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おまけ 良い子は寝る時間



「お兄様、また朝帰りなんて!」

「よく知っているじゃないか、そんな言葉」


 早朝に屋敷へ帰還したレスターは、ひと眠りしてお昼前にようやく起き出したところである。遅めの昼食のために食堂へ赴くと、苦情を申し入れて来たのは妹のトリーだった。

 年の離れた妹はまだ、王子様とお姫様は結ばれていつまでも幸せに暮らしましたという無難な流れの絵本ばかり読んでいると思ったので、兄を非難するために持ち出してきた単語には正直驚いてしまう。


 結婚するまで妹と使用人達しかいなかった侯爵邸である。カークやアリス達に世話を丸投げするのも悪いと思い、用事が終われば家路を急ぐと、お行儀の良い時間帯を外す事は今までも何度かあった。

 領主として結婚した今となっては一家を支える主として、各地の視察や訪問は大事な業務の一環である。明け方に、少しずつ明るくなる空を眺めながら屋敷を目指すのが好きなだけで、帰ってくる時刻以外に疚しい点は何一つない。一番大事なのは家族に決まっているのだが、妹の反応は芳しくなかった。

 

 帰り着いた寝室で、いつもは凛とした佇まいの妻、ティルダが寝ぼけた声でおかえりなさいまし、と夢うつつとした返事を聞くのも悪くない。ああよかった帰って来た、結婚も良いものだと幸せを実感しながら眠りにつくという、以上がレスターの最近の楽しみである。

 しかしこれをやるとつまり、妻帯者にも拘わらず華麗に朝帰りの最低な夫であるらしい。朝食の席では妹の渋面と妻の仲裁に平謝りし、手土産と楽しい報告を冗句を織り交ぜて話すのだが、今日はいつもと少し様子が違った。


 

「今日は義姉様に相手してもらうんです。別に、お兄様への当てつけというわけではありませんので、あしからず」 


 変な時間に屋敷に戻るレスターに、トリーも朝からきゃんきゃん噛みつくのではなく、別の意趣返しを思いついたらしい。勝ち誇った表情で妻の腕を独り占めしている。昼食と一緒にお土産を配ろうとしていたレスターへと見せつけるように立ちはだかった。口ではそうではないと言いつつ、妹の目線は実に挑発的である。後ろで気まずそうな表情の側近、カークの顔を見るまでもなかった。


 お義姉様はお部屋にどうぞ、とちゃっかり手土産だけ回収してから、妹は妻に言い置いて自室へと引き上げて行った。どうやら今の一連の台詞は妹が急な思い付きらしく、妻のティルダはきょとんとした表情を浮かべている。しかしやがて、心得たようにこちらに目配せしてみせた。


「……トリーちゃんのご機嫌を直して来ますから、任せてくださいませ」


 ティルダは静かなやる気に満ち溢れた眼差しでレスターに請け合って、妹の後を追って行った。


 



「全くお兄様は、もう。お義姉様に甘えるか、鼻の下を伸ばしてばっかり」


 さて、ティルダはトリーの部屋へとおじゃまして、二人で仲良くお喋りしながら刺繍を進めた。食事を終えたレスターは自室で大人しく休んでいるらしい、と先ほど使用人から報告されている。身の回りの細々とした持ち物や、春になったら模様替えする寝具に使う予定の図案はお花、選ぶ糸も明るい温かな、そして可愛らしい色の組み合わせを選んで針を刺した。


 隣のトリーが、これはお兄様の、とせっせと作っているあたりは微笑ましい兄妹関係である。


 お茶とお菓子が手配され、暖炉の火は煌々と明るく、部屋を暖めている。義妹は寒いと体調を崩しやすいという話だけれど、今のところはそのような兆候は見られない。

 専属のアリスが支度の合間にこちらへ、大丈夫だという意図であるらしい目線をさりげなく寄こして来たのに応じながら、ティルダも新しい季節を気持ちよく迎えるための準備を、妹と相談しながら進めて行った。



「旦那様は早起きが得意ですから、朝方にはあれこれと世話を焼いてくださいますよ」


 トリーと二人でいる時には、彼女が知らない兄の姿をいつもせがんで来る事が多い。ティルダも差し障りのない範囲で応じ、仲の良い夫婦にはそういう時間もあるのだと、妹のために話をするのだった。

 ティルダも最初は少し驚いたのだが、夫はこちらが起きる頃に、手ずからお茶を淹れたりリンゴの皮を剥いたりと甲斐甲斐しい。それで身体を温めながら、レスターの小粋な冗句やお土産話を楽しむのである。

 侯爵という高貴な身分と飾らない人柄で知り合いも多く、出先で普段は入れない特別な場所を案内してもらった時などは特に饒舌である。目にした景色を嬉しそうに話してくれるのだ。


「遠出がお好きなのは相変わらずですけれど。これはもう、好きになってしまった者の宿命ですから」


 ティルダが穏やかに結婚後の生活を穏やかに謳歌しているように、レスターも同じでいて欲しい。その上でそばにいて欲しいと思っていた。愚痴や不満や希望を一言も口にせずにいたとしたら、それこそ不安である。

 

「お義姉様、そんなにお兄様を思ってくださるなんて。兄は世界一の幸せ者です」


 義妹は感激した様子であった。大げさね、と一しきり二人で笑い、また作業に戻る。これを何度か繰り返していると、そろそろ最後の一杯にしてくださいませ、とアリスが壁時計をちらりと伺った。

 どうぞ、とカップに香草茶を注ぎながら、これは一日の疲れを癒し、気を静めて寝つきがよくなるような配合であると説明してくれた。はあい、とトリーは素直に彼女に応じて、正確に淹れるための時間を把握する砂時計を受け取った。


「お義姉様、笑わないで聞いてくださいますか」


 自分が結婚して他の屋敷へ移った時の事を考える、と義妹は話を切り出した。さらさらと少しずつ流れ落ちていく砂の粒を真剣に見つめている。


「お兄様が無実なのはわかるんです。けれど、私も結婚して、……まだ、誰とするのかはわかりませんけれど。相手が本当に信じられるのかどうか、不安になったりしませんか?」


 年の離れた義理の妹も、いつかは自分のようにどこかへと嫁いで行くのだろう。まるで本当の姉妹のように仲良くなった間柄では寂しいけれど、大多数の貴族階級の娘の義務でもある。ただ、信頼のおける当主の下で話を進めるのだから、そこに関してはティルダもあまり心配はしていなかった。きっとどこへ行っても可愛がられるだろう、という確信はある。


 彼女の将来に向けて不安や疑問を解消しておくのは、義理の姉としての務めである。レスターからも頼まれているので、ティルダはできるだけ安心させるような言葉を選んで口を開いた。

 

「もし仮に、『信じられないのか』となどと詰られたら、誰だって辛いものです。笑ったりなんかしません。私もあなたの兄君も、そんな不実な者は絶対に許しませんから」


 自然と口から出たのは、自分が嫁ぐ時には決して思い浮かばなかった言葉でもある。嫁ぐ前には父の思惑で強引に、それまでの暮らしと引き離されたような気持ちでここへ来たのだから、実際にレスターの本当の為人を知るまでは不安な気持ちの方が強かった。


「今は意味が分からないかもしれないけれど、相手の説明が本当かどうかは、その時の声を聞くだけでわかるようになります、絶対に」

「……それだけで?」


 ティルダが言い切ったので、トリーは目を丸くした。何か相談された際、人から聞いた話、事実として認識しているもの、それから自分の体験をそれぞれ頭の中で消化して話すようにしている。

 ここに来る前に身を置いていた神殿の祭司達には比べるべくもないが、それでも大切な人達の力になれるような経験を得た事に感謝していた。

 

「ええ、トリーちゃんには必ずわかります。このお屋敷で、大事にしてくれる人達と過ごしてきたのですから、仮にそうではないとしたらすぐに、嫌でもわかる事です。本当に尊敬している相手、大事な人に呼び掛ける声がどんな風に耳に届くのか、いつも聞いているはずです」


 視野を意識して広く持つように、そして冷静に身分や立場を考慮しつつ、身分に関係なく様々な声を聞いて判断するように。ティルダは話を上手くまとめられただろうかと少し心配だったけれど、時間通りにアリスの淹れた香草茶を楽しんでいるトリーの表情を見るには、納得させる事ができたらしかった。




 


「……寒いだろう。早く入りなさい」

「起こしてしまったようで、すみません」


 トリーとのお茶会は無事にお開きとなった。使用人に一日のお礼と労わりを伝えて下がらせて、ティルダは明かりを頼りに暗い寝室の扉を開け、中へ身体を滑り込ませた。


 いつもはレスターが寝入っているティルダを起こさないように、細心の注意を払いながら寝台に潜り込むのを受け入れる側である。珍しく、本日は役回りが逆だった。足音を忍ばせ、明かり置いて先に消そうかどうしようかと思案していると、寝台から声が聞こえた。レスターがやや眠たそうに、ティルダを呼んでくれた。


 ふわりとシーツが軽く持ち上げられたその中に、ティルダはありがたく潜り込んだ。寝間着の裾や髪を踏まないように態勢を整えつつ、枕の位置を調整してくれたその横に身を横たえた。湯あみをして、温かい部屋で身支度を手早く整えてくれたはずだが、それでも足先は少し冷えていた。レスターが身体の向きを変えて、長い足をくっつけるようにしてくれた。


「起こしてしまいましたか?」

「いや、実は先ほどまで起きて湯冷ましをもらっていたのだ」

「そうでしたか。妻として旦那様を褒め称えてトリーちゃんは宥めておきましたから、明日ご自分でもう一度お話をしてくださいな。そうしたら、ちゃんとわかってくれますから」


 そうする、とレスターはやれやれと言わんばかりに呟いた。トリーも寂しかったのですよ、とティルダはとりなすように付け加えておく。

 部屋の中は、まだ消していないランタンのおかげで薄明るい。このまま眠るのかと思いきや、レスターは明かりをそのままに、再び口を開いた。


「……今日は二人でどんな話を?」

「誰かを呼ぶ声を聞くだけで大抵の事はわかってしまうのだと教えたら、驚いていました」


 為人は呼び方一つにあらわれるものだと、ティルダは先ほどトリーに説明したように、レスターにも同じ話をした。感心した様子の相手の顔を見ながら、ティルダはずっと聞いてみたかった話を切り出した。

 

「そういうわけですから、旦那様。あの夜、私をお名前を初めてお呼びして、……けっして悪くないとおっしゃったでしょう?」

「ああ、そう言えばそんな事を口走ったかもしれない」


 あの夜のティルダには、夫となった人の言動を聞き返すような余裕や度胸はなかった。レスターはいかにも怜悧な貴公子然としているので、こんなに思いやりのある人だとは思っていなかった。けれど今なら、あれはどういう意味合いでの発言だったのか知りたい気持ちだった、


 問いかけてみると、レスターの一見冷たく映る眼差しの奥が、複雑に揺れ動くのがわかった。ねだられるままに話そうか煙に巻いてしまおうか、一から十まで全て説明したいような、それとも逆に胸に秘めておきたいような。自分に楽しい話を聞かせてくれる時、レスターの眼差しはこんな風にいつもきらきらと楽しそうに踊るかのようである。

それはティルダとお喋りしてくれる時のトリーとも似ていた。初めの頃は似ていない兄妹だと思ったのだけれど、時間を経て認識が変わる事もあるらしい。

 見つめる先でいくつもの感情が行き交い、それからいつものように余裕たっぷりの気配に落ち着いた。


「……その機微について真面目に語るとな、明日の朝になっている可能性もある」


 長くなるぞ、という冗談交じりの脅かしに、ティルダは思わず笑ってしまう。悪くない、と相手にとってはあの時の言葉通りだったのだと解釈する事にして、大人しく引き下がった。


「わかりました、『沈黙は金』と教訓として受け止めておきます」

「……また、いつかな。ところで、そんな事を聞きたがる理由は教えてもらえるのだろうか?」 


 今度は逆に問いかけられて、こちらも少し逡巡する。ティルダはかつて神殿に身を置いていた。祭司見習いとして、上役に相談しに来る者の訴え、それに対する返答や助言、また広く行われている説話の中に、日々の生活に付随する悩み事の答えになるようなやり取りがいくつもあった。


 けれど先ほどトリーに教えた、声音だけでわかるというのは、完全に自分の体験である。


『ティルダ』


 レスターと王都で会って夫婦としての形式を整えて、初めて二人きりになった夜。大事な話をいくつかして、その最後に呼び方を確認し合った。やがて暗くなった部屋で指先が触れ、呼ばれた名前に何故か、子供の頃の母がいてくれた頃の記憶が甦った。

 心から優しさや思いやりを込めて呼ばれた名前がどんな風に耳に届くのか、母が亡くなってからその時まで、ティルダはいつのまにか忘れてしまっていたのだ。そしてそれは、いかに自分の母が慈しんでくれていたのか、愛情を注いでくれていたのかを思い出す事でもあった。


 だから自分はこの人が噂で耳にしたような、恐ろしい冷たい人ではないのだと判断できた。自分が感じ取ったままの、家族や周囲の人々に優しく慕われる方だと信じる事ができた。 


「……知りたいですか?」

「もちろん興味はある。なんだかとても良い話が聞けそうな顔をしているから」

「ふふふ、どうでしょうか。……では先に、旦那様がお戻りになるまで、良い子で留守番しましたから」


 もしこれをトリーに聞かれでもしたら、とても素知らぬ顔で姉ぶった言動はできなくなるだろう。しかしレスターは妹に、気持ちは口に出さなければ相手には伝わらないと定期的に釘を刺されるらしい。これは自分にも当てはまると思う。可愛がって欲しい時は口に出して叶えてもらうしかないのである。


 今まで甘える相手、というのはティルダにいなかった。信頼する、心を許して頼りにする、自分に余裕がない時に助けを求める、それは神殿にいた頃に上役にはお世話になったのとは種類が違う。母に甘えていたのと同じようにはいかないので、こればかりは手探りである。とは言っても多少不格好だろうとも、少し笑われる程度で優しく受け止めてもらえるのだから、自分はとても恵まれている。


「早くお会いしたくて、もちろんご無事で何よりですけれど、夜に一人でいるのは少し寂しかったです。……ですから」


 それから? と応じたレスターはその先を期待する口ぶりである。けれど言い終わらないうちに寝台の中でティルダを抱き寄せたので、こちらの希望を最後までちゃんと耳に届いたかどうかはわからない。

 

 けれどそのまま額に口づけてくれたから、ちゃんと聞こえたのだと思う事にした。もしくは最初から、向こうも同じ心積もりだったのかもしれない。

 愛おしい夫の声を聞く度に、ティルダはいつも幸福な気持ちで満たされるのだった。


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