②お茶の時間
ティルダは神殿暮らしも長かったので、身の回りの事は自分でやるのが当たり前だった。しかし貴族の奥様という立場となった以上、これまでとは違うやり方を受け入れなければならない。というわけで、定刻になるとやって来る女性使用人達による、北部出身者に特有の銀の髪に最も似合うリボンはどれか、という話し合いは既に白熱していた。
その間にこっそり、アリスという領地から応援に来ているという侍女の一人が、今日で役目を終えて帰還するのだと耳打ちして来た。大変お世話になりました、田舎屋敷でお待ちしております、と彼女はするりと輪を抜けて退室して行った。
「さあ奥様、今日こそ旦那様を参ったと言わせて見せましょう」
「一応、旦那様は毎回感想を述べて下さいますが。皆さんの仕事も丁寧でよろしいと」
「いいえ、奥様を一目見て、今日は外出なんか取り止めて一日中髪を愛でていようと決心なさるまで、戦いは続くのです」
ティルダは祭司見習いとして、今日から夫婦になります、という幸せそうな二人組を何度か送り出した。しかし、その後の事はぼんやりとしか把握していなかった。実際に自分の身に起きてみなければわからない事は、この先もきっとたくさん待ち受けているに違いない。
今日の気分はこれで、とお願いした臙脂色のリボンで髪をまとめ、身支度を整えて朝食の席に行くと、レスターは従僕の一人と話し込んでいるところだった。一段落したのか、こちらに気がついて振り向いた使用人の顔は思ったよりも若い。どうやらティルダより年少者らしい。まだ十代半ば程の少年と言って差し支えない年頃に見えた。
「従僕のエディだ、今しがた領地から到着した。仕事ができるので重宝している」
レスターの紹介は相変わらず簡潔で淡々としていたが、仕事ができるという注釈をつける者は珍しい。それを聞いたエディ少年は一瞬だけ覗かせた誇らしげで照れたような表情を引き締めるように咳払いをしてから、恭しくこちらに一礼した。
「エディです。奥様、お見知りおきくださいませ」
人好きのする笑みは育ちの良さを感じさせる。僭越ながら、と彼は主人の結婚を祝福する言葉を丁寧に述べた。どうも親切に、と対するレスターの返事は短く素っ気ないようにも聞こえた。けれどエディ少年は落胆した様子もなく、何かあればいつでもとお申し付け下さい、とにこにこしている。
「伝言です、本邸のお嬢様より旦那様と奥様へ、お会いするのが楽しみだと伝えて欲しいとの事です」
「……領地で待っている妹が、早くあなたに会わせろと騒がしいらしい」
レスターは既に朝食は終えたらしく、近くに置いてあるのはお茶のカップだけだった。従僕から受け取ったらしい何通かの封書を広げながら、わずかに眉間にしわを寄せている。
「妹は身体が弱くて友人を作るのもままならないまま大きくなってしまったから、あちらに着けばしばらくあれこれと話したがるだろうが、それだけは頼む」
侯爵の身内は齢の離れた妹がいるだけ、というのをここの使用人から教えてもらっていた。先代が病に斃れ、後を継いだのは他の貴族青年よりかなり早い部類に入る。貴族、それも侯爵家ともなれば早々に婚約や結婚を整えるはずだが、仕事が忙しい上に、幼い妹の面倒を見る事になり、それで自分の結婚に手を付けるのが少し遅れたのではないか、とも言っていた。
「お返事を書くのでしたら、私も早くお会いしたい、としたためても構いませんか」
自分で申し出ておきながら便箋を下さい、と言うのは少し恥ずかしかったが、エディ少年がすかさず調達を請け負ってくれたのでほっとした。女性が、それも私信に使うような便箋の用意は盲点だった、と侯爵はエディ少年を買いに走らせた。屋敷には仕事で使うような飾り気のない紙がほとんどだったからである。
「お嬢様のお願いに走ったり付き添う日もありましたので。おすすめをいくつか見繕ってもらいましたが、いかがでしょう?」
身の軽いエディ少年は、ティルダが朝食を終える頃には戻って来た。お礼を伝えてから、幾つかのレターセットから気に入ったのを一つ選んだ。お花の絵と水色が綺麗な一揃いにしておいた。横からレスターも妹もこれでもらった方が嬉しいだろう、と言ってくれたので心強く思った。
そのままその場で手紙を書く事となり、侯爵に妹君はどのような方か、という質問には、まだまだ子供だとか賑やかだと教えてくれた。しかし結局ティルダは義理の妹への手紙には四苦八苦する事となった。
とりあえず兄君や使用人達にとてもよくしてもらっていて、またこちらにはとにかく不慣れなので色々教えてもらえると助かるとか、上手くまとめられずに何枚か書き直すこととなった。その横で侯爵も領地の使用人への連絡を兼ねてなのか、ティルダに好みの食べ物や花の種類を尋ねては書きつけている。酸っぱい料理は得意かどうかとか、特に気に入っている花は何か、などに返答を考えている間に、気がつけばすっかり時間も経っていた。
何かお飲み物を、とちょうどいいタイミングで申し出たエディ少年にはうっかり湯冷まし、と侯爵の咳ばらいを受けて慌てて撤回する一幕もあったが、どうにか一通書き上げて渡す事ができた。それがティルダの、夫人としての初めての仕事だった。
「……領地の本邸に着けば、使用人の顔を覚えるだけでも一苦労だとは思うが。……一番の問題はトリー、私の妹だ。あれは遠慮がない。いつになったら結婚するのか、と散々訊かれていたのに、結局事後報告だったからな」
レスターはばつの悪い顔をしている。ティルダはその珍しい一面に思わず見入ってしまった。北部の高圧的な年長者に、また王城の国王夫妻や神殿の最上位祭司を前にしても平然と表情一つ変えずに対応していたにも拘らずなので、どうやら妹君には弱いらしい。
彼はこちらがまじまじと見つめているのに気がついたので、ティルダは慌てて目線を逸らした。
「お手紙をどうもありがとうございました、お義姉様。会うのがとても楽しみでした。ところでカークが同席したいそうなのです。それからこっちはアリス、兄が連れて行ったのでご存じとは思いますが」
王都から近い場所にある、侯爵領の本邸にやって来て初めて顔を合わせた義理の妹は、齢が離れているとはいえ兄妹なのだから、と何となく想像していた姿とは少し違った。顔立ちや金の美しい髪や青い双眸などの特徴は侯爵と同じだが、可愛らしい笑みは明るい人柄を印象づけた。
同席した使用人のカークという青年はティルダとレスターのちょうど間くらいの年齢である。自分はこの場に同席する事が可能で、もちろん侯爵とこの令嬢に許されている立場である、と言外に示していた。アリスの方は軽い会釈だけで、後は準備に勤しんでいる。
ちなみにレスターは書類が山積みだから執務室へどうぞ、と妹君に追い払われてしまった。
挨拶と自己紹介の後、義妹のトリーは同席した二人について色々教えてくれた。カークは領地の要衝を預かる家の跡取り息子であり、侯爵の名代を務める事もある。アリスは屋敷をとりまとめる家令の養女であると詳しい紹介してくれた。当然どちらも使用人達の中では一目置かれている事、彼女が小さい頃から身近にいてくれるのだと。余程この二人に親しみがある様子で、誇らしげに教えてくれた。
「……ここで働いているのは比較的若い方が多いのですね。優秀な方達である証左そのものだと感じますが」
ティルダがレスターから挙げられた名前にもあった二人であり、信頼を置いている、という先入観ももちろんあるけれど、もっと年上の人間を想像していた。
他の屋敷の内部をよく知っているわけではないが、自分と同年代の使用人達はようやく仕事を覚えて一人前、くらいの感覚だった。カークは二十歳前後の生真面目そうな雰囲気の青年で、アリスにいたっては十三、四の大人しそうな娘である。
「そうなの? カーク」
「……ええ、確かに旦那様が当主になられた後、折を見て子供に仕事を譲って引退した者はそれなりにいますね」
主家に合わせる考え方があるのだと、カークが説明してくれた。それ自体は珍しい事ではない、とどことなく歯切れの悪い口調である。
「そうそう、エディとアリスはお兄様が、将来役に立つかもしれないと子供の頃に雇い入れたのです。若いですが、長くいるので今ではとても頼りになりますよ」
「……それは例外中の例外ですので」
カークが苦言を呈する横で、仕事ができるのは事実だとトリーが反論している。基本的には信用のある家柄の者達が重用されているが、侯爵の判断により優秀な技能を買われている者も数名在籍しているらしい。エディとアリスはそちらの頭数に入っているようだ。当時は反発もあったが現在は落ち着いている、と女主人としてやっていくためには重要そうな情報が幾つか出て来たので、ティルダも熱心に耳を傾ける事となった。
「ところでお義姉様、こちらへ来る前に、少しは兄と打ち解けられましたか? 私、それがとても心配で」
「……あの、放浪癖があるとかなんとかで、放っておいてくれると助かる、とおっしゃっていたのですが……」
使用人の雇用についての話が一段落した頃、トリーに切り出されたので、ティルダは慎重に言葉を選んだ。当人は放っておいてくれると助かる、等と言っていたが正しい対応だけは聞いておく必要がある。
「お兄様はお義姉様に早速甘え過ぎです……!」
どこの世界に結婚後の第一声で放浪癖の言い訳をする夫がいるのか、と先ほどまで嬉しそうにしていたかと思えば、今は沈痛な面持ちで、この場にいない侯爵への怒りを堪えている。妹君の可愛らしさとわかりやすさが何故兄にはないのだろう、と思わずにはいられなかった。
カークは気まずそうな表情でカップに口をつけていて、アリスは素知らぬ顔でお茶のおかわりを用意している。使用人達が口を挟む事はないようだ。
「そもそもご機嫌なのか不機嫌なのかさっぱりわからないような兄とずっと一緒の旅だったなんて、さぞや胃の痛い思いをなされたでしょう、お義姉様」
「いえ、決して本当に、そのような事はなくて。あなたの兄君にはとても優しくしていただいています」
実父の事を思えばレスターは確実に優しい人間に違いないのだが、今は少しわかるようになったが表情や声音に乏しいのは事実である。生家からの扱いには慣れているつもりで、同じように急に決まった結婚に由来する不満をぶつけられても仕方ない、構わないと覚悟していたはずだった。それでもレスターや屋敷の人々から疎まれているわけではないらしいという事を徐々に認識して、ティルダも少し安心したような、不思議な気持ちでいるのだった。
ティルダは領地のために結婚をした。その後の事は自分次第、とはお世話になった人の言葉である。事前に抱えていた漠然とした不安や諦めが杞憂に終わりつつある今、それに代わるようにして自分の中に生まれつつある気持ちに、きちんと向き合うべきなのだろう。母が亡くなり、祭司になると決めた時、自分には縁のないものだと諦める事にした、言葉にするのは少々気恥ずかしい感情の事だ。
「そもそも小さい頃、私も変だと思ってどうして笑ったりびっくりしたりしないのか尋ねたら、顔に巻いて動かすためのぜんまいを紛失したとか何とか……。ええそうです、兄は昔から冗句を普段と同じように言うので、私はいつも騙されて来たのです。実は兄はぜんまい仕掛けで動いている、と大嘘を吹き込まれて信じていました」
考え込んでいるティルダの横で、トリーも何か恥ずかしい思い出でもあるのか、顔を真っ赤にして震えている。せっかく笑わない兄のために敷地内でぜんまいを探し回ったのに、後になって冗談だ、と言われたのが未だに忘れられないらしい。何故か目が泳いでいるカークを睨みつつ、他にも屋敷には妖精がいるという冗句もあったと一通り恨み言を呟いた後、トリーは神妙な面持ちでこちらに向き直った。ちなみに妖精とは屋敷で丁寧に確実に仕事をこなす使用人達だそうだ。
「……お嬢様、あまり興奮されるとお身体に障りますよ」
「カークがびしっと言えないからお兄様がつけ上がるの。お義姉様、このお屋敷に、お兄様に面と向かって意見できるのは私だけでしたから、これからは一緒に頑張って行きましょうね!」
心配そうなカークを一蹴し、トリーは人懐こい笑みを浮かべ、ティルダに握手を求めて来た。それに応じつつ、自分に要求されている屋敷での、そして侯爵の妻としての役割を改めて認識させられるのだった。