6 契約
左手の窓ガラス越しに夕日が差し、ブースの仕切りが机に大きな影を作る。スマホで時刻を確認すると、そろそろ閉館時刻だった。参考書類やノートをまとめ、鞄にしまって席を立つ。
椅子を引く際、思いのほか大きな音がした。しまったな。まあ、テスト前でもない時期の閉館間際なんて、どうせ俺以外誰もいないし……と鞄を肩にかける。ふと右側から視線を感じ、振り向いて俺は絶句した。
「あれ? 浅葱いたんだ。全然気付かなかった」
きょとんとした顔の川野が、先ほどのテーブル席に座っていた。しかも、例の英語の教科書を開いたまま。俺は吸い寄せられるように川野の席へ向かい、彼女が見ているページを確認する。
「……何やってんだ」
川野が開いていたのは、授業で音読した例の英文のページだった。俺の視線に気付いた川野が、ページの適当な場所を指差して早口で言い募る。
「あー、これ? ほら、今日の授業の私の発音、酷かったじゃん? だからちょっとでも正しい発音を覚えて、みんなをびっくりさせたいなーと思って」
「…………」
「まあ、普段はこんなことやらないんだけどね。でも……今日はやってみた。おかげで、そろそろ口が文章を覚えちゃいそう」
「……覚えるくらい口を動かすのは、勉強法としては悪くない。英文を丸ごと覚えれば、英作文はぐっと書きやすくなるし」
気付くとそんなことを口走っていた。川野は目を丸くしている。
……そうだ、俺は川野の頼みを断ったんじゃないか。何偉そうにアドバイスなんて送ってんだ。川野からすれば迷惑でしかないだろう。
自分の浅ましさに身を縮めると、川野ががたりと椅子を引いて立ち上がる。テーブル越しに身を乗り出してきた彼女は、目をキラキラと輝かせていた。
「そうなの!? 音読って、そんな効果があるの!?」
真っ直ぐな目を向けてくる川野があまりに眩しくて、俺は目を逸らし気味にボソボソと答える。
「う、うん。ただ、音読をやるなら、学校の図書室は向いてない」
「あ、それはここ来てから気付いた。普段図書室とか来ないから、声出しちゃいけないのをすっかり忘れてたんだよね。それで仕方なく、口だけ動かしてて……あはは、めっちゃどじじゃない?」
――声を出してはいけないと言いながら、たった今がっつり喋ってるけど。
とはつっこまなかった。この時間は他に人もいないしいいだろう。別に川野の笑顔に見惚れたとか、そういうのでは断じてない。
その川野の表情に、少し影が差した。口元に笑みを貼り付けたまま、真下の教科書に目を向ける。
「でもさ、私やっぱり勉強に向いてないかも。ここに来てずっとこれだけやってたんだけど、ようやくちょっとましになったかなーくらいだし、英語ってまだ他にも色々あるし……考え始めると、キリない気がして。みんなが笑うのも分かるなー」
「……そんなことない」
まただ。また勝手に口が動いた。今日の俺は一体どうしたんだ。川野もびっくりしてるじゃないか。教科書から顔を上げ、「えっ?」と目を見開いている。気持ちは分かるよ。俺も今自分にびびってるから。
それでも口の動きは止まらなかった。いや、たぶん、止めなかった。ほんの1%だけ、俺は自覚的に言葉を紡ぎ出していた。
「川野だって、ちゃんと高校受験に合格してここに来てる。勉強に向いてないなんてこと、絶対にない……と俺は思う」
「……そうかな」
川野がじっと俺を見つめてくる。もう逃げられない。目を逸らさずに頷くと、川野が俯きがちにはにかんだ。
「そっか。……ありがと」
「……やっぱり、勉強教えようか?」
「……は?」
目の前の川野がぽかんとしている。なぜだろう。でも、たった今俺はとんでもないことを口にしたような……ハッ!?
「ちょ、ちょっと待った。今のなしで。あ、いや、もちろん、そっちが良いなら良いんだけど、この間頼みを断っておいて、急に何言ってんだって話だし……それに川野なら、もう他に教えてくれる人を見つけて――」
「良いの!? 本当に浅葱が、私に勉強を教えてくれるの!?」
ぐっと顔を近づけてくる川野から、俺は目を逸らす。
正直、戻せるなら時を戻したい。この間はっきり断ったのに、なぜ俺は自分から蒸し返すようなことを言ったのだろう。かと言って改めて断るのは、余計に精神を摩耗しそうだし……。
「……はあ」
もう、こうなったらヤケクソだ。いいじゃないか、川野に勉強を教えるくらい。要は俺の方から一線を引き、変に彼女と接近しなければいいだけの話。
俺は眼鏡をかけ直すと、期待に目を輝かせる川野を横目に見た。
「あ、あんまり期待してもらっても困る。俺、別に教師じゃないから、そんな高度なアドバイスとかできないし……」
「大丈夫! そういう細かいのは先生に聞くから!」
「あっ……だよな」
「それに、私が浅葱に一番聞きたいのは、勉強しててわからなかったところってより、勉強の進め方だし」
「……なるほど」
つまり、勉強法が知りたいわけか。確かに、それなら――。
「色々、教えられると思う。川野の参考になるか分からないけど」
「本当? じゃあ、これから私の師匠ってことで」
「……師匠って呼び方はやめてくれ」
「じゃあ、先生?」
「それもやめて」
「なんだ、つまんないの」
川野はけらけら笑うと、こちらに右手を差し出してくる。
「じゃあ、契約成立の握手。これからよろしくね、浅葱」
「よ、よろしく」
恐る恐る右手を出すと、川野の手にがしっと掴まれた。緊張のせいか全神経が手の皮膚感覚に集中し、はっきり川野の手の感触が伝わってくる。絹のような滑らかな感じだった。
その時、以前彼女の手と触れた後にした会話をふと思い出した。クラスラインのことだ。そうだ、このままだと俺はクラスラインに入らないまま、クラス替えを迎えるという偉業を達成しかねない。今の内に川野に頼まないと。
「あの、川野。……クラスラインに、俺を招待してくれない?」
「えっ、まだ入ってなかったんだ」
「ぐっ……」
川野、その言葉は俺みたいな陰キャにものすごく刺さる。