【第2話】11:46
心臓が早鐘を打つ。
けれど、その鼓動さえも音にはならず、胸のあたりから焦燥を示す「灰色」の靄もやとなって立ち昇るだけだ。
僕は震える手でカメラをウォーレンに返した。彼は満面の笑みで親愛の「赤茶色」を放ちながら、僕の背中をバシッと叩く。
「サンキュ! いい写真だ。また明日も頼むぜ」
また、明日。
永遠に来ない明日を、彼は疑いもしない。
ウォーレンが雑踏へ消えていく中、僕はその場に立ち尽くしていた。
ここにいるのに、いない。僕は誰かの記憶の残滓なのか、それとも幽霊なのか。
ふと、袖を引かれた。
あの白い少女、シエラだ。
彼女は僕の顔をじっと見上げると、無言のまま指を差した。
その先にあるのは、広場の中心──時を止めたままの時計塔だ。
まるで彼女に操られるように、僕は重い木の扉へと足を向けた。
塔の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
埃の匂い。そして、カビ臭さの中に混じる、懐かしい木の香り。
螺旋階段を上った先、巨大な歯車が錆びついて動かない時計の真裏に、それは置かれていた。
グランドピアノ。
黒塗りの塗装は剥げ、弦には埃が積もっている。
まるで長い眠りについた棺のようだ。けれど、その鍵盤だけが、微かな月明かりを浴びて白く光っていた。
吸い寄せられるように、僕はその前へ座る。
指が覚えている。鍵盤の幅、沈み込む深さ、ハンマーが弦を叩く感触。
(……音は、出るのか?)
躊躇いは一瞬だった。
僕は人差し指を、鍵盤の中央、「ド」の音へと落とす。
ポーン……
世界が、震えた。
色が弾けたわけではない。光が差したわけでもない。
ただ、空気が振動し、鼓膜を揺らす「物理的な音」が響いたのだ。この無音の世界で、唯一絶対のリアリティを持って。
その瞬間、ポケットに入れたガラス玉が熱を帯びた。
脳裏に、ノイズ混じりの映像がフラッシュバックする。
『暁、約束して』
白いベッド。消毒液の匂い。
泣いている誰かの声。妹か? それとも恋人?
『……決して、ピアノを────ないで』
言葉が途切れる。
もっと聞きたい。思い出したい。この声の主が誰なのか、僕は誰のためにピアノを弾いていたのか。
「……続きを」
僕の喉から、緑色の光ではなく、微かな「音」が漏れた気がした。
衝動のままに、両手を鍵盤に叩きつける。
和音が響く。錆びついた弦が悲鳴を上げ、その振動が塔全体を揺さぶる。
鍵盤を叩くたびに、ガラス玉から溢れ出した光が、部屋中を乱反射した。
それは感情の色ではない。記憶の色だ。
そして、信じられないことが起きた。
ギギギ……ガガ……
頭上で、巨大な錆びついた音が鳴り響く。
見上げれば、秒針が──11:45の先へと、カクリと動いていた。




