第6話 真琴
オーナーの事務所は駅前のタワマンの一室。
厳重なセキュリティのエントランスに入ると駅前の喧噪が嘘のように静まる。
二人の靴音だけが鳴り響く。
最上階の一室。
そこは龍太郎とツバサの店、『ナイトクラブ・ブーゲンビリア』のオーナー、真琴ママの事務所兼自宅だった。
白いテーブル、薄いグラス、香り高い紅茶。
装飾は少ないのに、空気が整っている。
真琴はソファに座っていた。
背筋が伸びていて、いつ会っても彼女に隙はない。
この世界で凛として生きてきた人の強さが、そこにあった。
「いらっしゃい、龍」
「お疲れさまです、ママ」
龍太郎が報告を始めるより先に、真琴はさらりと言った。
「今日も綺麗に回っていたわ。あなたの手腕は、女の子たちを安心させるわね」
褒めているのに、数字の匂いがする。
なのに、それを感じさせない上品さがあった。
真琴の視線が、龍太郎の半歩後ろへ移る。
そこにツバサがいる。
いつもの位置。いつもの距離。
くっついているのを隠しもしない。
「ツバサ」
「はい、ママ」
ツバサは丁寧に頭を下げた。
普段の甘さは、ここでは脱ぐ。
それでも龍太郎の袖からは離れていない。
真琴は、その袖を見ても一切、問題視しない。
二人で一人である事を理解している。
「……顔、少し白いわね」
真琴は声のトーンを変えないまま言った。
経営者の声のまま、女の声が混ざる。
「寝不足?」
「少しだけ」
「少しだけって言う時ほど、無理しているでしょう」
ツバサは笑って誤魔化す。
「大丈夫です。仕事は——」
「仕事の話じゃなくて、あなたの身体の話」
真琴は優しく遮った。
「通院は、ちゃんと行ってる?」
ツバサの笑顔が一瞬だけ止まる。
それでも目は逸らさない。
「……はい」
「薬は? 切らしてない?」
「大丈夫です」
「そう。なら、安心」
真琴は頷いた。
その頷きは、ツバサを抱きしめる代わりのものだった。
「ありがとう、ママ」
ツバサはニコリと微笑んだ。
龍太郎が口を挟みかける。
「ママ、俺は——」
「あなたは黙っていていいの」
真琴は微笑んだまま言った。
優しいのに、逆らえない。
「あなたは守るのが上手い。でも、心配する言葉は下手。だから私が言うの」
龍太郎は何も言わず、短く息を吐いた。
認めた。という合図。
「龍。あなたは私の弟だと思ってるし、ツバサは私の妹。二人とも可愛いのよ」
真琴はニコリと笑う。
「……だからこそ、心配にもなるのよ」
「俺らがこうして生きていけるのは真琴ママのおかげです。感謝してます」
龍太郎は頭を下げた。
真琴ママは、今度は本題に戻る。
声も表情も変えない。
ただ言葉だけが、すっと刃になる。
「今日、また引き抜きの話がきたわ」
ツバサが小さく笑う。
「またですか?このまえのとこ?」
「ええ。今度は『5億』って言ってきたわ」
龍太郎は眉ひとつ動かさない。
「断ってください」
「そう言ってくれると思ってたわ」
真琴は紅茶を置いて、淡々と言った。
「あなたたちは売上だけじゃない。女の子を壊さず、そして美しく魅せて稼ぐ。それが一番、真似できないの」
褒め言葉なのに、背筋が寒い。
壊す店がこの街にどれだけあるか、分かっている言い方だった。
「あなたたちがいる限り、どこにも負けないと思ってるわ」
「……買いかぶりすぎです」
龍太郎が短く言う。
「買いかぶってないわ。数字が証明してくれてる」
真琴は笑う。
笑い方は上品なのに内容がえぐい。
「引き抜きの話、私に5億、龍とツバちゃんに2億5千万ずつ。しめて10億。
まずはそれを用意して初めて交渉の場が整うと言ってあげたわ。合計5億では、その場すら整いません。とね」
ツバサがくすっと笑った。
「ママ、それ、性格悪い」
「あなたたちの価値はそれでも安いと思ってるわよ」
言い切って、真琴はツバサを見る。
「ツバサ。今日は温かいものを飲んで寝なさい。冷えると、余計にしんどくなるでしょう」
ツバサが少しだけ表情を緩めた。真琴の気遣いがツバサの心に染みる。
「……ありがとうございます」
「お礼は売上でいいわよ?――なんてね」
真琴ママはさらりと言って、立ち上がった。
真っ白なドレスから見える背中が綺麗だった。
「龍、ツバサ。あなたたちに言うことは何もないわ」
龍太郎が少しだけ目を細める。
「……それはそれで怖いっすね」
真琴ママは微笑んだ。
「あなたたちには私の全てを教えてあるもの、それを踏まえて完璧にこなされたら、あとは見ている以外、やることはないわ」
それは褒め言葉であり、束縛でもあった。
上品な檻。
でもこの檻は、二人を守る。
「言うことがあるとすれば、ムリはしないこと。――それだけ」
龍太郎が一礼して、部屋を出る。
ツバサは半歩後ろからついていく。袖を掴んだまま。
廊下に出た瞬間、ツバサが小声で言った。
「ママ、ほんと優しい」
「優しいっていうか、怖いだろ」
「うん。優しい怖さ。……美しい怖さ?」
龍太郎が鼻で笑った。
「変な日本語だな」
「でも、合ってるでしょ」
ツバサは袖をきゅっと握り直す。
「……ねえ龍太郎。今日、温かいの飲む。ママの言う通り」
「そうだな、体温まるものってなんだ?生姜湯とか?」
「ふふ、龍ちゃん、おじいちゃんみたい」
「お前な」
ツバサは笑って、龍太郎に寄り添う。
「コンビニで行こ、生姜湯あるかな」
「……撤回。普通に紅茶でいいだろ。ママみたいに」
「ふふ、それもいいね」
街に充満していた色と欲は、消えゆく闇とともに引いていった。
白み始めた汚れた繁華街を二人は寄り添って、家路へと向かった。
だが、この時、二人はまだ気づいていなかった。
このあとに起こるツバサの異変と、水面下で進行する不穏な動きには。




