No.9
世界は突然色を失っていった。それは人間の生命力さえも奪っていく。
それに伴い、人々は口々に神様が我らを見限ったのだとか、もう寿命なのだとか世界の終わりだとか呪いだと声を上げた。そんな中、この現象を止める人間が極小数見つかり、その中でも物凄く少ない確率で色を戻すことのできる人間が発見された。
それは、そんな世界で生きるとある青年と少女の残酷な話──。
全てのものが色を失う世界では、人々が感情までも全てを失っていくしかないのだった。対抗できる術を持たない人々に、誰が、誰に、どう手を差し伸べる?世界の終わりを悟った大人達は、そんな考えを即座に捨てて世界の秩序が乱れ始めた。そんな中に、僕のような人間が数人、世界で見付かった。少しづつ、少しづつ増えていくその人種の特異性は、消えた特定の色を取り戻すことが可能だということ。世界が放って置くわけもなく、僕らは産まれた時から当たり前のように世界のために働かされることを余儀なくされた。
「こんな国……早く滅びればいいのに。人体実験でもなんでもしてワクチンを作ったりなんだりすればいいのに。人を馬車馬のように扱って……」
日本に産まれ、日本のために復興活動と色が失われるのを止める仕事を初めて早十五年程経っただろうか。歳がまだ一桁のまだ物心着く前からもうこの仕事をしていた。この馬車馬のような日本のための慈善活動。僕は産まれた時からこの職に着くことが確定していて、産まれる前からこの職に着ける可能性と適正を期待されていた。
僕の両親もこの仕事をしていたから、僕に両親の記憶はない。それもその筈で両親は仕事のために僕が産まれてからも特別な機関に僕を明け渡した後もずっと働き続けていた。七歳の時に君の両親は仕事中にその役目を終えて死んだのだと言われたのは記憶に古い。その通告をしてきた人の顔を覚えていないくらいには僕にとってその発言のインパクトは薄かった。何せ僕は両親の顔を葬式で初めて拝んだほどなのだから。名誉な仕事とは名ばかりの、こんな生贄のような両親の同じ運命を辿る以外の道がないこの仕事を僕は今日も悪態を付きながら続けている。
ヒーローなんて柄じゃない。柄じゃないが僕はやる。やるしかないから。
空が少しづつ色を失いグレースケールとなって次第に透明になっていく。少しづつ蝕まれる世界で、僕は心の底から笑えなかった。笑えたことなんて生まれてこの方一度も無い。そんな暇も余裕すらもなかった。僕の名前を付けたのは両親じゃない。No.9から音を取って機関が勝手に名付けたらしい。
静まり返った地域。僕はその無色の世界に色を与える。僕はパレットであり筆だった。そしてこの世界は透明な画用紙。同じ色を生み出し、世界を再生させる。再生していく世界はどこも在り来りな風景ばかりで飽きてくる。産まれてこなければと何度思ったか、もう数え切れないほど思った。
この世界に色を与えられるからと色を初めて失った日本の領土内の海から街を少しづつ構成させてきた。感謝なんてされない。街の人々は僕らの存在を知らないしこの仕事をするのは当たり前だというような機関しかいない人生で、僕はどうやれば感謝される?そう、認識されない幽霊のような僕らが感謝なんてされるはずもなかった。
ぐったりと疲れて家に帰る。今日からお世話係を雇ったから家の中には人が居る。帰れば人がいるなんて生まれてこの方二十年初めてのことだったから胸がザワザワと五月蝿い半面胃がキリキリと静かに音を立てていた。疲れた体でドアノブを捻って中に入る。玄関には少し小さめのスニーカーが行儀良く並べられていた。家に入り、リビングに入ると今朝までゴミとポストに入れられるチラシだらけだったダイニングテーブルは綺麗に片されていた。
部屋は朝とは比べ物にならないほど活き活きしているのにとても綺麗で、普段は一ミリも電気なんかつけず引越しの時でさえ自分ではなく一から十まで全て業者に任せたせいで一度も明るい部屋でなんか過ごしたことなんか無かったせいかそこはまるで別の人の家の中のようだった。漂う味噌汁と炊きたてのご飯の香りと暖房や換気扇の回る、いわゆる生活音で溢れていた。何より「おかえりなさい」という言葉。僕は今までそんなこと経験したことなかったから最初こそ戸惑ってしまったが、それが普通でこれが普通に生きてきた人間の日常なんだと知った。
「ぁ……の、えっと、」
「えっ、ん…?癒憑さんですよね……?」
「あっ、えっと、はい、癒憑です…けど」
もうずっと呼ばれていなかった苗字に困惑しながら、そういえば苗字は癒憑だったと思いつつ返答をすれば、彼女はほっとしたように再びおかえりなさいと花の揺れるような声で言う。お淑やかで落ち着いた感じの印象。僕におかえりなんて言葉を言ってくれたのはその彼女が初めてだった。
「あ……は、はい…こ、これから、よ、よろしく…お願いします……」
微妙な反応をする僕にも全く悪意を持つことはなく、彼女は僕の言葉にまた「はい、よろしくお願いします」と柔らかく返してくれた。こうして、僕の日常が色付き始めた。
彼女は雛之瀬心恭さんというらしい。歳は僕より三つ下の十七歳だという。まだ高校生でまだまだ世間を知らないのだろう歳だが、僕と同じで働いている。彼女はもちろん僕の仕事は知らず、また僕も彼女のことについて詳しくは知らない。機関は僕らを同じ世界に閉じ込めておきながらも、僕のプライベートは基本秘匿され、また彼女のことも何も教えてはくれていなかった。
その日は彼女の作ったご飯を彼女が掃除した部屋で食べ、彼女が洗った湯船に彼女が溜めた湯に浸かり、彼女が整えてくれたベッドでゆっくりと眠ることになった。彼女は二十時には帰ってしまったが、僕の一人暮らしだった部屋には朝起きた時の香りと彼女が炊いたご飯の匂いが混ざりあって少しだけ残っていた。
寝て起きて、仕事に行って、仕事から帰って寝るだけの僕にとってそれは当たり前となった生活が少しずつ色付いていく。家に帰っても僕に話しかける人なんか誰も居ないのに、喋ること自体あまり好きではなかったはずなのに何故か彼女と喋れることが少し嬉しく感じてしまう自分がいた。
でも彼女はただの仕事相手でそれ以上でもそれ以下でもないことは分かっているから、僕はいちいち舞い上がってしまう感情を叱咤していた。初めてだった。沢山の女性と仕事等で人並み以上に関わってきたはずなのに心が高鳴ることもなければ、感じたことのない胸の温かさを知ってしまった。
こうして僕の日常は少しずつ色付き始めた。彼女と初めて会った次の日から、彼女は毎日僕を迎えに来てくれるようになった。彼女が作ってくれた少し甘めの卵焼きやお味噌汁の味は僕の舌に馴染んでいって、僕は初めて誰かと食べるご飯がこんなにも美味しいことを初めて知った。誰かと囲む食卓も誰かと共に過ごす時間も全て生まれて初めてのことだった。それは酷く眩しくて、僕の胸がキシキシと音を立てるのが少しだけ心地良かった。
「心恭さん…は僕の仕事のこととか、気にならないんですか…」
彼女が来て一緒に食事するのが当たり前のようになってから、彼女にそう聞いたことがある。どうにも平和ボケした僕のずっと気になっていたけど聞いた場合の利益がないからと聞くことなんてなかった事だった。彼女はそんな僕の質問に少しだけきょとんとした顔をした後、考え込むように小首を傾げた。
その仕草すら可愛いなんて思ってしまうのは僕が彼女に恋をしているからなのかはたまた彼女が今まで見てきた女性の中で飛び抜けて可愛く見えるのかなんて分からないが、彼女の動作一つ一つに目が離せなかった。二十歳になって今更中学生みたいな自分の単純さに頭でも打ち付けたくなる。
彼女は少し考えた後に、花の揺れるような声で僕に言った。それは僕の心を酷く揺さぶるには十分で、僕は思わず泣いてしまいそうだったのを堪えて彼女を見ることしか出来なかった。
「……癒憑さんが何をしていても、一緒に居れば、とても凄いお仕事をしてるんだなっていうのはわかりますよ。それを言わないのは何か事情があるからなんだろうなっていうのも。だから頑張って下さいって毎日言うんです」
彼女は僕の目から視線を逸らすことなくそう言った。彼女の透き通るような淡い月色の瞳に映る僕は昔と比べ物にならないくらい生気を帯びていて何故だか無性に泣きたくなった。彼女の温かさが、産まれてから一度も触れてこなかった類のもののせいかちっとも耐性が無い。きっと彼女はそんなこと考えてもないのだろうけど。
それから時は流れ、彼女を雇ってからあっという間に一年が過ぎた。彼女はよく笑う女性だった。仕事をする時は落ち着いていて、優しくて静かで控えめな笑顔が特徴的で可愛らしいという印象で、帰宅すれば毎日僕にお疲れ様ですと声を掛けてくれて、土日祝にはお昼頃に来て、仕事で疲れて僕がまだ眠っている時は起こすことも無くいつ出るか分からない上に忙しい僕のために弁当まで作ってくれる。イベントの時期は僕と時間が合わなくても多少遅くまで居てくれて一緒に祝ってくれた。誕生日やクリスマスや正月でさえ僕は気にしたことなんてなかったのに。
こんなに優しくされるのは初めてでなんだかむず痒いけれどとても心地良かったし幸せだった。仕事をしている時もずっとその事を考えてしまって何か土産でも買って帰ろうかな、なんて現地で土産を選んだりなんかしている時間が増えた。昔は直ぐに帰りたくて堪らなかったはずなのに。
そんな幸せな生活もこんな仕事をしていれば終わるのは仕方がなかった。本当にたまたまだったのだ。彼女の修学旅行先と仕事が被ったのを知って眠れず、先に行ったせいで誰もいないのに彼女の存在を誇示する家の中でやっと眠りにつけたのは朝方で目が覚めたのは夕方だったから急いで向こうに向かった。スマホの通知を切ったままにしていたせいで気付かなかったのだ。現地が大変なことになっているだなんて。
現場に着いた時には世界は色を亡くし続けていて、なんとか人々は助かったけれど今まで見た事がないほど脅威的なスピードで色を失くすその中で、行方不明だと言われて名前と顔写真を見せてもらった子が一人消え掛かりながら倒れていた。どうせまた危機管理能力の欠如と人助けかなにかをしていて充てられたのだろう。どうして彼女なんだろう、世界は理不尽ばかりだ。産まれた時から理不尽ばっかり。泣きそうになりながらそんな事を考えていた。仕事は終わった。侵食は止めたし、後は街に色を戻すだけ。
僕は色を戻すことが出来る希少種な人間。けれど、無色透明になり生力を奪っていくこの侵食に充てられた人間は、助けられない。人間は物凄く生きるのに沢山の生力を要する上に燃費も悪い。そんな人間を生かそうと思えば僕と同じくらいの力がある人間が最低でもあと二十人は必要で永遠に彼女の傍からは離れられなくなる。そんなことは不可能だった。
「……なに、してるんですか…?」
生命力を奪われ続けている彼女は体力が残ってないのか、何も答えない。目を瞑っているその姿は帰ると時折疲れて眠っていた彼女とそっくりで、暫くしたら起きるんじゃないかと思わせるくらい見慣れた顔で、けれどすぐにでも消えてしまいそうなくらい儚くて。人が死んでいくのなんて慣れていた。同僚も先輩も後輩も、親でさえこの仕事で死んだ。見慣れた光景だ。最後には骨どころか跡形も残らないその現象を、僕はもう六歳の時には経験していた。
それなのに、頬が熱くて仕方が無い。大勢が生きたのに彼女だけが助からなかった事実に、目を覚まさない現実に、どれが理由なのかは全く分からないけれど、ただ悲しいだとか寂しいという事実が僕の中で生き続ける。もうあの月色の綺麗な淡い黄色の瞳が見える事は無い。瞼が邪魔で見えなかった。脚に充てられたのか少しづつ足から色が失われていく。透明になって雛之瀬心恭という存在が消えていく。
彼女がお揃いだと言って嬉しそうにしていたサラサラの長髪が段々と短くなっていき、補色同士の瞳だと嬉しそうにしていた瞳は今や見ることさえ叶わない。彼女の頬に触れた手から、彼女が潜在的に持っていた適正外の少ししかなかった「色」が流れ込んでくる。遠い親戚にでも血がいたのか、偶々持っていたのかは分からない。ただ優しい淡い月色の綺麗な瞳の色が流れてくるのがよく分かる。真後ろを向けば灰色の世界、その先にはいつもなら彩られた街があるけれど、僕の視界に移るのはただ永遠のような無色透明な世界だった。僕に流れ込んだ彼女の色が、ただ瞳に映っている気がした。僕に、足りなかった色だった。
この一年以上の思い出と共に彼女が僕の瞳に浸っているみたいだった。彼女の色を通して見た世界は、無色透明なのにずっと広くて綺麗に見えた。彼女の綺麗な白髪が揺れるように涙が零れ落ちる。綺麗な透明だった。僕はこの時、産まれて初めて泣いた。
──彼女は死んだ。僕は生きた。この世界は今日も理不尽だった。青色の瞳とともに在る月色だけは、ただ存在を誇示するように輝いている。
世界観が凄く特殊なので雰囲気でしか伝わらなかったと思います。機会があればまたこの世界観で書きたいと思ってます。今回の主人公の名前はあらすじに。