九州の南北朝は三つ巴で戦いたい
懐良親王一行が上陸した薩摩は守護の島津氏が君臨していたが、各地の郷村は律令制時代からの郡司や荘官が支配しており、島津氏に対抗していた。そのような在地領主に征西府は支持された。これは薩摩以外も同じである。林田隠岐守もいち早く征西府を支持して活動した。
征西府は吉野の朝廷の下部組織ではなく、事実上の独立政権であった。征西府は南朝に対して完全に自立しており、九州国家であったと主張する見解すら存在する(村井章介「征西府権力の性格」『アジアの中の中世日本』校倉書房、1988年)。
独立政権を持つことは林田隠岐守の念願であった。鎌倉幕府が関東武士の念願であったことと同じである。皇国史観では南朝方の武将は勤皇と美化されたが、林田隠岐守に勤皇思想はない。国人領主として中央の搾取を嫌い、領土を守りたいだけであった。一生懸命の語源になった一所懸命の精神である。
九州で南朝方と言えば、懐良親王の征西将軍府(征西府)を意味していた。九州の在地領主である林田隠岐守が南朝方になることは自然なことであった。皇国史観の勤皇思想では南北朝の武士の心理を説明できない。
皇国史観では忠君愛国の英雄とされた楠木正成でさえ、湊川の戦いに赴く前には後醍醐天皇に足利尊氏と講和すべきと諫言した。多くの武士が尊氏を支持しており、後醍醐天皇には徳がないと言い放った。ひたすら天皇に忠義を尽くす存在ではなかった。
征西府は薩摩で一定の地歩を築いたものの、薩摩国内での一進一退の攻防にとどまり、それ以上の躍進を得られなかった。懐良は正平二年(一三四七年)に水軍の力を借りて肥後国入りを決断した。
林田隠岐守のところに征西府の命令が届いた。
「水軍を率いて博多湾を襲え」
室町幕府の目を博多に釘付けして、征西府が肥後に入るための陽動作戦であった。林田隠岐守はこの戦いに備え、戦術を練り上げた。彼は郎党に火を放つことを命じ、煙幕を作り出した。煙幕の中から突然、隠岐守率いる騎馬隊が飛び出し、幕府の陣営を急襲しました。幕府の軍勢は、煙幕で視界が悪くなっていたため、隠岐守の奇襲に驚いた。隠岐守の勇気と戦略は、後の時代の武将達に多大な影響を与えた。
この裏で征西府は無事肥後に入り、阿蘇氏に加えて菊池武光らにも擁され、勢いを増していく。
征西府は着実に発展していく。そこには室町幕府の内紛の観応の擾乱に助けられた面がある。観応の擾乱は足利尊氏・高師直と直義の対立である。九州では直義方が優勢であった。直義の養子の直冬が九州で活躍したためである。
佐殿(右兵衛佐殿)と呼ばれた直冬は尊氏の実子で、直冬の養子という複雑な家庭環境である。尊氏と直冬の親子は憎み合っていたが、そのような複雑な事情を九州の武士達は知らない。尊氏の実子という肩書きは九州の武士達が直冬に味方する理由として働いた。
「両殿(尊氏と直義)の御意である」
直冬は尊氏と直義の両方の権威を利用して軍勢催促を行った。
観応の擾乱は南朝を助ける結果になった。特に直義と尊氏が相互に南朝に降伏することは北朝を奉じた自己否定になり、北朝の権威を損なわせた。しかし、場当たり的な失策かは議論がある。合えて南朝を滅ぼさずに利用価値を残しておいたとする見解がある。
「室町幕府は北朝を応援しているのですが、南朝も残しておいた。かつて鎌倉時代に持明院統と大覚寺統に皇統を分けることで、朝廷のエネルギーを消費させたように、あえて天皇家の力を分裂させておきたかったのではないか」(本郷和人『「失敗」の日本史』中央公論新社、2021年、121頁)




