観応の擾乱は一段落したい
九州は九州探題一色範氏(室町幕府)、佐殿(直冬)、宮方(征西府)の三すくみ状態になった。直冬は少弐頼尚が支援した。九州探題の一色範氏への対抗姿勢からである。
少弐頼尚は直冬を迎えて筑前国と肥前国で一色範氏に攻勢をかけた。九州探題の内部でも小俣氏義が直冬に味方した。この間に征西府は肥後国を固めた。直冬は九州探題に任命され、大宰府に本拠を置いた。征西府は正平六年/観応二年(一三五一年)に、肥後から筑後に進出し、高良山・毘沙門岳に城を築いて本拠とした。
観応の擾乱の主戦は駿河国で展開された。その風光明媚な土地に、歴史の転換点が刻まれようとしていた。鎌倉を押さえた足利直義と直義を追討する足利尊氏が正平六年/観応二年(一三五一年)一二月に激突した。この戦いで尊氏は勝利し、正平七年(一三五二年)一月五日に直義は降伏した。
尊氏と直義は仲の良かった兄弟に戻って幕府の方向性について話し合った。
「後継者は義詮になるが、その器量は微妙である」
尊氏が口火を切った。義詮は将軍としての地位を継ぐべき人物であったが、その能力には疑問符がついていた。
「基氏とその子孫を鎌倉公方とし、もし将軍の政治が誤った場合に対抗勢力としよう」
基氏は尊氏の次男であるが、直義を養父としており、直義に敬意を抱いていた。尊氏も直義も支持できる人物であった。
この提案に尊氏も同意した。尊氏は兄弟の絆を大切にし、基氏に対する期待を胸に抱いた。将軍義詮の弟を重要ポジションにつかせることは、直義にとっては過去の自分の役割の肯定になる。兄弟の協力は新たな希望を生み出すことになった。壮絶な戦いを経て、尊氏と直義は再び団結し、将来に向けた新たな展望を描いた。
ところが、その直後に直義は急死した。直義の死因は諸説ある。
第一に病死である。黄疸である。敵対者として考えると都合よく急死したことになるが、むしろ尊氏にとって急死は打撃であった。基氏を鎌倉の指導者とする場合、直義に働いてもらった方が関東の安定になるだろう。
第二に尊氏による毒殺である。尊氏は仲良く兄弟として語った一方で次の瞬間に毒殺する。尊氏には「情け深く人を大事にするのにいざとなればあっさり見捨て」という矛盾した性格がある(松井優征『逃げ上手の若君 12』集英社、2023年)。無邪気に他人をだますことに腹立たしいところがある。
第三に高一族関係者による毒殺である。高師直一族は直義に惨殺された遺恨がある。
直義の死で観応の擾乱は一段落する。まだ足利直冬との戦いが残っているが、室町幕府の政治路線をめぐる戦いは決着した。尊氏の勝利によって室町幕府の権力は尊氏と嫡子義詮に一元化された。直義の鎌倉幕府継承路線が否定され、所領安堵の手続きが簡素化し、武士達の要求に応えた。
観応の擾乱によって高師直と直義という義詮以上の力を持ち、義詮の権力の妨げとなる人物がいなくなったことになる。ここから全て尊氏や尊氏の正室の赤橋登子の陰謀とする説が出てくる。しかし、観応の擾乱による室町幕府の内部対立の結果、南朝が息を吹き返し、南北朝の争いが長期化した。尊氏の陰謀と考えるならば粗末である。
室町幕府は京の将軍と鎌倉の鎌倉公方という分権的な支配体制になった。これは直義が志向していたものである。直義を否定することで室町幕府の体制が安定化したというよりも、観応の擾乱は悲劇と捉えられる。




