懐良親王を征西大将軍に任命したい
北畠顕家や新田義貞の戦死は南朝への大きな打撃になった。御醍醐は戦略転換に迫られた。これまで御醍醐は中央集権的に司令を出していた。奥州に派遣した顕家に上洛を命じたことが典型である。顕家は命令に無理して従って兵力を消耗させ、戦死した面がある。御醍醐は九州で阿蘇氏にも上洛という無理な命令をしている。このような中央集権的な指令が非現実的であることは明らかである。
顕家は後醍醐天皇に中央集権から地方分権に切り替える意見書を出している。
「一か所で全国各地のことを決断したら、政治が混乱し、危機に対応できません。奥州だけでなく、関東や九州にも適切な人を派遣して、民生と軍事の権限を与えて下さい」
この意見書は顕家の戦死の直前に書かれたものとなり、顕家の遺言のようになった。御醍醐は意見書に従った。御醍醐は専制的であり、他人の意見をあまり聞かない。しかし、死を背負った提言は素直に聞くところがある。
楠木正成は湊川の戦いに向かう前に足利尊氏の勢いが強く、京都防衛は不可能と述べ、帝が比叡山に移って抵抗することを提案した。この時は一蹴したが、正成が湊川の戦いで戦死すると、比叡山に移り、正成の作戦通りに動いた。
「懐良親王を征西大将軍に任命し、鎮西(九州)に派遣する」
後醍醐は命じた。征西将軍は西国、特に九州を平定するため臨時に任命された将軍である。大伴旅人が養老四年(七二〇年)に征隼人持節大将軍に任命された。これを征西将軍と呼んだことが始まりである。
従者は五条頼元ら十二人と僅かであった。五条頼元は文官であり、軍勢を有していない。過去の親王派遣では義良親王を陸奥に派遣する際に北畠親房・顕家に付けるなど有力な家臣とその従者も丸ごと下向させた。というよりも親王は有力な家臣に仕切らせるための神輿であった。むしろ京から派遣した有力な家臣が仕切ることで地方に後醍醐の意向を反映させることができる。
懐良親王の派遣は様相が異なる。肥後の阿蘇氏などの九州の勢力に担がれることを想定したものであった。辛辣に評価すれば南朝に軍勢を付けて送り出す余裕がなく、地方に丸投げしたことになる。しかし、官僚組織には自分達は負担しないで口だけ出すという最低の発想がある。後醍醐は口を出さないだけ一貫性があった。
「征西大将軍の権限はどこまででしょうか」
頼元が訪ねる。
「鎮西での恩賞や賞罰は将軍に委ねる。鎮西の者達が吉野に直奏することは禁止する」
御醍醐は鎮西での全権を委任した。この方針は後村上天皇にも継承された。征西将軍府(征西府)の地方分権体制は九州の武士達の支持を集め、全国的に南朝が退潮になる中、九州だけ躍進することになる。これは中央集権に対する地方分権の勝利である。




