林田隠岐守は少弐頼尚を卑怯と罵りたい
南北朝の戦乱が各地に及ぼした影響は深刻であった。各地の荘園は武士達に押領され、公家は貧窮した。洞院公賢の日記『園太暦』文和二年(一三五三年)二月二二日条では公賢の弟の前大納言実守が苦境を語っている。
「洞院家には林田荘が相伝していたが、どこかに飛行してしまい、何の収入も入らなくなってしまった」
洞院家は播磨国に荘園を持っており、林田荘も播磨国揖保郡の林田だろうか。
洞院家の邸宅は寂れた雰囲気に包まれていた。邸宅内部は薄暗く、公賢と実守が心を痛めながら話し合った。
九州の戦局は激しさを増していた。一進一退の攻防を繰り広げる中、直冬は九州を脱出して山陽道と山陰道に転戦した。
「九州を離れるしかなかった。石見で再起するのみだ」
これは九州で追い詰められたから撤退したとする説と上洛を志向して本州に移ったとする説がある。いずれにしても九州の佐殿の勢力には打撃であった。佐殿の勢力は直冬あってのものであり、直冬が九州を離れると衰退した。範氏は直冬を支援していた少弐頼尚を攻めた。頼尚は林田隠岐守に助けを求めた。
「今後一切、南朝には刃を向けません」
「共に一色範氏を打倒しよう」
林田隠岐守は頼尚と征西府の同盟をまとめ、両者は一色範氏への大攻勢をかけた。正平八年/文和二年(一三五三年)に筑前国針摺原で対決した。激戦の中、両陣営が激しくぶつかり合う。血が流れ、刀が光り輝いた。刀剣のぶつかる音と戦士達の武勇が戦場に響き渡る。戦いは南朝が勝利を収め、範氏とその勢力を撃退した。
南朝は進軍を続け、正平一〇年/文和四年(一三五五年)に範氏は博多を放棄し、九州から撤退した。この結果、九州は南朝一色になると思われたが、すぐに頼尚は北朝・室町幕府支持に転向した。頼尚の目的は範氏を追い出すことであり、征西府を認めるつもりはなかった。
「頼尚は卑怯者だ。お前の選択は間違いだ」
林田隠岐守は頼尚を罵った。征西府は頼尚の掌返しを認めるつもりはなく、頼尚の卑怯な行動に立ち向かった。九州の未来は不透明なまま、戦乱と政治の駆け引きが続いていく。
征西府を危険視した足利尊氏は征西府の討伐を行なうために九州出陣をしようとした。しかし、子の義詮が反対して果たせなかった。尊氏が九州に出陣すると畿内が不安定になることを恐れたためである。そのうちに尊氏は背中に腫物ができ、正平一三年/延文三年(一三五八年)に亡くなった。
子の義詮が二代目将軍になった。義詮は初代の尊氏と最盛期の義満に挟まれて影が薄い。尊氏死後は尊氏正室で義詮の母の赤橋登子が幕府を支えた。赤橋家は北条一門であり、北条政子の伝統があるのだろう。登子は尊氏の庶子の足利直冬の認知に反対した。この点も政子と重なる。一方で登子の立場は北条政子以上に切実であった。実家の北条氏が滅ぼされてしまい、後ろ楯がない。義詮を足利家の後継ぎとすることが拠り所になった。




