ゆりかもめとポリアンナ
「この行列にならべば、ゆりかもめの切符を買うことができるのか」
彼はそのようなことを、英語で私に尋ねてきた。
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10年ほど前の話。12月だった。少し寒かった。
私はクライアントとの打ち合わせのために、新橋に来ていた。
打ち合わせは午前10時開始だったが、例によって09時過ぎには新橋駅に到着していた。
約束の時間に間に合うだろうか、とビクビクしながら移動するのがどうも性に合わない。そういう理由もあるが、本音は
「誰かのせいで自分が悪者と思われるのが不愉快」
だから。
たとえば電車遅延だとかトイレが混雑してただとか、自分に起因しない理由で遅れてしまったとしよう。事実に基づいて理由を相手に説明しても
「ああハイハイ、言い訳は要らないから」
みたいに思われていたら気分が悪い。
そんなわけで、約束の時間に遅れないように早めに動くことが習慣となり、かなり早めに待ち合わせ場所に到着するようになっていたのであった。
新橋駅に到着した私は、一服しようと喫煙所に向かおうとしていた。
それを阻止するかのように、ゴロゴロとスーツケースを引きずりながら近づいてくる中年と思しき白人男性。
ん?なんだろう?などと思っていると、滑らかな英語で話しかけてきた。
「この行列にならべば、ゆりかもめの切符を買うことができるのか」
彼はそのようなことを、英語で私に尋ねてきた。
そして彼が指差す先には……年末ジャンボ宝くじの購入者の行列。
あー、違うよ、向こうだよって教えてあげなきゃ。でも困ったな、うまく言葉が出て来ない。仕方ない、駅までお連れするか……
「あー、えっと、あー、オーケー、アフターミー」
己の情けない反応に、ただただ残念な思い。まったく何たるザマよ。
大学まで出させてもらって、それなりに英語も勉強してきたはずだ。なのになんだ、考えて考えてやっとヒリ出したのがコレか。もうちょっと気の利いたこと言えなかったのかよ。
でも。通じちゃった。
そしてスーツケースさん、やおら後ろを向いて
「カマーン!」
って叫ぶわけ。そしたらゾロゾロとスーツケースさんのお仲間が登場。30人くらいはいただろうか。
仕方ない。行くか。
腹を括った私は、彼らを連れて一歩踏み出した。
中年太りのザ・日本人おじさんと30人のスーツケース白人おじさん。グリム童話にもイソップ物語にも出てこないであろう異様な団体はゆっくりと移動を開始した。
新橋駅のガードを越えて左折。行列が途切れて後方の人がはぐれないよう、少し歩みを遅くしたり。不慣れな即席添乗員として、できることはやった。
ロータリー沿いにゆるやかに時計回りに進むと、ゆりかもめの新橋駅の階段の手前まで辿り着いた。
この階段をのぼるとゆりかもめの新橋駅です。そう言いたかった。しかし例によってうまく言葉が出てこない。
「ユリカモメ・シンバシ・ステイション、オーバーゼアね」
すまない、これが俺の精一杯だよ。落胆とか慚愧とかが不格好に入り混じる。でも俺は頑張った。30人の迷える仔羊に道を示すことができた。よかったじゃないか。ポリアンナも認めてくれるに違いない。
ほんの一瞬の静寂。
仔羊達が私の声に耳を傾けるべく静かにしてくれた結果なのか、あるいは息絶える前の走馬灯モードによるものなのか。
そして、スーツケースの民達の大歓声。ハイタッチで喜びを分かち合う者あり、ガッツポーズを決める者あり。
最初に声を掛けてきたファーストスーツケースが握手を求めてきた。サンキューとか言ってた。
その後も一人ひとり、順に握手を求めてきた。まさかの握手会開催in新橋。それぞれにハバナイスデイとかグッドラックとか、そんなことを言って彼らを送った。
彼らが全員見えなくなったのを見届けて、私はクライアント先に向かった。タバコを吸う時間はなくなっていたしアポイントの時間ギリギリになってしまったが、心はとても穏やかであった。