①祈りの時間
ティルダの母は、信仰心の深い人だった。物心つく前の娘を連れて頻繁に神殿へ足を向け、休日に行われる祭司の説話には必ずと言っていいほど通い詰めた。集まった他の人々とも、身分の分け隔てなく熱心に、言葉を交わしていたのを記憶している。
「ほらティルダ、天使様がいらしている」
祈りと説話の時間が終わった後も、母娘はすぐに屋敷に戻るのではなく、中庭や敷地内を散策するのがいつもの流れだった。連れて来た仲良しの飼い犬も大抵一緒に、空を見上げた先の雲の切れ目や、木々の梢から静かに降り注ぐ木漏れ日に足を止めた。これは神殿が奉る天使様が天上にある『輝きの楽園』より地上へやって来る光の橋とされている。手の平に光を集めた後に近しい人々と触れ合う行為は、古くからある祈りの形でもあった。
「お母様、さきほど祭司様がおっしゃった『輝きの楽園』は私達が行ける場所にもあるのですか?」
「ええ、もちろんですとも」
ティルダはてっきり、『輝きの楽園』は神様や天使様だけに許された特別な場所だとばかり思っていた。けれど今日の祭司様のお話では、日々善行を積み重ねると、行き着く事が可能であるかのような口ぶりだった。
母が言うには優しく素直な心の持ち主であれば、『輝きの楽園』に行く事は決して難しい事ではないという解釈である。幼いティルダはさっぱりわからなかったが、神殿では母がティルダの髪や頬を撫でて、いつものお祈りを重ねてくれるのが、屋敷にいる時より明るく笑ってくれるのが嬉しかった。ティルダも尾を振ってじゃれついてくる犬や、もちろん母にもよしよし、と祈りの言葉を返すのだった。
敷地には温かな日差しが降り注ぎ、大好きな母や犬の楽し気な声が響いている。『輝きの楽園』があるとしたら、きっとこのような場所なのだとティルダは思った。
「これだけは先に言っておかなければならないのだが」
はい、とティルダは緊張で上擦りそうになる声を落ち着かせ、自分の夫となった相手を見つめた。金の髪と淡い色の眼差しは場所が屋敷の寝室であっても、いかにも怜悧な貴公子然としている。
国内有数の豊かな領地を管理する若き侯爵は国王の勅命を受け、ティルダを自分の妻として迎え入れた。それに対してどのような感情や方針を抱いているのか、ようやく彼自身の口から語られる時がやって来たのである。
あの陽だまりの、神殿での温かで懐かしい記憶は遠い日々となって久しい。今は夜で、そしてティルダも既に大人として扱われる年齢に達している。
故郷でもあるこの国の北部は古い時代、別の国として成立していた地域だった。併合の際に名前と言語が統一されて時間が経った今でも、両者の隔たりが完全に消える事はない。行き来も交流も消極的だったのが大きく変化したのは、数年前に起きた天災から立ち直れないまま疲弊したところへ、追い打ちをかけるように襲った凶作である。
危機に対していち早く派遣されたのが、この侯爵だった。元より数年前から国王は北の地への友好的な介入を模索していたらしく、その意向を汲んだ彼の行動は迅速の一言に尽きた。中央の支援や自身の伝手を最大限に活用して各地の穀物等の余剰や、神殿にも要請し寄進をかき集め、人々が冬を越せるだけの物資を手配してくれた。
この異例の処置に対する、過度な見返りや介入を要求されるのではないか、という声は、領地を餓えて死なせたいのなら、と冷たく一蹴された。雪で道が閉ざされる前に各地への輸送を完了させ、北の地は荒廃の危機から救われたのである。
そうして落ち着いた頃になって、今後の支援や交流を見据えて、という名目で国王陛下の勅令により、今回の立役者である侯爵と北部の主要な家との間で婚姻が結ばれる事になった。
二人が向かい合う、ランタンの心もとない明かりがあるだけの寝室は、王都にある侯爵家所有の都会屋敷である。多くの人々が暮らす街の中心近くにあるけれど、他の貴族達の屋敷も多く立ち並ぶ一画にあるおかげか、静謐な空気に包まれていた。
こちらに移って数日、寝室で顔を合わせるのはこれが初めてである。寝台に腰かけて、自分と相手との距離はまだ、お互い腕を伸ばしても届かない。しかしティルダはこれまでにないくらい、気を張り詰めていた。当面の手続きは終了し、明日は特に予定がないと婉曲な言い回しの意味を理解できないほど、子供でもなかった。
王城での謁見と神殿での諸々の手続きにそれぞれ一両日を費やして、今やティルダの肩書だけは正式に侯爵夫人である。合間に屋敷と、そこで働く人々との顔合わせも済ませた。一室を与えられ、また所有する建物の内装や調度品、衣装を調達する御用達の商会の会頭とも話をした。女主人として、内部を自分の好きに造り替えて構わない、というわけだ。
しかし両者にとってあくまで、家と領地のための結婚である。彼の意向が反映された部分はきっと少ないだろう、とティルダはそれがひどく申し訳なく思っていた。
だからこの場で何を、たとえば不本意である旨や罵声に近いような言葉を投げられたとしても受け入れる覚悟をしなければと自分に言い聞かせながら、相手の言葉を待った。
「……私には放浪癖のようなものがある。護衛は勝手について歩くから、持病の発作のような物だと思って放っておいてくれると非常に助かる」
申し訳ないが、と続けた割には大して悪いと思っていなさそうな口調を前に、ティルダは思わず間の抜けた聞き返しをするところだった。
ティルダは神殿に身を置いている娘だった。母が病で亡くなった後に、父は後妻を迎えて弟が誕生した。元から薄々感じていた処遇を持て余す空気が漂う前に、神殿にて人々の暮らしに奉仕する役割を全うする道を、自ら選んだつもりだった。
母が娘に、と残してくれた財産の一部を神殿への寄進に充てた影響なのか、水仕事の多い下働きではなく、上級祭司の補佐のような仕事を振られるようになった。
生家を離れ、祭司のゆったりとした露出の少ない衣装に身を包み、訪れる人々の対応に追われる日々を送っていた。たまに不思議そうな顔で何歳なのかを尋ねられるくらいで、まだ年若い娘だと気づかれる事は少なかった。
神殿は規模に差はあれど、どこにもあって貧しい人々への救済の他、人々の営みの中では婚姻に関わる機会が多い。時折、夫婦となる男女が互いに贈り合う指輪を用意してやって来るのを案内する事もあった。両者の間に漂う独特の空気や眼差しを前に、淡い憧憬のような感情を抱く事もあったけれど、自分はその道を選ばなかったのだと言い聞かせた。自分に近い年ごろの娘達がやって来るようになってからは、尚更である。
ある朝、いつものように起き出したティルダは着替えを済ませ、ひっそりと静まり返った神殿の礼拝堂へと足を向けた。制約の多い生活の中で早朝の、それも神殿の厨房もまだ動いていない時間に、一人で過ごすのは唯一自分だけの、と言える時間だった。
今まで一度も誰かと行き会った事がなかったために、完全に油断しながら無造作に扉を開けた先で、一人の青年が祈りを捧げている場面に出くわしてしまった。流石に寒いのか、白く息を吐きながら、物憂げに祭壇や色ガラスの嵌め込まれた飾り窓を見上げている。
一目で貴人とわかるその佇まいの若い男がこちらに気がついて振り向くのに、ティルダの声と身体はほどんど無意識に反応していた。
「……し、失礼致しました!」
慌てて回れ右をして、呼び止められたような気もしたけれど、不必要に外部の人間と接触するのは規定に反してしまう。そのまま、その場を逃げるしかなかった。咄嗟に思い出せるものだ、とまだ母が生きていた頃に教えこまれた礼儀作法を反芻しながら、自室で静かに祈りを捧げる事にした。けれどやはり、いつものようには集中できなかった。
ティルダがいるのは北部で最も規模の大きい神殿で、客人がやって来ている。王都より王命を携え派遣された侯爵が率いる一団だ。その代表が、まさかこんな早朝に礼拝堂にいるとは思わなかった。
その後も特に咎められなかったため、王都からの客人も役目を終え帰途に着いた後はいつも通りの日々を過ごしていた。
侯爵は閉鎖的な場所に派遣されても全く動じる事なく、自らの役割を淡々とこなして帰途に着いた。そして、今回の前例のない仕事に従事した者達を、言葉を尽くして労ったそうだ。こちらの人々は彼、もしくは後援してくれた若い国王に大いに感謝していた。
ところがある日、上級の祭司によって呼び出しを受けて私室を尋ねると、予想だにしない相手が待ち受けていた。
「……最低限の礼儀すらも忘れたのか? 情けない」
数年ぶりの父の厳しい叱責を前にして、ティルダは凍り付いて、頭を下げて謝罪の言葉を口に出すのに時間がかかった。その調子では困る、とうんざりした父が言うには、生家の娘として縁談が来ており、断る術はない。早急に戻るように、そんな話だった。
実はティルダが神殿に身を置いているのに、正式な手続きは完了されたわけではなかったらしい。苦い顔をしている上級祭司から、今まで知らされていなかった事実を聞かされた。要するに、何かの折にはいつでも家の手駒に戻せるように、と父は最初からそのつもりというわけだった。
貴族の身に生まれた娘が、家と領地の方針に身を捧げるのは当然である。その言い分には確かに理があるけれど、かと言って半ば呆然とした状態で聞かされた、王命によりという話は到底自分に務まる話とは思えなかった。
「……ティルダ、あの侯爵閣下には様々な噂があるが、少なくとも統治しているあちらの神殿からは心優しい領主だと聞いている。こちらのために、よく心を砕いてくれたのも事実だ。後は自分の振る舞いと気持ち次第だろう」
神殿を去る日、上級祭司が取り成すようにティルダにそう教えてくれたけれど、自分が決意と年数を掛けて学び過ごした事を否定されたような気持ちは晴れなかった。どこにいようとも天上の神々と天使様は全ての人々を見守っている、『輝きの楽園』に至る道を見失わぬように、といつもの説話から引用された言葉と共に送り出された。
その後は生家に戻って緊急でつけられた教師に付け焼刃でも、と最低限必要な事を習って北を出発した。逃亡の心配でもしているのか、父がずっと付き添っていた事にかなり神経をすり減らされつつ、自分が結婚する相手に想いを巡らせないままとはいかなかった。
侯爵は厳格だった先代とは違い、社交に明るく高い身分にも拘らず多くの者と広く交流しているらしい。だが一方で、病身になった父親を無慈悲に追い出して爵位を継いだ。人前で親しみのある人物として振る舞うのは、悪い噂を打ち消したいがための見せかけに過ぎないだろう、とは父の見解である。
「私が父親なら、杖で引っ叩いてでも徹底的に力関係を躾ける。半端だから舐められるのだ」
「……」
父の展開する教育についての持論の合間に、侯爵の話を色々と耳にした。彼の真意はともかく若くして家を継ぐ事になった経緯はどうやら事実のようで、北を統治する主家のお嬢様が怖がって結婚を嫌がったらしい。そうでなくとも、家を離れて頼れる知人縁戚者のいない土地へ行くのは気が進まない、という気持ちは理解できた。それで、神殿にいたティルダを引っ張り出す話に繋がるのである。
主家に恩を売る事に成功した父はしきりに、上手くやれ、と口にした。つまり侯爵から受けるであろう負の側面はティルダが全面的に、益の部分はこちらに寄越せと、そういう事だ。
そんな話を耳に挟みながら、労力を割いた見返りによくわからない娘と結婚させられる侯爵の事を考えた。何も思わないはずがない、ティルダは生まれた場所から少しずつ遠ざかる馬車の中で、不安ばかりが募って行った。
それが、ティルダがここにやってきた経緯だった。神殿での宣誓の儀においては、本当に最低限の人数と形式で終了している。顔も合わせるのも初めての人間とのやり取りに意味を感じないのだ、淡い憧れに近い感情はこの結婚に必要ないのだ、とびくびくしながらこの時間を迎えている。そもそも自分は、侯爵の妻としての役割を果たせるのだろうかと言う不安が、もちろん消える事はない。
それなのにようやく二人で話す機会が訪れた第一声は、相手が持つという持病の発作的な放浪癖についての弁解である。侯爵は淡々と説明を付け加えた。
「そういうわけだから、たまに気が済むまで一人で延々と考え事をしに外出するのは許容して欲しい。護衛は勝手について来るし、緊急事態なら侯爵邸は離れない。これは約束する」
いいから黙って従え、と父がこの場にいれば口を挟んだだろうが、幸か不幸かさっさと一人で帰還した後だった。こんなやり取りは事前に想定されていなかったので、何度か瞬きと逡巡を繰り返してから、ようやく思いついた返答を口にした。
「それはその、つまり誰か特定の方とお会いになる、という事でしょうか?」
「いや、その時は人と話す気分ではない。……そうだな、あなたが連れて来たあの男性使用人はこちらの従者に組み込んで連れ歩くから、疑わしければその者に聞き出しなさい」
ここで言う彼の放浪癖はあくまで誰とも会ってないという建前のつもりなのか、本当に一人でぼんやりする時間が欲しいと申し出ているのか、判断が難しかった。高位貴族の青年らしいと言えばそれまでだが、あまり感情を表に出す質ではないらしい。改まった場であればともかく、常にこのように表情に乏しいとなると、どこに本音があるのかひどくわかりにくい。
「あの、もしかして朝早くに神殿の礼拝堂にいらっしゃったのも……」
怪訝に聞き返されて、ティルダは覚えている限りであの早朝の日時と出来事を説明した。するとその通りだと侯爵は少しばかり目を瞠った。あれはやはりあなただったのか、と続けられたのには、こちらの方が驚かされた。顔を合わせたのは数秒だったにも拘らず、彼はティルダである事を認識していたらしい。
「神殿での暮らしと比べて、戸惑う事も多いだろう。何か言っておきたい事、こちらに把握しておいて欲しい要望があれば。不安な気持ちで当然だ、今さらどうなるわけでもないから、気にせずに」
「あの、至らぬ身ではございますが、精一杯務めさせて頂きます」
どうか、と頭を下げたティルダに、侯爵は労わるような言葉を掛けてくれた。こちらからもいくつか、と静かに口を開く。
「数年がかりで人の配置を動かしたから、この結婚に表立って反対できるような気概のある者は、現在侯爵邸の近くにはいない。領地にいる私の妹も、あなたの事は歓迎している。家令をはじめとして従者、厨房、庭の監督者、若しくは最も発言力のある者は、私の意向を何より尊重する。女性使用人ならアリス、領地から応援に連れて来た者だが、彼女に伝えれば私に直接届く。他には……」
アリスというのが、侯爵がティルダに専属で付けてくれた二人の侍女に加えてもう一人、年少者で大人しそうな雰囲気にも拘らず、気の利く娘だった事を認識していた。そしてカーク、アンガス、ラックにロバート。それからエディ。挙げられたのはまだ紹介されていない、侯爵直属の人間達らしい。簡単な役職や配置と共に数名の名前を頭に刻み付けた。
「近親者のいない土地に、たった一人で移って来た不安は計り知れないと思う。だが王命という建前と侯爵夫人の肩書、そして私が信頼を置く者達は、あなたを必ず守ってくれる。できるだけ早く、こちらでの足元を固めるように」
侯爵は相変わらず表情を変えないままだが、掛けられた言葉にはこちらへの気遣いが感じられたような気がした。わかりました、とティルダはできるだけしっかりした声に聞こえるような返事を試みた。
さて、と彼が手を伸ばした先の小机に、口をつけていたグラスを置いた音が、やけに大きく響いた。それはまるで何かの合図のようでもあった。
「一つ思い出した。何を飲みたいか御用聞きに向かった使用人が湯冷ましと聞いて困っていたが、他に何か教えてくれると助かる」
「……すみません、神殿ではそればかりで。お酒も特別な日以外は許されておらず」
そう言えば何回か尋ねられたが、特に何も考えず湯冷ましばかりだったのは、使用人達の間で問題になっていたらしい。今までお茶や果物の絞り汁が禁止されていたわけではないが、ここ数年豊かとはいえない状況で、神殿ではそればかりだった。
「これからは付き合いで酒を勧められる機会もある。苦手なら私が適当にあしらうが、屋敷では少しずつ試してみるように。香草茶も詳しい者が領地の本邸にいるから、嗜好の一環として楽しみ方を覚えるのは悪くないと言っておこう」
全く予想していなかった事を指摘され、ティルダは恥ずかしいのと申し訳ないのとで俯いた。どこに眉を顰められる要素が潜んでいるか、わかったものではない。申し訳ありませんでした、とティルダは謝罪をしたが、それ以上は特に咎められなかった。
「……それから最後、あなたの事は何と?」
「……ティルダ、とそのままお呼びください」
「ならこちらも、レスターでいい」
聞かれて初めて、そんな事を確認するのもまだ済ませていなかった事に気がついた。顔を上げて試しに一度、と促されておずおずと口にした夫の名前は、自分でも恥ずかしくなるくらい、頼りなく聞こえてしまう。
「……悪くはないな」
その評価が及第点なのかそうではないのかを確認するより前に、レスターはランタンの明かりを消した。ティルダには何も見えなくなって、こちらへと呼ぶ声を頼って暗がりに向かってそろそろと手を伸ばす。お互い身じろぎする微かな気配と、そっとまるで迎え入れられるように指同士が触れ合った。その時に思い出したのは不思議な事に、神殿でのあの優しい祈りの時間だった。まだ母がいてくれた頃の事を、何故か懐かしく思い出したのである。
「来てもらってから明かりを消せばよかった。こちらの不手際ばかりで申し訳ない」
謝罪ではなく苦笑するようなレスターの台詞は、不思議と優しく耳に届いた。