪文を唱えた。「ミオソティス・アルペストリス」
すると燃えている木は、なんと、拓の呪文で地鳴りのような音と共に地面へと吸い込まれている。まるで時を巻き戻しているかのような光景だ。メキメキと音を立てながらゆっくりと、地面を鈍く揺らしながら消えてゆく。完全に木が地面へと隠れた頃、拓は三人へと振り返って気軽に言った。
「汚名返上!」
三人は完全に感心した様にお互いの顔を見合わせた。やはり拓の持つ魔術はすごい。全員が拓への認識を改め直そうとしていた。しかし何となく、理惠の笑みは「まだまだ返上する汚名は残ってるわよ」と言っている風にも見えた。すると拓は何かを思い出した様に、パッと顔色を変える。
「神託の儀式の途中だったじゃん! 次は誰だったっけ? 結構時間取っちゃったよね? さっき『魔術時』がなんとかって言ってたから」
魔術時という単語を聞いて、啓は紙飛行機が最初に言っていたことを思い出した。「魔術時は儚く、且つ有限である。」もう空はオレンジに染まる部分が少なくなってきており空全体が暗くなっていた。魔術時が一体何なのか、その終わりの時間は近づいているのか分からないが、とにかくその言葉は四人を急き立てた。
「次は沙織だよね。早めに始めてしまおう」
啓は沙織に向かって真剣に言い、沙織はうなずいてそのまま紙飛行機のそばまで近寄った。そして心を整えるためか深く深呼吸するのが聞こえ、次に機体へ手を添えた。沙織の頭の中を覗くことはできないが、それでも沙織の思いがひしひしと伝わってくるようだった。きっと看護師になりたいとか、看護学校に行きたいことを念じているのだろう。すると拓や啓の時より早く機体は金色に光りだした。そして例の如く、地面から蔓が這い出て沙織の足へと纏わりつく。四人はあっと声を上げそのまま張り付いたようにその光景を見つめた。
「沙織! 大丈夫?」理恵が沙織に向かって心配そうに叫ぶと沙織はこちらに向かってにこりとほほ笑んだ。拓の反応とは打って変わって何にも怖気づいた様子は無く、ピンとした姿勢で機体に向き合っている。なんの事件も起こることなく次第に光は弱まっていき、そのまま沙織は光が完全になくなるまで手を添えていた。その幻想的な体験に浸っているかのようだった。そのまま三人は沙織のもとへ駆け寄り、目当ての物を見たがった。
「沙織! 機体に何か現れた? 見せて見せて!」
拓が駄々をこねる様に沙織にお願いすると、沙織はゆっくりと翳していた手を離した。
領域=制御 身体の傷を癒す 家系花=アマリリス」
三人はそこに紡がれた言の葉を見て歓声を上げた。沙織は安心したのか胸を撫で下ろしていた。
「やっぱり、沙織の夢通りだね! さすが、看護師だ!」
拓が沙織の肩を叩く仕草をすると、沙織が訂正した。
「まだ看護師ではないけど…だけど、看護にかかわることじゃなかったらどうしようって思ってたからよかった。というか神託の紙を無事貰えて安心」
沙織の今の言葉を聞き理恵の表情が陰った。啓が神託をもらった時よりもずいぶんと堅い顔つきになっている。
「しかもアマリリスなんて、これまたすごい偶然。今さっき拓にもらったばかりなんだから」
沙織はそう言うとリュックと一緒に置いてあった小さい鉢からアマリリスを摘み取った。
「オーケー、じゃあ食べてみるね。ふらついたら目が覚めるまで体を支えててね!」
沙織が笑顔でそう言うと三人はしっかりと頷いた。そして沙織は何もためらいなく花を口に入れ、それを飲み込んだ。
するとほぼ一瞬で沙織は意識がなくなり、そのまま地面に倒れそうになった。一番近かった理恵が必死に沙織の体をつかみ取り、なんとか間一髪支えることができた。拓や自分がそうなったように、沙織が苦しんだり藻掻いたりする姿を見ることになるだろうと考えていたため、啓はそれがとても怖かった。しかし数秒たっても沙織は足掻いたり、唸り声を上げたりすることはなく、ただ眠り込んでいるかのように静かに目を閉じていた。
「あら、沙織は何もおかしなことにならないのね」理恵が予想外のことに驚いて言うと拓が啓に向かって先ほどのことをいじり始めた。
「啓なんてすごかったんだよ! 五歳児が熱出したみたいな調子で呻いてばかりだったんだから!」
拓の発言にムッとしたので啓は勢いに任せて言った。
「拓なんてもっとひどかったよな、理恵? 俺らの前で、腰振りダンスなんてはじめちゃってさ」
「え? 腰振りダンス? それって本当―――」
拓が焦って言った瞬間、沙織はぱっと目を覚ました。
「沙織!」四人は一斉に叫んだ。すると、沙織は支えてもらっていた理恵から離れながら、声を震わせて言った。
「ああ、本当に怖かった。走馬灯みたいに場面が切り替わって…もう二度と体験したくない」
沙織は元気が何割もそがれた様子で話した。そして理恵に向かって話し始めた。
「でもごめん、理恵。もう今の時点で何を見てたのか忘れちゃった」
それを聞き理恵は半ば憤慨した様子で言った。
「もう何なの! みんなして! あたしが見ることになったら、絶対頭に焼きつけて戻ってくるわ!」
「それはどうかな…なんせ一瞬で忘れるんだから。それより、沙織、きっと今ならもう魔術が使えるんじゃない?」
拓は沙織に言うと、沙織は賢者のように勇ましく頷いた。
「拓、アマリリスの学名は何? アマリリスじゃないよね?」
「うん、少し長いけど、『ヒッペアストラム』だよ」
沙織は拓の言葉を聞き、花の名前を小さく復唱した。そして目の前に手を向け、はっきりと言った。
「ヒッペアストラム」
すると金色の光が沙織の手の翳したあたりに漂い始めた。小さなオーロラを生み出しているかのようだ。三人は思わず感嘆の声が漏れた。すると沙織は拓の方にくるりと向き元気よく言った。
「拓! あたしに腕を差し出してみて」
拓は不意を突かれて驚きながら、片腕を差し出した。そこには先ほど樹木から転げ落ちた時にできた傷が赤く残っていた。血は止まってても、目を背けたくなるほどひどく擦りむいていた。すると沙織はその腕をさっと掴み、呆然とした拓に言った。「いい? いくよ?」
するとそのまま手を腕に翳して、傷に沿うように手のひらを動かした。すると啓、理恵、拓は起こったことに思わず息をのんだ。手を翳したあたりから腕の傷が次第に、インクが混ざりあうようにするすると消えていた。とても美しく、見とれてしまう光景だ。みるみると腕の凹凸は平らになり、赤色は肌色と同化して消えていった。傷が完全になくなった時、沙織以外の三人は歓声と共に拍手を送った。
「すごい! 沙織! 傷が本当に癒えてしまったわ! まさに魔法ね」
理恵の言葉に沙織は鼻の穴を膨らませて自慢げな顔をしたが、照れているのか少し耳を赤くしていた。
「沙織、本当にありがとう…なんていえばいいのか…あんまり顔に出してなかったけど、さっきの傷、ずっと死ぬほど痛かったから…」
拓は驚きであまり言葉が出てこずとも、なんとかお礼を言っていた。
「あたしにぴったりの魔術だね。こんなのが使えるなんて夢みたい…一体この紙飛行機は何者なんだろ」
沙織は両手をぼーっと見つめがら言った。するとスイッチを切り替えたようにさっと理恵に向き直した。
「さあ、最後は理恵だよ! みんなで一緒に魔術をもらうんだよ!」
沙織は士気を上げるために元気に言ったが、反対に理恵は曇った表情をしている。
「私はやっぱりいいかも…なんてのはおかしいわよね。でもみんなみたいに魔術をもらえる気がしないの。どうしようかしら…」
理恵はもじもじとしながら言ったが、啓はそれに焦った。きっともう時間がない。
「とりあえずやってみるんだ。やらない後悔よりやって後悔!」
啓が催促すると理恵は渋々頷き、ゆっくりと紙飛行機に近づいた。目の前に立ち止まった時に理恵はこちらを振り向いたが、小さい子が初めておつかいに行くときに見せるような不安げな表情だった。そしておもむろに機体に手を翳し、念じ始めた。啓は理恵が何を念じているのか、拓や沙織と違い全く想像がつかなかった。あまり夢を語らなかったので、その内容が気になった。もしかしたら念じているように見せかけているだけで、実際は何も思い浮かばず理恵はただ瞑想しているだけかもしれない。実際に金色の光は全く姿を見せず、見せる様子もないので啓は焦った。もし理恵が神託をもらうことができなければ、自分を含め他の三人はちゃかり魔術を手にしておいて、どう慰めればいいのか全く分からない。色々と啓が考えを巡らせていると、すでに数十秒が経過していた。すると、理恵の腕がもぞっと動いた。あきらめて離すつもりかもしれない。すると横から大声が聞こえた。
「だめ! まだそのままにして! 動いちゃダメ!」
沙織はあきらめたくないようだ。こぶしに汗を握らせてめいいっぱい叫んだ。もうすでに空は暗くなっており、夕日に染まるオレンジ色はほとんどなくなっていた。もう無理かもしれない。一人だけ魔術を手にすることはできないのだろうか? 啓があきらめかけたその時、さっと弱弱しく機体が光を吐き出すのが見えた。
「光だ! いいぞ、その調子!」啓は思わず荒い声が出た。
理恵は踏ん張っているような顔で念じ続けた。すると光はみるみる強くなっていきあたりが金色に包まれた。呼ばれた様に蔓が顔を出し理惠へと纏わりつく。最初はあれほど時間がかかってほんの弱い光だったのに、今や四人の中でもいちばん強くなっている。あまりにまぶしいので啓は目を顔を覆って目を薄目で開かなければならなかった。理恵の姿はあまり見えなくなっている。もう紙は受け取っただろうか? そう考えていると光は次第に弱まっていき、理恵の姿が見えてきた。沙織と同じく直立不動の姿勢で、手には何かを握っている。その姿を見て啓含む三人は理恵にすぐさま駆け寄った。
「理恵! 神託はもらえた?」
沙織が恐る恐る聞いた。すると、理恵は僅かに微笑んで、翳していた手を機体から離した。そこに描かれた花の姿に一同はわっと声を上げる。
「神託だ! やったじゃん! 絶対もらえるって思ってたもんね。理恵だけもらえないなんて理不尽すぎるもん」拓が聞き取れないほど早口で言った。しかし啓はもう神託の内容に目を向けていた。そこにはまだ、四人の心を不安にさせる事がある。
「領域=制御 家系花=カモミール」
「なんの魔術が操れるのか、書いてないね」
沙織が物思わしげに呟くと、理恵は眉間に皺を寄せて言った。
「本当に魔術が使えるのかしら…それに、カモミールですって。さっき拓からもらったばかりだわ。家系花は一体どういう基準で選ばれているのかしらね。私の苗字は藤崎だから、もしかしたら藤の花かと思ったんだけど…」
そう言いながら、理恵はカモミールの咲いた小さい鉢を取った。二つに枝分かれている花の内の一つを摘むと、前に向かって言った。
「私は準備万端よ。何を見たか、全部覚えて戻ってくるから」
理恵は自信満々に意気込んだが、それを聞いた他の三人はやれやれと呆れた。
そして理恵は勢いよく花を口に投げ込み、少し顔をしかませながら飲み込んだ。
すると、予想通り理恵は一瞬で眠りに落ちたように地面に倒れそうになった。沙織は事前に身構えていたのでしっかりと掴むことができた。すると、理恵は拓と同じように夢にうなされ始めた。額に汗をかき始めて、苦しそうに沙織の腕を掴んでいる。いつも冷静沈着な理恵がこんな姿になるところを初めてみるので、啓は恐怖すら感じた。一体自分たちはどんな景色を見てこの魔術を手にしたのだろう。ここまで苦しんで、一体自分たちの体にどんなことが起こったのだろう。理恵の悶絶を見ているとそんな不安と疑問が啓の心に押し寄せてきた。すると理恵はぱっと目を覚ました。そしてほぼ同時に口を開いた。
「最後は、み―――」何かを言いかけたが、言葉はそこで途切れた。
「あれ、なんだっけ…? み…? みって何…? ああもう!」
理恵は理恵から身をほどきながら、頭を抱えて言った。どうやらすぐに見たものを口に出して、思い出す作戦だったらしい。しかしうまくはいっていない。
「本当にすぐに忘れてしまったわ。悔しい…悔しすぎる」
理恵は自身への怒りで歯ぎしりすると、拓は「やっぱりね」と肩をすくめて言った。
「まるでそこだけ記憶が抜き取られているみたいだわ。もう一度思い出すことが許されていない、とかなのかしらね?」
理恵はこの不可思議な事象を分析しようと試みていた。
「とにかく! 理恵はもう今、魔術が使えるんだよ。どんなことができるの? 何かやってみせてよ」
沙織は待てずに理恵を催促した。すると理恵は少し迷った表情を浮かべた。
「何が起こるのかなんとなくわかるど…どんな魔術が使えるのか具体的にはわかってないの。啓、ちょっといい?」
「え、おれ?」
理恵はすぐ右にいた啓と向かい合い、否応なしに啓の胸のあたりに手を置いた。啓の心に一抹の不安がよぎった。実験台にされる。一体何が起こるのかわからないのに、なぜか理恵は平然としている。啓は焦った様子で言った。
「ちょ、いやだよおれ、何をするの? これ大丈夫?」
「ええ、きっと大丈夫よ。『心理』なんだから手から火花が飛び散ったりすることはないわ」
理恵は腹が立つほど冷静でいる。すると続けて理恵は拓に聞いた。
「カモミールの学名は―――」
「マトリカリア・レクティータ、だよ! これもちょっと長いけど…」
拓は聞かれるのを準備していたようですぐに元気よく答えた。すると理恵は「ありがとう」と言い、改めて啓に向き合った。手はずっと翳したままだった。そして一瞬目を閉じ、優しく息を吸って柔らかい声で呪文を唱えた。
「マトリカリア・レクティータ」
すると次の瞬間、非常に不思議なことが起こった。啓の意識が、啓自身の心に入りこんだのだ。人生で起こったいくつもの出来事と縁のある場所をまるで風になったように次々と通って旅をしていた。とても不思議だ。自分の体に実体はなく感覚もない。するとやがて一つの場所にたどり着いた。白いモルタルの家屋に紫の屋根のついたカーポート、自分の家だ。しかしその景色も実体が薄く、周りにもやがかかっている。次に啓の意識はドアも使わずにするすると壁を通り抜けて家に入っていった。するとリビングの奥にあるキッチンに一人の女性がいるのが見えた。見覚えのある後姿だ。長い髪の毛を淡いピンクのヘアゴムでくくり、シンクの前に立っている。その女性はくるりと振り返りこちらを見て啓に微笑みかけた。いつものかわり映えのない、啓を安心させるその笑顔。啓はその顔を見ると一気に心に安らぎと平穏が染み渡るのを感じた。しかしその瞬間も束の間、啓の意識はその場面から遠ざかっていった。彼女とリビングルームがどんどん小さくなっていく。ほかの記憶や場所もみるみる奥へ奥へと吸い込まれていった。やがてそれらがすべて一つの点になった時―――
「あ、啓! 目を覚ました!」
拓の上げた声が聞こえ、啓はピントが合わず目をパチパチとした。すると目の前に得意げな顔をした理恵が立っている。啓は元の公園に戻っていた。今何が起こったのだろう。自分が考える中で一番安心できる場所に意識の中で訪れたが、夢とは違いその様子をはっきりと心に映し出すことができた。先ほどまであんなに興奮と恐怖が啓の心を圧迫していたのに、今はそれらが嘘だったように消え去っている。かわりに心地よさと安心感が胸に広がっていた。だんだんと感覚が戻ってきたころ啓は理恵に聞いた。
「あー、理恵は全部見てたのかな? 俺が見ていたものを」
啓は現実に戻ると、急に恥ずかしくなってきた。高校生にもなって母親の笑顔を思い浮かべているのは、なかなか自慢できることではない。すると理恵が遠慮がちに言った。
「あー…うん、なんとなくね。まあ―――恥ずかしがることではないわ。一番馴染みがあって安心できる場所を見ていたんでしょ。…私がそうするように念じたの」
赤らめた顔の啓を見て気まずそうに言った。続けて理恵は顎に手を当て俯きながら下を見て話した。
「不思議ね。直前まで何の魔術を使えるのか知らなかったけど、花の名前を言って念じた時に何をすべきなのか一瞬で分かったの。人の心を操るように安心させる、それがあたしの魔術なんだわ」
啓の口から思わず感嘆の声が漏れた。すると、沙織が理惠へ訝しげに聞いた。
「でもそれって、理惠の夢に関係あるのかな? 理惠は将来の夢があまりないって言ってたよね。神託をもらうとき一体何を念じたの?」
沙織の質問に理惠は頭を上げて少し時間をかけながら答えた。
「そうね…紙飛行機は不時着してきたとき、最初にこんなことを言っていたわ。「人の心の深淵を侵すことを許したえへ」。きっと紙飛行機は私の心の深くまでを覗いたのよ。確かにこの魔術は、私のルーツであると言える気がするし、妙に納得するの。人を安心させる、そんな存在になりたいって心のどこかでずっと思っていたわ。まあすべて「気がする」なんだけどね」
理惠は後ろに手を組み、再び足元をちらちらと見ながら話した。そしてこれ以上多くは語らなかった。理惠は具体的な目標やなりたい姿はなくとも、軸となる信条は持っている。そして本人が気づかないところでも紙飛行機はその可能性を見抜くことができるのだろうと啓は考えた。すると拓が言いたくてうずうずしていたように声を突然上げた。
「でもさ! 正直よく分からないし、それに理惠の魔術ってそれだけなのかな? なんというか、神託をもらう時の光も一番眩しかったし時間もかかって魔術を手にしたのに、それだけ? どこか見掛け倒し感があるくない?」
啓は拓の角の立つ言い方にぎくりとしたが、確かに言っていることには共感できた。啓は電気を操り、理惠は体の傷を癒す。拓はあんな大木を操ることができたのに、理惠は心に安堵をもたらすだけだ。見かけ倒しと言えば見かけ倒しでもある。するとまたしても地面の方をちらちらと見ていた理惠がぱっと顔を上げ、怒りの形相を拓に向けた。
「あら、なんて言い方! 別にしょぼくて結構よ! 私の大事な魔術なんだから。こういうのは派手さとか面白さとかじゃないのよ!」理惠が分かったふうに反論した。腕を組みながら大きな声を出している。しかし目線は再び足元の方に向いていた。啓はこの言い争いがヒートアップしないうちにせき込んで言った。
「理惠、何か足もとが気になるの? さっきからよく見ているけど」
すると理惠はテンポが崩れたように言葉がつっかかりながら話した。
「え、ええ、そうなの。なんだか足もとに気配を感じるの。地面の下かしら…? みんなも感じるわよね?」理惠は期待して聞いた。しかし、
「え、なんにも感じないよ。気配なんてしないよね、みんな?」
沙織は抑揚のない声で答えた。「うん」と拓と啓も次々に答える。足元に気配? 理惠は一体なんの存在を感じているのだろう。啓が見る限りそこにはいつもの砂地が広がっているだけだ。しかもこの中で理惠だけがそれを感じ取っているのは奇妙だ。啓は見当がつかず、不意に飛行機に目を移した。すると気づかぬうちに新たな文が書かれているのが見えた
「見て! 紙飛行機が新たなメッセージを出してる!」
啓が元気よく指さしたので他の三人も機体に近づいて、何が記されているのかよく読んでいった。
「神託は無事にそなたらへ授けられた。次にそなたらに魔術師として守らねばならぬ掟を二つここに記す。」
「掟? 魔術師に掟があるの?」拓が声を裏返らせて言った。
「一つ、家系花の一部は肌身離さず所持すること。花とそなたらは魔力を共有しており、片方を無くして魔力は持てぬ。他の同種家系花に魔力を移すことは可能である。しかしその家系花を失うときは、それ即ち魔術を失うときである。」
紙飛行機はゆっくりと撫でるようなストロークで文を書いた。そして啓は最後の文を頭の中で反芻した。別のラベンダーに変えることができても失してしまえば力も失ってしまうということだろう。それなら絶対にこの花を落としたり無くしてはいけない。何かケースに入れておいた方がよさそうだと啓はひとりでに思った。
「二つ、魔術は鍛練が必要である。慣れぬうちに至難の魔術を使うと様々な傷や病を引き起こし、最悪は死に至る。先ずは短簡な魔術から始め、次第に複雑化せよ。」
死という単語が出てきて啓はドキリとした。最悪は死ぬ…? どういうことだろう? すると横から沙織が怯えた声で言った。
「これ、さっきの拓のことじゃん!」
沙織の鋭い指摘にびくりとし「え、なんのこと?」ととぼける拓に、理恵が続けて言った。
「急に大きな木を生やしたりするから、さっき慣れていなくて怪我を負ったんでしょう? しかも息もすごく上がってふらふらとしていたし。まだその程度の傷だったけど、もっと調子に乗っていたのなら最悪死んでいたかもしれない、そういうことを紙飛行機は伝えたいのよ」理恵は啓に冷たい視線を投げかけて言った。理惠の解説になんとか情報を飲み込めた。なんと恐ろしいことだろう。当の本人の拓は理恵の話を聞いて未だにぼーっとしているが、沙織も理惠も恐怖でこわばった顔をしている。魔術を手にしたからと言って図に乗るのは禁物だ。啓は練習を通して着実に腕を磨いていくことが必要なのだろうと考えた。
「これにて神託の儀式を終える。我らが飛び立つ前に、一つ」
視線を紙飛行機に戻した時、機体からすべての記された掟がさっと消えた。すると最初に見たマークが再び霧が晴れる様にゆっくりとそこに現れた。拓が即座に反応した。
「あ、最初に見たマークだよ! 不時着してきた時最初に現れたものだ」
「逆三角形の中に三角形…これ、一体なにを現しているんだろ?」
沙織がみんなに聞いた質問だったが、理恵にかき消された。
「待って! その下に何か文が書かれているわ。何かしら…?」
確かにそのマークの真下に小さく文が書かれ始めていた。紙飛行機があまりにゆっくりと焦らして書くので伝えるのを躊躇っているようにすら見えた。その傷を刻み込むように書かれている文を、啓たちは小さく一文字一文字声に出して読んでいった。
「闇の取り扱いに注意せよ」
四人の間に一瞬の間が空いた。吸い付くように何回も読んだ後、ほぼ同時に顔を見合わせた。
「闇の取り扱い? 闇って一体なんだ?」啓が他の三人に聞いた。ここにきて初めて出てくる単語に誰も見当がつかない様子だ。闇とは何なのか、この印と何か関係があるのか、それ以上の説明を紙飛行機はしてこない。しかし名前が名前なだけにどこか不安になる忠告だ。すると理恵がびくっとなるほど急に大きな声を出した。
「でもどこかで見たことがあるの、少し前に! このマーク…一体どこで見たのかしら…?」
「どこかで見たことがある? 本当に?」啓は少し驚いて繰り返し聞いた。たった今空から落ちてきた紙飛行機に書かれた印を、すでに見たことがあるとはにわかには信じがたい。理惠は何とか思い出そうと、手を顎に当て首をかしげながら深く考えていた。
「でも全然思い出せないの…どこで見たのかし―――」
しかしそこで言葉は途切れた。なんの前触れもなく、最初に聞いたあの不協和音が耳を劈くほどの音量で鳴ったからだ。ほぼ同時に四人はびくっとなり耳をできる限り手で密閉した。今も心を不安にさせるその音はサイレンのように絶え間なく鳴り続ける。反射的に閉じた目を開けると目の前で拓が紙飛行機に向かって何か怒鳴っている。急なサプライズに怒り心頭で罵詈雑言を放っているようだ。すると次第に風も強くなっていき黒い霧が辺りに立ち込めてきた。最初に見たものと近い光景だ。どうやら紙飛行機はそろそろ旅立つようだ。紙飛行機に目をやったその時、機体がふわりと数センチほど宙に浮いたのが見えた。重々しく、しかし優雅に浮き、その衝撃で今吹き荒れる暴風とは別の風を機体から感じた。耳を塞いだまま四人は数歩後ずさりし、他になすすべなく互いに顔を見合わせた。その飛び立つ姿を見ようとよろつきながらみなが踏ん張って立っている。しかし風や砂があまりにも強く吹き荒れて啓たちを襲ってきたので、四人は倒れそうになりそのままその場にしゃがみこんでしまった。啓は最後にその飛行機の姿を目に映したくて、何とか耳を塞いだまま薄目をこじ開けた。するとその時、機体が啓たちに送る最後の文を書いているのが目に入った。あまり大きくない文字なので、高く飛び上がっていく機体に目を凝らさなければならなかった。この世の終わりかのような空間の中、恐怖にさいなまれながら何とか啓はできる限り近づいて解読しようとした。
「―――術を駆使し、星を救いたまえ」
しかし読み終えぬ内、紙飛行機はビュンとものすごいスピードで大空に飛び出した。啓たちはその衝撃で完全に地面に倒れこんだ。目で追う余裕もなく紙飛行機は大空から姿が消えてしまった。あまりに突然で、あまりに衝撃的な紙飛行機の別れだった。
啓は状況もつかめないまま、ふらふらと立ち上がった。次第に風は止んでいき、黒い霧はきれいさっぱりなくなっていた。またもや砂が目や口に入ってしまい、啓は小さく咳をしながら目をこすった。その目を開けたその時、再び心臓が飛び上がった。
公園に、大通りに人が戻っていたのだ。もう遅いので公園には親子が一組いるだけだが、大通りにはいつも通り多くの車が走っており人通りも多い。それに、まるで理想郷の様に青々と生い茂っていた花の姿は、今はどこにも見当たらない。全くいつも通りの公園の姿に戻っていた。生垣の向こう側では自分たちと同い年くらいの学生が他愛もない話をしながら群れをなして歩いている。今しがたここで天地も揺るがすほどの出来事が繰り広げられていたのに、そんなことはなかったかのようにいつも通りの日常が続いていた。他の三人も地面からのそのそと起き上がった。その時、近くから幼い声が聞こえた。
「ねー、今そこのお兄さんたち、急に現れたよ。そこに、パって」
公園にいた小さい子がこちらを指さしながらその子の母親に言っていた。言われた母親は困惑している。こちらに申し訳なさそうに会釈しながらその子に向かって言った。「何言っているの? そろそろ帰らないといい加減に―――」
そのままその子の腕を引っ張り、一緒に公園から出ていった。
「今のって…」沙織が言いかけたが衝撃のあまり次の言葉が見つからないようだ。
他の三人も、ただ顔を見つめ合った。状況の説明もつかず、誰も何も言えず、四人の間に沈黙が流れた。あたりには大通りから聞こえる車の滑走の音や、公園の草木から奏でられているコオロギの歌声が響いている。冷たい風が肌を掠め、啓は無意識に天を見上げた。すると街灯以外にも雲一つない空の中で月が煌々と光っているのが見えた。その淡い青色の光が街全体を鈍く照らしている。
その日は満月の夜だった。




