新田義貞は藤島城攻めを応援したい
顕家は伊勢で兵を休養させようとしたが、父の北畠親房に叱責された。
「さっさと京を攻めろ」
このために伊賀を経て大和に入り、京都を突くことにした。しかし、般若坂の戦いで敗北した。この戦いで高師直は新しい時代の戦争の仕方を示した。般若坂の戦いで「分捕切捨の法」を導入した。
従来の戦いは敵兵の首をとって持つことが戦功の証拠となった。しかし、首を幾つも抱えていると、その後の戦闘に支障が出る。このために首をとっても捨てることを命じた。戦功は戦奉行または他の武士に報告する形にした。
この「分捕切捨の法」は戦奉行が正しく記録しなければ、ただ働きになってしまう。制度への信頼がなければ機能しない。師直自身が他者から公明正大とは思われていなかった。このため、「分捕切捨の法」は普及しなかった。
戦国時代の可児才蔵は自分で持つことができないほどの多くの首を取ったため、自分が取った首には笹の葉を含ませて証拠とした。これによって「笹の才蔵」の異名を持った。
顕家は摂津・河内で転戦するが、五月二二日の石津の戦いで戦死した。
新田義貞は越前で斯波高経の黒丸城を攻撃するなど越前の制圧を進めていた。新田勢は斯波方の藤島城も攻撃していた。義貞は七月に応援のために五〇騎を率いて藤島城攻めに駆け付けようとしていた。
ところが、黒丸城から藤島城救援のために出撃した軍勢三〇〇騎と燈明寺畷で遭遇してしまう。この軍勢は弓兵が主体であり、新田方は矢の乱射を受けてしまう。足利方は矢が雨のように降り注いだ。義貞は馬を射られて深田にはまり込んでしまった。
「足利方は「騎馬武者の馬を射てはならない」との戦争の作法を知らないのか」
義貞は憤慨したが、鎌倉武士の戦争の作法は無視されるようになっていた。
「お逃げください」
義貞の家人は逃走を進めた。
「部下を見殺しにして自分だけ生き残ることは不本意」
義貞は拒否した。義貞の眉間に矢が突き刺さった。
「今はこれまで」
義貞は自ら首をかき切って自害した。義貞の首は都に運ばれて、さらし首とされた。皇国史観では南朝の英雄となる義貞も北朝にとっては朝敵であった。
義貞の亡き後は弟の脇屋義助が越前の南朝方を統率して奮戦した。黒丸城を攻め落としたが、劣勢を挽回することはできなかった。義助は越前から退却し、美濃に移った。ここでも美濃守護・土岐頼遠の攻撃を受けて敗走した。尾張、伊勢、伊賀と転戦を続け、吉野に合流した。




