隣国公爵の微笑み 超人じゃないから愛おしいのさ
性犯罪の被害者をサポートする人も、心に深い傷を負うという話です。
トラウマらしき話が満載なので、苦手な方は申し訳ありませんが、ページを閉じてください。
■公爵■
私はベレフォール侯爵家の嫡男で、ジュールという。
隣国カルメシュ王国の公爵、ルシアン・ディ・アルヴィーノに連れられて、下町の酒場に来た。
なぜ、隣国の公爵かつ王弟の方が、私よりこの国の下町を知っているのだろう。
まあ、この男は性教育の普及活動をしていて、貴族以外にも人脈が広い。
私よりも下町に詳しいことも、不思議ではないのかもしれない。
貴族だからと驚いた顔をされることもなく、隅の方の席に案内される。
ルシアンに苦手なものがないか確認され、彼が一人でカウンターに向かい、注文をして戻ってきた。手にはジョッキが二つ。
テーブルには、拭いても落ちない黒ずんだ輪染みや、グラスの底で刻まれた細かな擦れ傷があった。
常連たちの肘が何千回も置かれた縁は、角が取れて丸くなり、やわらかく手に馴染む。
「なかなかの老舗のようだな」
「ほぼジュール殿と同じだけの年月が経っているね」
ルシアンがウィンクをした。男相手に何をやっているんだ。
乾杯する間もなく、ムール貝と芋のフライが届けられた。
「さあ、ジュール殿。労働者の楽しみと言われているが、我々もご相伴に預かろうじゃないか」
下町流にジョッキをぶつけ合って、乾杯をする。
一口飲んで、驚いた。
「なんと、冷えたビールか! こんなに美味だとは」
ジュールが驚くのを楽しそうに眺めて、ルシアンはニヤリと笑った。
「そうそう。『労働者の食べ物』と言って貴族を遠ざけ、彼らはこんなに旨いものを独占しているというわけだ」
「冷蔵魔道具とビール抽出機を輸出させていただきましたよ。まいど、ありがとうございます」
ルシアンが仰々しくお礼を言った。
「あ! ここは母上が出資している店か」
「そういうこと。薄情なご子息だなぁ」
隣国は魔道具の先進国である魔神国に追いつくべく、次々と新しいものを開発している。
母上は隣国出身なので、その情報をいち早く手に入れているようだ。
「ところで、何か私に話があるんだろう? こんな個室でもない場所で、大丈夫なのか?」
「声が聞こえる範囲にいるのは、私の手のものだ。遠慮なく密談といこうじゃないか。
こんなところで重要な話はしないだろうという、裏をかくのさ」
周囲にいるのは・・・新聞を広げる中年男性、仕事帰りらしき若者たちがビール片手に談笑し、一人静かに晩酌を楽しむ姿もあった。
「・・・読唇術が使える者もいるだろう」
思わず、声を潜めた。
「ああ、それをあぶり出すためでもある。
我々から一瞬でも視線を外さない怪しいヤツ・・・ほら、酔っ払いが絡むふりをして、別室にご案内だ。
ふっ、深淵を見るものは深淵からも見られているのだ。だろ?」
「『深淵をのぞく時深淵もまたこちらをのぞいている』だ。
しかし、なんで息子の私より、あなたの方がこの店を使いこなしているんだ?」
動揺を悟られないよう、グッと腹に力を入れた。
「はは、もっとご母堂と会話して差し上げなさいよ。
寂しがって・・・・・・は、おられないか。
先日、カルメシュ国のご実家に里帰りされただろう?
ご機嫌うかがいに行ったら、建国祭に向けてご友人と何やら計画を立てて、生き生きとされていた。
こちらの国に嫁いで、不在の期間が長かったとは思えないほど、溶け込んでいたよ」
・・・我が母上は、どこにいてもエネルギッシュなのである。
■支え手■
温野菜と鶏のコンフィ(オイル煮)の皿が届いた。
「弟がさ、嫁と義娘を囲い込もうとしているのが心配なんだ」
フォークで人参を刺して、口にした。
ルシアンは手の平を向けて、話の先をうながしてくれる。
「相手の希望を確認しないで、突っ走っているようにしか見えない。
守ってやりたいと行動するのは立派だけど、支えるのと支配するのは別だろう?」
「・・・弟さんの自己満足に見える?」
「ああ、そうだな」
ルシアンなら良いアドバイスをくれそうだと期待して、目を合わせる。
ジュールの真剣な目を受け、ルシアンはフォークを置いた。
「君の言うとおり、相手を支配しようとするのは好ましいとは言えない。
ただ、ここでコトを難しくするのが、彼の大切な人が性犯罪の被害者だということだ」
ルシアンが軽く頭を振り、目にかかる長さの前髪がふわりと舞った。
「性犯罪の被害者を支えることは、想像以上に難しいんだよ。
大切な人が襲われるのを防げなかった無力感、というのは理解できるかい?」
「!!」
・・・それは、そうか。自分を殴りつけたいほどの後悔に苛まれるだろう。
「彼はそれから逃げずに、考えて、向き合っているんだよ。
何年も放り出さずに・・・それができる人間は滅多にいない。
彼は『今度こそ守らなければ』と強く思っている。
彼に非は無いのに、ミレイユさんの傷を全部背負おうとしている。
相手が自分の足で立てる状態なら、『支えるとは隣にいることだ』と言えるけれど。
彼女は自分で立てているだろうか?
性犯罪の被害者は一進一退を繰り返す。今日元気でも、明日も元気とは限らないんだ」
衝撃で言葉が出ない。
「重い秘密を抱え込み、血を流し続ける被害者を支える・・・そうしている間、支える者も傷ついている。そんな彼に、誰かが配慮してくれたのだろうか。
たとえば医師だって、患者との触れあいで傷つき、悩むことがあるのは想像できるだろう?
それで廃業してしまった医師を知っているよ」
テーブルに肘をつき、手で口元を覆った。
内臓を素手でかき回されたような痛みに、息が詰まる。なぜ、気づけなかったのか。
「もちろん、彼女たちの意思を無視して『守るふり」をした支配欲にも見えるだろう。
意気込みが空回りして、自分勝手に見える。
実際に、正義感に酔ってもいるだろう。
だが、僕には崖っぷちに立ちながらも、なりふり構わず大事な人を守ろうとしているように思えるんだ。」
青ざめるジュールの目の前で、ルシアンはパチンと指を鳴らした。
「君を責めようというんじゃないよ。ごく当たり前の反応だもの。
ただ、いい機会だから、僕の講義を聞いてもらおうかな」
深刻な空気を吹き飛ばすように、にこやかに語り出した。
■ルシアンの講義■
性犯罪の被害者を支えようとする人たちは、様々な困難にぶつかる。挫折する人の方が多いくらいだ。
ひとつには、被害者の感情が不安定すぎて、その変化についていけなくなる。
笑っていたかと思うと、怒り出したり、無気力になったりする。
「せっかく昨日は元気だったのに」と焦りや落胆を感じる。被害者の側にいようと思えば思うほど、振り回される。
守れなかった・・・その罪悪感も、きっと彼を苦しめ続けている。
それから、何を言えばいいのか分からなくなるんだ。
突然泣かれたり、責められたりしても、どの言葉が引き金になったのか分からない。
例えるなら、カンシャク持ちのご令嬢に振り回されるような感じだ。君も一度くらい辟易したことがあるだろう?
そんなとき、自分が凍り付いて何も言えなくなる。その不甲斐なさも、彼を責め立てる。
「どうして、もっと上手く言葉をかけられないのか」って・・・。
辛いことだが、我々男は『加害者と同性』だ。
犬に噛まれて、犬が苦手になる人がいるのはわかるだろう?
助けようとしているのに『加害者に似たもの』として見られるのに、耐えられるかい? 『触らないで』と拒絶されたら、自分まで『許せない存在』に思えてしまうだろうね。
加害者への怒りは、ふつふつと積み上がるだろう。
だが、それをどこへぶつけたらいい?
弟さんはその加害者に執事や家令という、最も近い位置で仕えて来たんだよ。よく気が狂わなかったと褒めておやりよ。
そんな状態が、数ヶ月あるいは何年も続くかもしれない。
回復の目処が立たず『この先もずっと?』と心が折れた人もたくさん見てきたよ。
挫折しなかった人も、問題を抱えてしまう。
被害者を支えることに熱中して、自分も傷ついていることに鈍感になる。
そうすると自分の心身が限界を迎えても、気づけない。
そんな彼らが過保護になるのは、遠回しに『自分の心』も守ろうとしているのかもしれないと思うよ。
確かに、話を聞くと過剰防衛にすり替わっている気はする。
選択の自由を奪って、支配しようとしている面はあるだろう。
『これで守り切れる』と思えるところまでやって、『自分の心の安心』を得ようとしているようにも見えるさ。
支えたいという一途な気持ちが、確かに暴走しているよね。
だが、僕には、彼の過剰行動が、傷つき、摩耗している『不完全な人間の悲鳴』に聞こえるんだ。
教会で「健やかなるときも病める時も」と誓った人間でさえ、耐えられずに逃げていくんだよ。
ほのかに恋心を抱いていただけの同僚に・・・これほどの献身が、行き過ぎた面だけを捉えて否定されるのは、とても悲しい。
あんなことがなければ、弟さんは片思いの傷が癒えた頃に別の誰かと結ばれて、幸せな家庭を築いていたかもしれない。
まあ、その場合、弟さんが君たちを頼ることはなかったろうね。
君たちがどんなに大切に思っていても、距離を置かれたままで・・・。
ほら、人生は何が幸いかなんて、分からないんだ」
ルシアンは前髪をかき上げて、微笑んで見せた。
ジュールは泣きたい気分になった。
「俺は・・・彼女たちを自分の意のままにコントロールするのを止めろと、怒鳴ってしまった」
「それは、君が弟さん家族のことを思いやっての行動だろう?
そして、良かれと思った助言を受け取ってもらえないから、悲しかったんだ」
ルシアンはビールで口を湿らせて、続けた。
「そしてね、弟さんは、ずっと・・・モードちゃんの年齢に十ヶ月を足した期間、その状態なんだ。
良かれと思って差し出しても受け取ってもらえない、拒絶されないのが唯一の救い・・・。
怒鳴ることもせず、投げ出すこともせず、寄り添い続けている。
それだけでも、すごいことだよ」
自分の顔が歪むのが分かった。
「次は怒鳴らずに、言えるといいね。
一度で伝わるなんて思わずに、何度でも、何年かけても・・・。
そういう小さな優しさ、小さな忍耐の積み重ねが、ミレイユさんの『回復したい』という力の下支えになっているんだよ。
弟さんとモードちゃんに加えて、これからは君たちも支えになるんだろう?
弟さんに『もう一人で苦しむな、いつでも力を貸す』と言って、肩を叩いてやればいいさ」
ジュールは何も言えなかった。
残りのビールを飲み干し、次は自分が買ってくると席を立って、必死に呼吸を整えた。
■元伯爵夫人のこと■
二杯目のビールジョッキを手渡すと、ルシアンは何もなかったかのように話し出した。
「そうそう、弟さんに聖母教会の予約は取り消したと伝えておいてくれないか」
プロポーズもしていないのに予約したという、どこから突っ込めばいいか分からん、例のあれか。
「・・・ヘムリーズ伯爵夫妻は離縁したぞ」
「ふふ、自分を鼓舞するために、仮予約したんだ。式を挙げられると思っていたわけじゃない。
当時の彼女はまだ婚姻中だったし、僕がそれを無視するようなことは絶対にしない。
・・・でもね、何をしても彼女にあしらわれて、それでも心は惹かれていくばかりで。
何かしないといられない衝動で、『いつか想いが届きますように』と願掛けしてしまったのさ」
「願掛けで、聖母教会か・・・教会にどんな伝手を持っているのやら。
で、その後、無事に離縁が成立したわけだが、進展はあったのか?」
「ふふふふふ、カルメシュ王国の建国祭を案内する約束をしたんだ。一緒に旅行だよ」
親指と人差し指を立てて、何やらポーズを取る。
この軽妙な感じに今まで騙されてきたかと思うと、恐ろしいものを感じる。
「弟さん、『逆算したら何月までにプロポーズを受けてもらわないと』とか『ウェディングドレスを超特急で仕立てられるお店はどこか』とか、僕よりも真剣に考えてくれて。
あなたが可愛がるのが分かりましたよ。かわいい、あれは」
「まあな」と、何となくジョッキをあわせて、乾杯した。
「で、元ヘムリーズ伯爵夫人のどこの惚れたんだ?」
「彼女はね、人に寄りかかることを考えもせず、雪原の中で凜と立つような女性なんだ。
ほんの僅かでも、吹きすさぶ雪を避ける役目がしたいと思いました」
ルシアンが唇に手を当て照れている様子が、妙に色っぽい。
「元伯爵夫人は異様にガードが堅くて、それでちょっかいをかけ続けてしまった。
今回、例の・・・モードちゃんが卒業式でやらかした後ね、『家業』のことを聞いて、ものすごく腑に落ちたよ。
それくらいでないと、あんな秘密は守れない。
放り出さずに事業をやりきった胆力に、改めて惚れ直しましたね」
ルシアンは少し目を細めて、続けた。
「僕の母は、寵愛された側妃だった。
でも、だからといって幸せだったかというと・・・正妃たちの嫉妬に、ずっと苦しんでいたよ。
それを元伯爵夫人に伝えた。
あなたのしていることは間違っていない―――そう肯定するために。
彼女は、ミレイユさんを守るためとはいえ、虐めていることに罪悪感を持っていたからね」
彼は思い出すように、穏やかな視線をテーブルへ落とした。
「なんて賢い女性なんだろうって思ったよ。
僕の母の周りにも、そんな素敵なレディがいてくれたら・・・と、つい願ってしまった。
僕がしたのは、小説を渡して『虐めのバリエーション』を増やす手助けさ」
そう言って、くくくと小さく笑った。
「毎回、小説を渡すたびに、報告してくれるんだよ。
前回の本のどの台詞を使ったか、どんなふうに言ったかって。
『これ、悪役令嬢っぽいですよね?』ってポーズまで見せてくれる。
渡す前に『今回はどこを採用するかな』なんて想像するのも、次第に楽しみになった。
もちろん、彼女だけを依怙贔屓していると思われないように、読み終えたら他のマダムたちにも回し読みしてもらってた。
性教育の講義が終わった後に、マダムたちが高笑いの競い合いを始めてね。
あのときにはどうしようかと。腹筋がねじ切れるかと」
今、ルシアンは腹筋がねじ切れそうな状態を再現している。
・・・それは、見たいような見たくないような景色だな。
■モードのこと■
「実は、モードちゃんのことは前から知っていたんだ。
きっかけは、モードちゃんの学園に性教育の講義に行ったときだね。
まあ、他の学校よりも卑猥な野次が多かったよ。
教師たちも経験した人数を誇っていて・・・質より量って言っているわけだ。
相手にも心があると認識できていませんって、自己紹介しているようなものなのに」
ルシアンはキザったらしく肩をすくめた。
その後、ふと真剣な目をするので、ジュールは少し身構える。
「ちょっとしたメモを碧語で書いてたんだ。
正式な暗号にするほどでもないけれど、あまり読まれたくない程度の内容で。
それをうっかり落としてしまってね、モードちゃんが講師控え室まで届けてくれたんだよ」
ジュールは目を見開いた。そんなことがあったとは。
「・・・あの娘、危ういね。
碧語が読み書きできることが「特別」だという自覚がない。
自己評価が低いから『自分ができることなんて大したことない』と思っていて、『自分が知っていることなんか誰でも知っている』と思っているぞ」
卒業式の答辞で気をつけるべきだった点を説明したが、そんなレベルの話ではないではないか!
「今までは目立たなかったからいいけれど。
弟さんの『モードにも目を付けさせない』作戦が結果的に良かったと言えるな。
社交界デビューするんだろ?」
その前に少しでも多く対策をしておけというアドバイスには、うなずくことしかできない。
これは、パートナーを務める息子に、どこまで説明しておくか家族会議・・・いや、国王も含めた秘密会合か?
「それと―――これまでモードちゃんが、どこかでミレイユさんの『お母さん役』をしてきたんだと思う。
子どもが大人の役割を担って育つということは、心の発達のステップを適切に踏めていないということなんだ。
土台がしっかりしていないから、心のバランスを崩しやすくて、生きづらさを感じやすい。
だから、これからは子ども時代を取り戻せるように、そっと気にかけてあげて。
祖母になったセレスタさんにたっぷり甘やかされて、甘やかされ尽くしたその先で・・・
自分の足で立てるようになったら、そのときは見守るだけにすればいい」
すっかり日が暮れ、テーブルの上ではろうそくの灯が、静かに優しくゆらめいていた。
■庭師の登場■
「お邪魔しまっす。よい晩ですねぇ」
庭師が自分のビールを手に歩いてきたかと思ったら、するりと自然な流れでテーブルに加わった。
そのまま会話にも違和感なく入り込む。
「家令の過保護っぷり、丁度いい感じでしたね。
絶対に男は寄せ付けないぞって構えで。おじさん眼鏡にボサボサ三つ編み」
そう言って愉快そうに笑い、ビールをぐいっと飲む。
「庭師。・・・どこまで、隣国の王弟にしゃべっていいんだ?」
「次期侯爵様がご存じの範囲であれば、全てどうぞ。
この度、公爵閣下は影の協力者におなり遊ばしました。一部の協力者ではなく、構成員のひとりとして巻き込まれた、というわけです」
「本当か。・・・はあ、言葉が出ないぞ。
私でさえ、例の事業のことを知らされたのは、半年前だというのに」
ジュールは額に拳を当ててうなだれた。
「私の『性教育ネットワーク』は、なかなかのものだからね。
これまでにも、いくつかの国の王族の悩み相談を受けてきた実績がある。
王宮内に入り込めるんだ。
強力な味方ができたと、心強く思いたまえよ」
・・・こんな二人に挟まれて、常識人の私はもうタジタジだ。
「で? 庭師くん、君は結局どんなポジションなんだい?」
「俺の本当の雇い主は、国王陛下っすね。
元伯爵夫人は、言うなれば『雇われ店長』。忠実にお仕えしてましたけど、情報は全部、陛下にあげてます。
今回は、侯爵家が下請けに出した子爵家に配置換えって感じっす」
「ちょっと待て。モードのことも・・・全部?」
「ええ、ご存じっすよ」
庭師は芋のフライを手づかみで口に放り込みながら、あっさり答える。
「はぁ・・・・・・そうか。
そういえば、均の一族がこの国の言葉を話せると報告したときも、陛下は頷いただけだったな」
どっと疲れが押し寄せてきた。
「モードちゃんを『危険』と判断するなら、六歳になる前に消されてますって」
軽い口調とは裏腹に、その目はゾッとするほど冷たい。
・・・どうやら、思っていた以上に色々なことが危ない状況だったようだ。
■伯爵家の行方■
「そういえばヘムリーズ伯爵家はどうなる?
侯爵家としての希望は伝えておいたが・・・」
そのとき、ちょうどパンシュファルシが運ばれてきた。羊の内蔵を使った、少々クセのある料理だ。
「君、パンシュファルシが好きなのかい?」
ルシアンがさりげなくチーフを鼻に当てつつも、侮るような様子は見せずに尋ねる。
「あ、匂い苦手っすか。すんません。
ガキのころは俺もダメだったんすけど、現役のときに食えなかったもんで」
「口臭や体臭にも気を遣うのか?」
「そっすね。尾行中に『なんか臭くない?』って気付かれるとか、伝説級の笑いものっす」
庭師は、もともと細い目を、更に細めて笑った。
「君にとって、自由の象徴というわけかい。それを咎めるなど無粋だね」
そう言って、ルシアンはフォークですくい、ひと口だけ味わう。
「・・・なるほど。これは、アンブレネが合いそうだね」
―――こうやって、人の心を自然に掴んできたのか。なんとも魅力的な男だ。
ちなみに、アンブレネとは、濃い琥珀色の蒸留酒である。
「では、アンブレネにしようか」
私は手を挙げてウェイターを呼び、多めに支払って、残りはチップに回す。
「次期侯爵様、言ってくれれば俺が行きますって」
「まずは、落ち着いて腹ごしらえしなさいよ」
そう言って、ルシアンが庭師の方に皿をそっと寄せた。
「二杯目はそれぞれの好みで選べば良い。
とりあえず、パンシュファルシに負けないスモーキーなやつを頼んだから」
母上が関わっている店なら、値段こそ庶民的でも、味に妥協はしていないはずだ。
ルシアンがヒューと軽く口笛を鳴らす。
・・・実のところ、いちいち席を立つのが面倒になっただけだったが、酒場の雰囲気を壊さないですんだだろうか。
庭師が冷めてしまったムール貝のフライに、ビネガーをかけながら話し出した。
「いずれヘムリーズ伯爵家は、お取潰しにして王家預かりにします。
あの温室、もう証拠になるものは残っていませんけど、念のため跡形もなく更地にしときたいんで」
ニヤリと笑みを浮かべる。
「実は、婿殿の『紐』がまだ辿り切れてないんすよ。
じわじわと経済封鎖か、後ろ暗い部分をついて一斉検挙に踏み切るかは・・・
関係者が出そろってから検討する感じっすね」
「・・・元伯爵夫人は?」
ルシアンが少しそわそわした様子で訊いた。
「んー、一生、こっち側の侍女の監視はつきますけど・・・どこまで自由に生きられるかは、状況次第になりましたね。
モードちゃんの暴露答辞があったおかげで、出せる情報は出して行く方針に変わりましたから。良かったっすね」
庭師はルシアンを肘でつつく。・・・隣国の王弟相手に、こいつも自由なやつだ。
「くくく、公爵閣下の貢献次第で、もうちょい温情措置が入るかも、ですよ。
ぜひ、骨身を惜しまず、ご協力を」
ルシアンが苦笑いしながら肩をすくめる。
「ふっ、そう来たか。
僕を囲い込んで、手足のように使うおつもりだと?
この国の国王陛下の『手の長さ』には驚かされるな。
一体どこまで把握して、どこまで企んでいるのやら・・・まるで見当もつかないよ」
いやいや、隣国の前国王―――つまりルシアンの父親もなかなかの策士だったと聞いているが。
「だから、大抵のことは国王陛下の掌の上なんすけど、あの卒業式の答辞!
あれは流石に予想つかなくて。
報告したら絶句してましたよ。珍しいモン見れたわ。モードすげーっすよ」
ただ酒の肴を楽んでいるという風情で、庭師はジョッキをあおった。
ちゃんと飲み干してからアンブレネに手を出すあたり、律儀な性格だと思う。
ひとしきり食べ終えると、庭師は「別室」の様子を見に行くと席を立った。
「そろそろ、なんか吐いたかな~」と鼻歌まじりに。
手についた脂をペロリとなめるその仕草は、まるで肉食獣のようだった。
・・・我が家は、とんでもない人物を抱え込んでしまったらしい。
いや、そもそもは父上が、先代のヘムリーズ伯爵に押しつけた業務が発端か・・・。
それにしても、最近やけに、濃くてクセの強い人間ばかりが俺のまわりに集まってきている気がする。
グラスの中で、アンブレネが氷から溶け出した水と混ざり合っていく。
そのゆるやかな渦をぼんやり眺めながら、俺は途方に暮れていた。
―――ルシアン・ディ・アルヴィーノ公爵の、建国祭で元伯爵夫人を『いかに落とすか』という作戦の詳細を聞きながら・・・。
前半の重い内容で離脱せず、最後までお読みいただき、ありがとうございます。
前作「モードの過ち」で、モードがアダルドチャイルドらしい行動を取っているので、解説させてください。
アパート暮らしの際、家令が「外出してほしくない」と言わんばかりの態度を見せたとき、モードはそれを深く受け止めてしまい、買い物に出ることをせず、林檎で飢えを凌いでいました。
普通なら、「家令を説得する」「命に関わるから強行してでも買い物に行く」といった行動に出るのが自然です。
しかし、モードは「言いつけをやぶると面倒だから」と諦める選択をしました。
これは、子ども時代に自主性を伸ばす機会が極端に少なかったため、自らの欲求より他者の意向を優先する習慣が染みついているせいです。
本来であれば、こうした問題に向き合い解決していくことで、「家庭」が形成されていきます。
しかし、あの時点の三人(モード、家令、ミレイユ)では、関係性が機能不全のまま固定されかねないと判断し、彼らを子爵家へ引っ越しさせました。
家令の重すぎる愛情に違和感を感じてくださる、人権感覚の鋭い方々が多くいらっしゃること、とても頼もしく思いました。
今後とも、よろしくお願いします。
(追記7月3日)
フランス寄りの世界観で書いていたのに、がっつりイギリスのパブを描いてしまいました。
いくつか訂正したのですが、丁度いい言葉が見つからず、架空の料理を創造したものがあります。
・ウィスキー → 濃い琥珀色の蒸留酒 → アンブレネ(造語)
・ハギス → 腸の詰め物 → パンシュファルシ(造語)