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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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足利尊氏は天龍寺を建立したい

懐良親王らは瀬戸内海を船で進んだ。陸路は室町幕府が優勢であり、海路が選択肢である。延元三年(一三三八年)一二月に讃岐国に到着した。讃岐から伊予国忽那島の海賊・忽那義範を頼った。


南朝は九州では肥後の阿蘇氏を特に頼りにしていた。しかし、阿蘇氏も目の前の戦いに手いっぱいであり、伊予まで迎えを出す余裕はなかった。このため、懐良親王一行は伊予で足踏みすることになる。自前の軍勢を持たない懐良親王一行の弱点が出ている。


後醍醐天皇は暦応二年/延元四年(一三三九年)に吉野で崩御した。

「後醍醐天皇の菩提を弔う寺院を建立しましょう」

禅僧の夢窓疎石は尊氏に強く勧めた。これに尊氏も同意し、天龍寺が建立していた。対立していた後醍醐の菩提を弔う寺院を建立した理由は幾つかある。

第一に怨霊信仰である。南北朝時代は武士も怨霊を信じるようになった。これは鎌倉時代初期の武士とは異なる。

「敵を殺め、それを勲功として恩賞を得るのが武士である。島流しにした上皇の怨霊を恐れるほど、泰時たちは脆弱であろうか。私にはそうは思えない」(本郷和人『新・中世王権論』文藝春秋、2017年、179頁)

元々、公家が怨霊を恐れて人を殺すような活動から遠ざかったために武士という特殊な存在が生まれた。しかし、南北朝時代になると武士が統治者としてメジャーになり、逆に怨霊信仰を受け入れるようになった。

第二に南朝に対する精神的優位性の主張である。尊氏は後醍醐天皇七回忌に天龍寺の落慶供養を大々的に行った。「南朝に対する精神的示威を行ったともいえる」(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族 南北朝と「園太暦」の世界』吉川弘文館、2015年、64頁)。

第三に天龍寺は夢窓疎石を開山とする臨済宗の寺であり、延暦寺や興福寺という伝統仏教を抑え、禅宗の勢力を伸ばそうとした。


天龍寺建立の背景には一つの物語がある。尊氏は夢の中で近江国の山中を旅していた。山中の寺で美しい庭園を目にした。庭園は山々を背景に、美しい池と石組みの小道が織り成す自然美を持っていた。

「この庭園を私に売ってほしい」

その庭園に感銘を受けた尊氏は庭主に頼み込んだ。しかし、庭主はその申し出を断った。尊氏は、その庭園を手に入れるため、自ら天龍寺を建立することを決意したという。


南朝は西国へのテコ入れとして新田義貞の弟の脇屋義助を伊予に派遣した。義助は伊予国で一時勢力を築き、興国二年/暦応四年(一三四一年)に懐良親王一行を薩摩国に送り出した。義助は伊予にとどまた。懐良親王は九州、義助は四国方面の総大将であった。ところが、義助は興国三年/康永元年に病気で急死してしまった。


義助の急死にはオカルト談議がある。伊予国住人の大森彦七は細川定禅に従って湊川の合戦を戦った。この功績で伊予国に所領を得て悠々自適の生活をしていた。ところが、後醍醐天皇や楠木正成、新田義貞らの怨霊が出てきて攻撃してきた。彦七は大般若経を読むことで亡霊が静まった。それどころか、敵方の義助も亡くなってしまった。


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