第5話 自分の素直
「……別れたい」
ミサキの言葉が落ちた。
それは路地に落ちて、冷たい空気に消えそうになる。
男の顔が歪む。
「は?」
「別れたい。もう無理……」
「おい、なんだよ、それ、ふざけんなよ」
男が一歩前に出る。
それを遮るように、龍太郎がその前に立つ。
身長185センチの大きな壁が、男とミサキを裂いた。
「分かったろ?もう帰れ」
「どけよ」
「どくわけないだろう」
龍太郎は静かに言った。
「ここで騒ぐなら通報する。ミサキに近づくなら、店の前で待ってる奴らが動く」
男が周りを見る。
路地の奥、店の黒服が二人、影みたいに立っている。
ツバサは龍太郎が必要としているものを常に先に用意しておく。
男が唇を歪める。
「……覚えてろよ」
ツバサが笑った。
「覚えておいたほうがいいのは、あなたです」
その声は甘いのに、冷たい。
「あなたがやったことは、あなたの名前で残る。――ね、『宮本悠太くん』」
男の顔から血の気が引いて、言葉を失った。
「分かったらもう帰れ。ミサキとは接触禁止、うちの系列店も含め完全出禁」
『 圧 』
存在と言葉だけの暴力的な圧がそこにあった。
「これは警告だ。次はない」
龍太郎の目は本気だった。甘やかしは一切ない。
宮本は舌打ちして、背中を向けた。
去り際、ミサキを睨む。
ミサキは震えながらも、目を逸らさなかった。
男の影が角を曲がって消える。
路地に残ったのは冷たい風とミサキの呼吸だけ。
ミサキは膝を折りそうになった。
ツバサがすぐ支える。
「……ごめんなさい」
ミサキが絞り出す。
「お前が謝るな」
龍太郎が即答した。
「悪いのは殴るやつだ。怖がらせるやつだ。お前じゃねぇ」
ミサキの目に涙が溢れた。
「……怖かった。私、弱い」
「弱いのは悪くないよ」
ツバサが優しく言った。
「弱いまま一人で抱えようとすることが弱いの」
ツバサはミサキの耳元に囁く。
「次からはちゃんと申告して。一人はダメ」
ミサキの肩が震える。
でも、その震えの中で、少しだけ呼吸が整う。
「……うん」
歓楽街の路地はまだ多くの夢追い人で賑わっていた。
「ミサキ、当分の間、店の寮に行け。一部屋空いてたはずだ」
「そうだね、家バレしてるなら身を隠したほうがいいかもね」
龍太郎の提案に、ミサキに腕を回していたツバサも微笑んだ。
「……うん、分かった」
ミサキも安堵の表情を浮かべた。
龍太郎はあたりを見回して、一人の黒服を呼んだ。
「駿!!こっちこい」
そしてミサキを見る。
「ミサキ、当分の間、駿を護衛に付ける。アイツなら信用できる」
「はい、龍さん」
走って駆け付けたのは黒服たちのリーダー「 三浦 駿 」。
龍太郎とツバサを兄、姉として心酔しており、黒服の中で一番忠誠心が高い男だ。
「当分の間、お前と同じ寮にミサキを保護する。悪いが、護衛やってもらえないか」
龍太郎は駿の肩に手をかけた。
「……そ、そんな。駿くんに迷惑かけられ――」
「了解です!龍さんとツバサ姐さんの命令なら、全然やりますよ」
ミサキの戸惑いに被せる勢いで、駿は即答した。
駿とは、こういう男である。龍太郎とツバサに対する絶対的崇拝。
龍太郎に一生ついていくと決めた男に迷いなどない。
「え、ちょっと、駿君いいの!?」
ミサキは困惑するが、駿は笑って返す。
「当然だよ、龍さんがそうするって決めた事は間違いないからね、ね、姐さん!」
「そうだね。ありがとう。駿くん」
ツバサの微笑みが、駿にとっては、なによりのご褒美だった。
「ミサキ。お前は店の女だ。なにがあっても絶対に守る」
龍太郎は真正面からミサキを見る。
「――でも、その関係外では俺の女じゃない。そこは変わらない」
ミサキは泣きそうに笑った。
「……知ってる」
「知ってるなら、ちゃんと生きろ」
龍太郎の言葉にミサキは深く頷いた。
「……うん。生きる」
ツバサが小さく笑う。
「えらいね」
それは褒め言葉じゃなく、躾のような湿度があった。
でも今のミサキには、そのしつけが必要だった。
「じゃ、龍さん、俺、ミサキ送りながら上がらせてもらいます!」
駿がミサキの背中に手をやってエスコートした。
「あぁ、頼むな。何かあったら連絡しろ」
ミサキは龍太郎とツバサに深く頭を下げ、駿に連れられて夜の街へと消えていった。
◇◇◇
裏口の鍵を閉める音が、やけに大きく響く。
ツバサが龍太郎の袖を掴む。
いつもの位置。
「ねえ、龍ちゃん」
「ん?」
「今日、格上がった感じ。かっこよかったよ」
「そうか」
「そう、キュンキュンしちゃった」
ツバサは笑って、歩幅を合わせる。
「強気な感じの龍ちゃん、好き」
「ありがとうな」
ツバサは満面の笑みで龍太郎の腕に寄り添う。
「とりあえず、ウチ帰る前にママの事務所寄るぞ、報告してから帰る」
「は~い」
しばらく歩いて、人気のない通りに出たところで、ツバサが立ち止まった。
見上げる。距離を詰める。「お願い」の顔。
「ねえ、チューして」
「あぁ、なんで?」
「そうしたい気分なの」
龍太郎は小さく息を吐いた。
「分かったよ」
唇が触れる。
一瞬。触れた程度。
それだけでツバサは満足そうに笑う。
龍太郎は顔を背けて、ぼそっと言った。
「……誰かに見られんの嫌なんだよ」
「じゃ、帰ったら、いっぱいってこと?」
「帰ったら寝る」
「素直じゃないなぁ」
ツバサがくすくす笑う。
龍太郎は歩きだす。
小さく笑いながら呆れるように呟いた。
「お前の前では割と素直だと思うぜ?」
「ふふ、確かにそうだね」
ツバサは絡めた指を、ぎゅっと強くした。
「早くママのとこ行って帰ろ」
「そうだな」
ツバサは龍太郎の耳元に囁いた。
「外では龍ちゃんの要望通り、一瞬でいいよ。でも家の中では私が決めるからね」
龍太郎は息を吐く。拒まない。
その沈黙が答えだった。
ツバサは満足そうに目を細める。
「素直だね~♪」
二人の影が重なって、夜の中へ溶けていく。
その先には真琴ママが事務所代わりに使っているタワマンの灯りが見えていた。




