判決
判決
男は殺人事件の被告人だった。
裁判員である彼は男をじっと見つめていた。
これといって特徴のない男だ、と彼は思う。
中肉中背。年齢は四十二歳。会社員。元、だが。逮捕後、勤めていた会社をクビになっている。会計の資格を持っていて、勤務態度はまじめだった。結婚して八年。子どもはいない。妻は同い年。その妻を殺害したというのが、男にかけられている容疑だった。
証拠は揃っていた。
男が犯人であることはわかりきっている。
裁判員の評議でも、これは冤罪ではないか、という意見は一度も出てこなかった。
もちろん過失でもない。男は殺意を持って妻の腹を刺した。何度も。犯行現場は自宅であり、男は凶器をしっかり保管して警察を待っていた。通報したのは男自身だった。
冤罪の余地はなく、過失ではない故意の殺人である、という前提で評議がはじまったが、どれくらいの罪にするべきか、というところでは意見が分かれた。
というのも──評議に参加した裁判官も、こんな事例は扱ったことがないと言っていたが──逮捕後、男は奇妙なことを言い出したのだ。
「わたしは妻を殺してはいません」
容疑の否認、だった。
しかし事件直後には、男は自分で警察に通報している。殺人事件です、と。その点だけを考えれば、男にはある種の反省があるようにも見える。犯した罪を認識し、向き合おうとする態度、だ。しかしその後、まったくの否認に転じたということは、自分が犯した罪を認めず、反省もしない、ということだった。
これをどう扱うべきか、というところで裁判員の意見が分かれた。
自分から通報した点を情状酌量に入れてもいいのではないか、という意見もあったし、しかし逮捕後は否認しているのだから情状酌量すべきではないという意見もあった。
彼はどちらかといえば、情状酌量すべきではないと思っていた。
被告人が全面否認に転じても、事件の構造は揺るがない。自宅にあった包丁が凶器なのはわかっているし、その凶器には男の指紋があり、男は返り値を浴びて、警察がくるまでじっと立っていた。周囲の防犯カメラなどを確認しても男以外に犯人がいるとは考えられない。
だれがどう見ても、男が妻を殺したのだ。
いまさら否認したところで刑が軽くなるはずもないし、ましてや無罪になどなるわけがない。
なのに男は逮捕されたから一度も自分の犯行を認めなかった。
裁判員のなかで意見をまとめましょう、ということになって、彼は情状酌量の余地なしを主張した。ほかの裁判員もその意見にまとまった。
そして今日、裁判で判決が出る。
彼は男を見た。
これといって特徴のない男。自分の罪を認めない男。自分が認めなくとも、社会は男の罪を認める。
情状酌量の余地なし。禁錮十八年。無警戒の妻を執拗に刺し、殺害した罪。
論告求刑も終わり、あとは裁判長からの判決を待つばかりになったとき、裁判長が男に言った。
「なにか言いたいことはありますか?」
それまでうつむいていた男は顔を上げ、こくりとうなずいた。
「わたしは妻を殺していません」
まただ、と彼は呆れる。それしか口にしないと頑なに決めているような男の態度だった。
評議の資料によると、警察のほうで精神鑑定が要求されたらしい。結果は責任能力あり。男は正気だ、ということ。
「わたしは妻を殺してはいません」
もう一度繰り返し、裁判長がもういいと遮ろうとしたとき、男はべつの言葉を発した。
「妻はもう殺されていたのです。わたしは、妻を殺したものを、殺したのです」
なにか、声にならないざわめきのようなものが部屋のなかを通り過ぎたように彼は感じた。
部屋のなかには裁判官、被告人、弁護士、そして傍聴人もいる。その全員が、男の言葉を一瞬理解できなかった。
「奥さんを殺したものを、殺したとは?」冷静な口調の裁判長だった。
「妻はもう殺されていました。わたしはそれに気づいたんです。だから、妻の皮を被ったものを殺した。そいつが妻を殺し、妻の皮をかぶっていたにちがいないのですから」
──これで、責任能力あり、なのか?
彼は疑問に思う。精神鑑定の結果はおそらく正しいだろう。ということは、男は、こういう形で無罪を勝ち取ろうとしているのだ。わざと狂ったようなことを言って、自分は異常なのだと思わせようとしている。
しかしそれにしては、男の口調はしっかりしていた。
理路整然と、明白な事実を語るように、言うのだ。
「妻を殺したものを殺した罪なら、受け入れます。事実、わたしは妻を殺したものを殺しました。しかし妻を殺した罪は受け入れられません。わたしは妻を殺してはいません」
「なぜそう思うのですか?」
検察官が言った。
「あなたが殺したものが奥さんでないという、あなたがそう思っている根拠はなんですか?」
「言われたのです。知り合いから。その知り合いも、妻を殺されていました。おれの妻はほんとうの妻ではないと言われて、わたしも、もしかして、と思ったのです。そのとおりでした。わたしの妻はとっくに殺されていたのです」
「だれかが奥さんに成り代わっていた、ということですか」
「人間ではありません」
「では、なにが?」
「わかりません。その正体は、わたしにもわかりません」
「なぜ奥さんがほんとうの奥さんでないと思ったのですか。知り合いに言われただけですか? それともべつに、なにか、これはほんとうの妻ではないのではないか、と疑うようなことがあったのですか?」
「振り返ってみれば、ありました」
「どんなことですか」
「そのときは大して考えもしませんでしたが……元々、妻は肉が苦手でした。肉料理はほとんど食べません。魚も、です。ベジタリアンというのではなく、味が苦手だ、といっていました。しかし数ヶ月前から、むしろ肉料理を好むようになりました」
「それだけですか?」
「夜、眠らなくなりました」
「まったく、ですか?」
「わかりません。わたしは、どうしても眠ってしまいますから……しかしふと夜中に目を覚ますと、必ず妻は起きていました。なにをするでもなく、ただベッドで体を起こし、じっとしているのです。話しかければ答えます。ただそれだけですから、とくに気にもしませんでしたが、知り合いから聞いたあとでは明確にそれが妻でなくなった証拠だと思いました」
「しかし、死んだのはあなたの奥さんでしょう。警察がそれを確認しています」
「DNA鑑定はしましたか?」
男はしずかに言った。検察官は黙った。彼はどのような捜査が行われたのか、くわしくは知らなかったが、しかしおそらくDNA鑑定は行われていないだろうと思った。被害者の身元がわからないならともかく、最初から男の妻であることは明白だったから、いちいちDNA鑑定までしているとは思えない。
「すれば、わかったはずです」
男の妻の遺体は、とっくに火葬されている。
彼はじっとりと体が汗ばむのを感じていた。
汗腺から得体のしれない粘液が染み出してくるようで、彼はぶるりと震えた。
「あなたは、自分がどれだけ荒唐無稽なことを言っているかわかりますか」
「わかります」あっさりと、男はうなずいた。「しかし事実ですから、仕方ありません」
「だれかが奥さんを殺し、奥さんに成り代わっていた、と。あなたは外見の変化などでそれに気づかなかったのですか」
「外見は変わっていません。中身だけが変わったのです。だれか、ではありません。なにか、です。人間ではない、なにか──放っておけば、おそらく、わたしが喰われていたでしょう」
「もう、結構。裁判長、判決を」
裁判長はゆっくりと議場を見回し、言った。
「被告人に禁錮十八年の有罪判決を下します。自らの行いと向き合い、真摯に反省することを願います──では、閉廷」
男は反論も抵抗もせず、法廷を出ていった。連れて行かれた。男が世の中に出てくるのは十八年後になるわけだと彼は思い、荷物をまとめ、裁判所を出た。
家に帰る。
妻にはもちろん、裁判員に選ばれたことは言っていた。会社にもそう申告して休みを取っている。しかし裁判の内容は、たとえ家族でも決して漏らしてはならない、という決まりがあった。
妻は家にいて、彼がどんな裁判に関わったのか興味がありそうな顔をしていたが、彼はなにも言わなかった。
「今日、どこか食べにいこうか。裁判も終わったことだし」
「ほんと? じゃあ、ステーキでも食べにいきましょうよ」
「ステーキ? べつにいいけど──肉料理、そんなに好きだった?」
「最近好きになったの。いくらでも食べられそうな気分」
妻は笑った。
彼も無理をして笑った。
だれかに──〝なにか〟に妻がすり替わっているって?
まさか。
彼は妻がレアのステーキを頬張っているのを眺めながら、夜は寝ずに見張っていようと決めた。
そしてもし、妻がまったく眠りもせず、ベッドの上で起き上がっているなら──そうしたら、どうする?
「おいしいね。あなたも食べたら?」
「……ああ」
彼は手に持ったナイフを見下ろしていた。
■了




