とりあえず不明
天宮楓が留年していたことを知ったのは、徹が二年になってちょうど二ヶ月ほど経ってからだった。
しなやかで落ち着きがあり大人びている楓は、皮肉や蔑みでなく、クラスで一際浮いている存在だった。いや、浮いているというよりも、輝いていると言った方が適切だろうか。とにかく、その妖美さは筆舌に尽くし難い。
ヘーイヘイヘイヘーイヘイ!
脳内で『学園天国』を再生し小躍りして見せたのは、徹だけではなかったはずだ。二年になって初めての席替えで、クラス中が賑わいだしていた。狙うのはもちろん、彼女の隣だ。
天宮楓がなぜ留年してしまったのか。その真相を知っているのは彼女のみである。中間テストの成績にしても、彼女が赤点ばかりで留年したとは思えない。寧ろ、なぜ留年なんかしてしまったのか、謎を一層深めるばかりだった。
楓が留年してしまった理由は単なる出席日数が足りないためだったと、彼女の秘密を知って数日もしないうちに徹は聞いた。妥当だとか思いながらも、なぜか腑に落ちない。たったそれだけだろうか。そんな思いを抱くのは、徹だけではない。その美貌ゆえ、どうしても彼女の裏事情が脳裏に流れ込んでくる。
そして、何かと謎の付き纏う彼女の隣を、自分の特等席としたのは徹だった。公平なくじ引きとはいえ、楓を狙う男子たちの視線が痛すぎる。
席替えをして二週間が経った今でも、徹はこの社を勝ち取ったときの喜びを思い出してはにやけていた。しかし、それと同時に不安にも似た紫がかった靄のような、恐々とした思いも感じてしまう。
ここを自分の特等席とすることができたことは、確かに喜ばしい。しかしだ。逆に、天宮楓の隣に来てしまったがために、彼女を直視することが億劫になってしまい、さらには授業中なんて、腹の具合はどうだとか、答えるとき声が裏返ったりしないだとか、彼女に嫌われたくないがために一つ一つの行動や言動に細心の注意を払っていかなければならない。下手なところは見せられなかった。まさか、こんな境遇にさらされるとは、席替えのときはさらさら、それこそ微塵も思い描かなかったのだ。
唯一、この席の特典といえば、楓が窓際にいるおかげで、この少し暑くなってくる季節のおかげで窓を開けるようになり、そこから吹いてくる風が彼女の甘く清楚な香りで徹の鼻をくすぐることくらいだ。
今も時折吹く風で彼女の香りが伝わってくる。徹はふと横を覗いた。本当は一瞬目が合うことを期待していたのだが、彼女は窓の外に視線を注いでいる。
徹は知らず知らずのうちに、楓の後ろに座る中崎圭吾を睨んでいた。この席がここまで苦しいとは思わなかったのだ。今となっては、圭吾の席が本当にうらやましい。後姿とはいえ、授業中でも気にせずこんなに近くで天宮楓を見つめられていられるのだ。
しかし、彼はその特権を活かしていない。少し眠る振りをすれば彼女の妖艶なロングヘアーに触れることも叶わないわけじゃないのに、圭吾は真面目に黒板とにらめっこをする。
さすがは優等生。もっと男の楽しみに入り浸れよ。
徹の知る限り、中崎圭吾は天宮楓に興味がない。喜ばしい反面、そんな圭吾が楓の後ろの席にいるということが妬ましくて仕方がなかった。
「ちゃんと前向きなさいよ」
「はい、お姉たま」
不意に掛けられた声に自身でハッとする。同じクラスにいるどの女子よりも大人びているその容姿のおかげで、妄想の中で夜な夜な叫び続けた彼女の呼称を、たった今口走ってしまったのだ。
脇腹に妙な汗が伝う徹の目と、何を考えているのかもわからない、無表情な楓の目が重なる。あ、目が合った、とかそれどころではないことを、徹は重々承知している。彼女と口を利くのも実は初めてだった、とかそういう話でもない。
「徹ちゃん、ちゃんと前向こうね」
顔を傾け、やんわりと表情を緩ませていく天宮楓が、本当に反則だと思った。
徹の中で、彼女が“お姉たま”という位置付けに確立してしまった、ということさえももはや考えられなかった。一分にも満たないはずなのに、徹にはあまりにも長すぎる時間であったかのように思えた。心臓が止まったというのはこういうときに使うのだろうか。とにかく、初めての感覚だった。
授業中ではあるけれど、今まさに先生に当てられたような緊張が徹の中を走り回っていた。いや、今なら当てられることも怖くないくらいだった。
火照ってる徹の目に、もはや黒板の文字など意味を成さなかった。数学の先生も校内では噂になるほどの美人なのに、今の徹にとっては単なるおばさんへと成り下る。
「ねえ、消しゴムとってくれない?」
不意に掛けられた声に体が思わず反応する。くすりと笑う彼女を、徹は再び反則だと思った。
少し体を屈め、楓は徹の足元をそっと指差した。窓から差し込む日差しが彼女の腕をなでた。徹がその白々としなう腕に釘付けとなってしまったのは言うまでもない。
彼女の肌の白さを際立たせる、学校指定である水色のブラウスを見て徹は季節の変わり目に気づいた。
衣替えのシーズン。彼女は早々と夏服へと衣替えしていた。確かに最近は気温が高くなり、体育の日なんて冬服では息苦しい。
たわわな彼女の腕から手先へと視線で伝い、指差す方向へと追っていく。
そういえば、去年の七月頃に友達が話してたっけ。徹は指先で消しゴムと格闘しながら思考を巡らせていた。
「女子ってさ、プールに入った後、なんであんなにエロいんだろ?」
うわぁ、だとか、何言ってんだよ、とか、お前エロっ、とかはしゃいでいたけど、もうすぐ体育はプールだ、とか思っている自分も十分にエロいではないか。
ようやく掴んだ消しゴムを握り締め徹はゆっくりと体を起こしていく。
スラリとした美脚が視界に入りドキッとし、それがスカートから伸びていることを視認し更にドキッとする。
友達があんなことを言うもんだから。自分がそれを思い出してしまうもんだから。消しゴムを渡す瞬間、天宮楓のふとした笑みが想像で濡れてしまった。
艶やかな髪の毛は、乾きかけの独特な光沢を帯び妖しい甘さを匂わせる。日差しを背に、暗がりになる顔は青白く照り映え、リップグロスも塗っていないのに必要以上に柔軟性と弾力性を兼ね備え輝いている。ちらりと見える胸元の上で、彼女の唇がぷるるんと上下し、ありがとう、と発音させる。
「もう、死んでもいいかも」
「じゃあ、死ねば?」
ハッと止まってしまった徹が、お姉たま、と呟くのを楓はかろうじて聞き拾った。
「ご、ごめん――」天宮楓がゆっくりと俯いていく。「キャラ、間違えちゃった」
いや、謝るところじゃないよ。少しの恥じらいを見せる楓に、徹は少し嬉しく思ってしまった。それと同時に、内心は“お姉たま”を取り下げようとさえ考え始める。
「ねえ徹ちゃん、死んじゃってもいいのよ?」
“魔女たま”だった。“お姉たま”と叫んでいた日々を投げ捨てたくなるほど、その慎ましくもいやらしい満面の笑みと生気を一気に損なわせるその言葉のギャップは、“魔女たま”に足りえるものだった。
反則的な楓に、徹は視線を送ることができなくなってしまった。これ以上彼女に視線を注いでいたら、授業についていけなくなってしまう、などと余計な言い訳まで自分に言い聞かせる始末だった。
「ちょっと前は飛べたんだよなぁ」
天宮楓が空を眺めているのを、徹は視線を注がずに想像で済ませていた。
「徹ちゃんは飛んだことある?」
そんなメルヘンチックな言葉を別に望んでいたわけではない。
徹がこちらを見ないのも気にせず、楓はプリントで折った紙飛行機を窓から放り投げた。ゆらりゆらりと風に煽られ、波打つように浮いたり落ちたりを繰り返す。校庭を駆け回る生徒たちの集団の方へと揺れて行くのを彼女はじっと見守った。
音なんて聞こえないけど、一人の生徒と紙飛行機が重なり、一団がこちらを見てくるのを確認する。
「あはっ! マジ、ウケるんですけど」
その言葉に徹が反応を示すのに気づくと、再び楓は謝った。キャラを間違えたらしい。
「徹ちゃん、見てごらん。面白いよ」
もはやキャラとか要らないような気がしていた。
クラスの女子が可愛いというのならば、天宮楓こそ美しい、と徹は思っていた。きゃぴきゃぴとし、体育の時間お目当ての男子に黄色い声援を送り、甘い上目遣いを披露する彼女たちも、十分男子たちの間でアイドルになれる素質を持っている。しかし、天宮楓には敵わないのだ。どんなに大人びて見せようが、可愛く見せようが、彼女の前では霞んでしまう。まず香りからして違う。目つきが違う。体つきが違う。雰囲気なんてまるきり違う。男どもを魅了するオーラが違うのだ。
そんな彼女の知られざる一面を見られて、徹は半ば満足していた。
「またね、徹ちゃん」
授業も終わらないうちに、彼女は立ち上がっていた。
死亡フラグなんて、いつ立ったっけ。
喚き立つ教室の中で、徹は窓から空へと溶けていった天宮楓の残像を思い描いていた。
天宮楓に興味がないと思っていた中崎圭吾までも、窓から顔を出し下を向いている。何かを叫んでいるようだけど、徹の耳には何も入ってこない。
ただ不思議に思っていた。あんなにも心を躍らせて天宮楓の隣の席を望み、彼女にいいところを見せようとか思ったり、少しだけ目を合わせようと必死になったりしていたのに、楓の席を見つめるだけで今は何も感じない。
本当なら、圭吾と立場が逆になっているはずなのに、徹は天宮楓に興味がなくなっているようだった。
またね、ていつだろうか。
天宮楓の言動が、行動が、とりあえず不明だった。
【完】