③反省の時間
秋の涼しい、過ごしやすい日に庭先で開かれていた顔合わせを兼ねた小さなお茶会は、どうやら問題なく終わったらしい。執務室の窓から様子を窺っていたレスターには、てきぱきと片づけを進めていた侍女のアリスから、つつがなくという合図の目線が送られて来た。
ティルダには終わったらゆっくり過ごすように言付けてあり、そして領地を不在にしていた期間分、領主の裁可待ちの書類が山になっている。しかし間もなく、部屋に押しかけた者がいた。
「お兄様! よりによって一番最初から、放浪癖があるから許せなんて、普通そんな話はしないと思います」
「あまり興奮するとまた身体に障るから、落ち着きなさい」
レスターは手元のベルを鳴らして給仕を呼び出し、お茶を用意させた。執務机の秘密の引き出しからお菓子を取りだして妹に、それから気まずそうな顔で付き添って来たカークにも一つ渡し、自分も包み紙を破いた。
お茶とお菓子で一呼吸分落ち着く間、妹は兄に探るような眼差しを注いでいる。全員食べ終えたところで、トリーが口を開いた。
「……ご結婚おめでとうございます、お兄様。まさか報告を手紙で済ませるとはおもっていませんでした。ですから、内容を拝見した折にはとても驚きました」
「急に決まった話だからな、色々と心配してくれていたのに、こんな形になってしまって悪かった。ティルダと、できるだけ仲良くしてくれるとありがたい」
「もちろん仲良くします。お兄様にはもったいないくらいの女性が来て下さって安心しました。……とにかく、初めて顔を合わせるんですから、もっと雰囲気を大事にしてこれからの結婚生活に胸をときめかせるような話をするべきでしたよ」
レスターがもし逆の立場だったら、与太話はいいから約束した肩書と権利をさっさと寄越せと要求するだろう。世の中にはそれがなければ、対等に扱おうとしない人間はいくらでもいる。
ティルダのためにと思って速やかな手続きを優先したが、それはどうやら的外れであったらしい。
「それで、お義姉様はお兄様の変な放浪癖を許容するとおっしゃったのですか?」
「誰かと会うのか、とさりげなく聞かれたが駄目だとは言われなかった」
妹は兄に冷たい眼差しをたっぷりと浴びせてから、どこから口を挟むべきか困ると言う。レスターも社交の場で、行先も告げずに定期的に姿を消している人間の噂を聞けば十中八九異性と隠れて顔を合わせているに違いないと推測するだろう。こんな兄で悪いな、と謝っておいた。
「やっぱり治してください。結婚したのに行先も告げずにふらふら出歩くなんて、あらぬ事を疑われても仕方がないですよ」
「……申し訳ないが、無理だ。トリーが頑張って医者にかかって薬を飲んだのと同じように、私も高名な先生方に相談を重ねたが、どうもダメそうだと言う結論に至ったのだ。治せるのなら、とっくに治している」
好き好んで喜怒哀楽を表に出さないわけでも、仕事が全く手に付かなくなって外へ気晴らしに行くわけでもない。やらないとそのうち倒れるので、仕方なくそうせざるをえないだけの話だった。
どうも性格の合わない父が健在だった頃に、逃げ場のない締め付けが年単位で続いた結果、気がつくと笑ったりびっくりしたりできず、糸の切れた凧のようにふらふらする当主になってしまった。
農機具の柄が経年劣化で損傷してぽっきり折れたら、補修してもまたぽっきり折れるのと似たような理屈である。人間の身体と精神の話なので買い替える事もできないので、なんとか倒れない程度にやっていくしかない。これでも領主なのだから、素知らぬ顔で屋敷の家令やカークのように、仕事の量をこなせるならそれが良いに決まっている。
「どこかに行きたくなったらなるべく仕事の行き帰りで済ませるとか、そういう努力はするつもりだ。外部の人間に関係を怪しまれるようなまねはしない。……他に欠点は思いつかないが、どうだろう?」
「……その自信はどこから来るのでしょうね、お兄様。性格はどうなんですか」
「性格が悪いなどとのたまったのはトリーが初めてだ。優しくて気さくで社交に明るい貴公子を装っているのだぞ」
レスターはできる限り周囲の人間には優しさと寛容さを振りまいているつもりだが、妹の目は冷たい。そうでもしないと締まるのは自分の首だから、という理由はとっくの昔に見透かされているためだ。
「ティルダが連れて来た男性使用人を私の従僕に付け替えて、彼に事細かに記録させて目を通してもらう。これはもう決定事項だ」
「『小川のせせらぎを無言で三時間見つめていた』とか何とか書かれて、お義姉様に奇異の目で見られても擁護はできませんからね」
「まだ中身を注いでいないコップを差し出してさあ遠慮なく飲みたまえ、くらいの失態をもうやった。もう怖いものはないが……。よくも思い出させてくれたな、トリー」
冷静になって自省してみると、結婚してから事務的な報告と使用人の紹介、それから自分の弁解しかしていない事に気がついた。もう少し何か言うべき事があるだろう、と我ながら情けない話ではある。
一応、同じ飲み物でも口にして美味しいな、くらいから少しずつ話を始めるつもりだった。まさか湯冷ましばかり飲んでいるとは思わなかったが。あてつけかと勘繰ったが杞憂に終わった。現在はあれこれ試して楽しんでいるという報告が上がっている。
「昔、私にぜんまいを失くしたとか妖精さんがいるとか、大嘘ついたのでおあいこです。屋敷の中もお庭も一生懸命探したんですからね! それで、お義姉様の正式なお披露目等はいつになりますか? お兄様がいない間にも、突然のお話でびっくりした、領地に戻る前に是非お披露目して欲しいというお誘いが山のように来ましたが」
「まだ皆に見せびらかすための衣装も小物も揃っていない、という口実で来年だろう。神殿に顔を出す程度の予定だ」
貴族達が王都に集まって積極的に交流する季節は過ぎ、今はほとんどが帰り支度をしている頃合いである。ティルダがこちらに慣れるための時間を作りたかったレスターの意図は、妹も一応察した様子だ。そうですか、と現時点で思いつく言葉は一段落したらしい。ただし、しかたのない兄め、という視線はそのままではある。
「……私はお兄様がいかに優しいかを知っています。周りで長く働いている人間もそうでしょう。けれど、お義姉様には、表情や態度で示さないと誤解される一直線です。伝わりませんからね」
よく覚えておいて下さいませ、とトリーは追加のお菓子を要求した。アリスの分も下さい、と言って受け取り、妹は退室した。
執務室は途端に静かになったが、まだもの言いたげな顔のカークが残っているので、レスターは発言を促すように視線を投げた。
「……どうしてここまで結婚を急いだのですか?」
「ああ、本当はトリーを北の有力者と婚姻させるという話だったのを、私が目の届かない場所にたった一人で行かせる決心がつかなかった」
現在の妹はそこそこ元気だが、幼い頃の病が原因で一度死にかけており、その後遺症はまだ治り切っていない。温かいこの土地でのんびり暮らしているので回復傾向ではあるが、寒いと体調を崩しやすいのがわかっていて、行けとは言えなかった。
トリーが病で死にかかった時、レスターは何もできなかった。その時に動いてくれたのは屋敷の使用人やカーク、医者の先生だった。彼らの思いや行動に報いる方法はたった一つ、侯爵として領地の平穏を守る事以外にはない。
家、もしくは領地という括りにおいて、絶対の支配者という存在がロクな結果にならない事を、レスターは身を以て知っている。
家を継ぐとなった時、父親とは喧嘩別れした結果でもあった。するとまだ半分子供という事もあって、領地には混乱に乗じて利益を掠め取ろうとする者が大挙して押しかけて来た。臣下も使用人達も変わらず支えてくれる者がいる一方で、父に義理立てした者や、面倒事に巻き込まれたくはないとばかりに、素知らぬ顔で代替わりをして距離を取った者もいた。
侯爵家に忠誠を誓う事は、レスターの味方である事と決して同義ではない。今回の一件で、全面的に信用できる使用人として一時的に侍女のアリスを王都に呼んだ。ティルダに万が一があっては困る、という配慮からだった。
父に頭を下げるという手段が、頭を過らなかったわけではない。けれど死にかけているまだ幼い妹を家の恥になるからと見捨てようとした事と、少しでも力になりたいと申し出てくれた使用人を主家への忠誠心を人質にして嘲笑った事。レスターはたとえ死んでも許すつもりはなかった。後から実は父自身が病気で心無い事を言ってしまったのだと主治医に説明されても、その時は何の感情も湧かなかった。
その時に色々と気にかけて下さったのが、先代の国王陛下である。いつかは恩を返さなければ、とは思っていたので北部への支援の陣頭指揮も引き受け、これからも良好な関係が続くようにしたいとも考えている。
しかし今のトリーを北へ向かわせる約束はできないとなると、代替案は限られる。というより、一つしかなかった。しかし妹にさせられないと判断した事を、結果としてティルダに強要して人生を犠牲したような形になってしまった。それでも彼女は文句一つ口にすることなく、こちらのやり方に馴染もうとしていた。
祭司をやっていた時は髪を見せる事はなかったから、とリボンや髪留めを毎朝嬉しそうに選び、レスターの言った通りにお酒や香草茶を少しずつ試して人前に出るための準備を進めている。
その姿勢に報いる方法と権利は果たして自分にあるのだろうか、と問いかける声は日に日に大きくなるばかりだった。
「……旦那様が守ろうとした中に、奥様もちゃんと含まれている事を、その心遣いを御存じのようでしたから、きっと伝わるはずです」
そうだろうか、と臣下に応じた声は我ながら頼りなく聞こえた。