第2話 『ミサキ』
開店前の店は、化粧の匂いが香る。
鏡の前でリップを引く女、スマホで誰かを誘ってる女、笑いながら泣いてる女。
この箱はいつだって忙しい。
まだ客がいなくても、女たちはもう働いている。
龍太郎は事務所の机に座り、帳簿を開いていた。
ツバサはその横、当然みたいに椅子に腰をかける。
誰も気に留めない。
ここではそれがいつもの景色だ。
「ツバちゃん、おはよ。仲いいね」
出勤してきた嬢から声が飛ぶ。
「うん。もちろん。ハッピーセットだから」
ツバサが笑って返すと、「いいなー」「羨ましー」「どっちがオマケー?」みたいな軽口が返ってくる。
嫉妬の毒は、ここでは冗談の皮を被る。
龍太郎は顔も上げずに言った。
「お前ら、準備しろ。あと30分で店開けるぞ」
「はーい、りゅーさん」
返事は揃って軽い。
でも、その軽さの下には信頼がある。
龍太郎は雑だ。口が悪い。優しくない。
それでも、女たちが揉めれば間に立ち、客が荒れれば止め、危ない橋を渡りそうな子を引き戻す。だから、この店の女はだいたい知っている。
龍太郎は、絶対に嬢には手を出さない。
いや、出す気すらない。
そして当然に、隣にはツバサがいる。
その時、バックヤードの扉が開いて一人の女が入ってきた。
ミサキ。
売れっ子の一歩手前。顔も会話も整ってる。
なのに今日は化粧が薄い。
目元が少し赤い。
「おはよ」
挨拶は平気そうだった。
でも歩き方が、いつもより慎重だ。
足元を気にしている。
龍太郎はすぐに気付く。
「ミサキ。どうした」
その声は雑なのに芯がある。
逃げるように控室に向かおうとしたミサキが足を止めた。
「べつに。なんでもない」
「嘘つくな。なんでもなきゃ、俺は声かけない」
ミサキは笑って誤魔化そうとして——できなかった。
目が泳ぐ。
龍太郎の腕に指を添えるツバサはニコリと笑うだけ。
存在感を出したり、消したりするのがうまい。
龍太郎が続ける。
「足、引きずってんじゃねぇか」
「……転んだだけ」
「どこで」
ミサキが黙る。
沈黙の質が変わる。
店の空気が少しだけ重くなる。
龍太郎はただ返事を待っている。
「……ツバサ」
「うん」
竜太郎の一言にツバサは即座に動いた。
龍太郎が全部言わなくても、必要な物を揃える。
この店の女たちがツバサを認めている理由の一つだ。
ミサキは小さく息を吐く。
「大丈夫。ほんとに」
「大丈夫なやつは足を引きずらない」
龍太郎は立ち上がると、ミサキの前にしゃがみ、足首を見る。
ミサキが一瞬だけ身を引いた。
触れられるのが嫌なんじゃない。——触れられると、安心してしまうから怖い。
「腫れてんじゃねぇか」
「……だから、転んだだけだって」
「相手、誰」
店の女たちが一斉に、目線だけで空気を読む。
名前が出たら、何かが起きる。
この店では、そういう因果が日常だ。
ミサキは笑ってみせた。
「龍さん、探偵みたい」
「違う。トラブル処理は店の為だ」
龍太郎の言い方は雑だ。
でも雑な言い方ほど、本気だとわかる。
「控室で手当してやる。こっちこい」
龍太郎がミサキを椅子に座らせると、ツバサが救急箱を持って戻ってきた。
ミサキはツバサを見て、わずかに目を逸らす。
「……ツバちゃん、ごめん。手間かけて」
「ううん。痛いでしょ。龍ちゃん、テーピングうまいよ」
ツバサは笑う。優しい声。
そして、さりげなく龍太郎の肩に頬を寄せた。
「龍ちゃん、優しくやってあげなよ?」
「あぁ」
ミサキはそれを見て、唇を噛んだ。
ほんの一瞬。
その表情をツバサは見逃さない。
——あ、そういう感じ。ふーん。
ツバサは心で呟いて、すこし笑った。
龍太郎が包帯を巻きながら言う。
「言え。誰だ」
「……例の彼氏」
「またか」
「……ごめん」
ミサキは小さく笑った。
笑顔が崩れかけているのに、笑う。
龍太郎は表情ひとつ変えず、ミサキの腕を掴む。
ミサキの腕にもアザがあった。おそらくは顔を守ったときに出来たもの。
「冗談で済むアザじゃねぇんだよな」
ミサキはちょっと慌てて、それを隠す。
「りゅーさん優しいから……。私、甘えちゃうから。やめて」
ツバサの笑顔が、少しだけ薄くなる。
優しいという単語をミサキが使ったことに反応した龍太郎は淡々と返す。
「優しくねぇ」
「優しいよ」
「違う。お前はウチの大事な嬢だからだ」
その言い方がミサキには救いになる。救いになるから余計に恋になる。
ミサキは、ぽつりと言った。
「……ねえ、りゅーさん」
「何」
「私さ。ここ、辞めたほうがいい?」
確信的な愛情の確認。
控室の空気が止まった。
店の女たちは、聞こえないふりをする。
でも耳は全部こっちだ。
龍太郎は即答しなかった。
ミサキの目を見て、必要な言葉だけ選ぶ。
「辞めるかどうかは、お前が決めろ」
「……冷た」
「俺はお前の人生の責任は取ってやれねぇ」
ミサキの喉が小さく鳴る。
「人生の責任って、なに」
龍太郎は包帯を最後まで巻き切ってから、立ち上がった。
「俺が、《《お前の男づら》》して、お前の人生を左右するやつ」
その一言が、店の空気を綺麗に切った。
雑で、乱暴で、でも優しい切り方だった。
他の嬢の「優し~」「あれは惚れるわ~」という聞こえないくらいの呟きが漏れる。
ミサキの目が揺れる。
揺れて、笑おうとして、失敗する。
「……そっか」
「でも、お前頑張ってるからな。店としては頑張って欲しい」
「……商品としてでしょ」
「そう思って貰えなかったヤツもごまんといる世界だぜ」
龍太郎の声は柔らかい。
龍太郎の肩越しからツバサが顔を出す。
「龍ちゃんに甘えたくなったら、私に言って。――あたしが抱きしめてあげる」
ミサキが目を見開く。
「……は?」
唐突のことに意味が分からなかった。
「だって、龍ちゃんは仕事で忙しいでしょ。《《あたしの龍太郎》》が大切にしてるものは、あたしも大切にする。――だから抱きしめてあげる」
ツバサはにこっと笑って、言葉を刺す。
「……ツバちゃん、冗談はやめて」
ツバサはやさしく微笑んだ。
「……割と本気。抱きしめてもらうって気持ちいいでしょ」
ミサキはちょっとやりきれない気持ちを抱えながらも、少し沈黙した後に笑った。
「……龍さん、ありがとう。ツバちゃんも。――私、準備するね」
「おぅ、無理すんなよ」
龍太郎とツバサが離れた控室。
席に向いたミサキに隣の嬢、アヤカが声を掛けた。
「ミサキ、りゅーさんに興味あるの?絶対にムリだから諦めた方がいいよ」
「アヤカさん……なんでムリって言えるんですか。男と女なんだから、そんなの分からないじゃないですか」
「ここの店じゃ分かり切ってること。黒服との恋愛禁止ルールとかじゃなくてね」
アヤカは目線も合わさず、自分のメイクアップに余念がない。
「ほとんどの子は知ってるよ。りゅーさんはツバちゃんしか見てない。――ツバちゃんもそう。あんな可愛いのに、りゅーさん以外にはマジで興味ないし」
「……でもカップルなんて、どこもそんな感じじゃ」
ミサキの表情がすこし固くなる。
「ミサキ、まだわかってないね。じゃ、教えてあげるよ」
アヤカはリップを置いて、ミサキを見た。




