北畠顕家は青野原の戦いを限界としたい
後醍醐の吉野脱出によって南北朝の内乱が始まる。南北朝の内乱は長く続き、皇国史観(南朝史観)とは逆に朝廷の権威を下げる結果になった。後醍醐天皇は自分が唯一絶対で正しいと思っているが、南北朝の対立によって政争の対立側が南朝を担いで徹底的に対立するようになるため、戦乱は長引いた。
新田義貞は越前から京をうかがい、北畠顕家は奥州から上洛軍を進めた。顕家は美濃の青野原の戦いで高師冬や土岐頼遠の足利勢を打ち破った。足利勢は指揮系統が統一しておらず、くじ引きで陣立てを決める状態であった。
「バラバラでは勝てない。強力な武家の棟梁が必要だ」
これが足利勢の敗因分析結果である。敗北したことで逆に尊氏の求心力は高まった。
青野原は後に関ヶ原と呼ばれる。関ヶ原は日本史上の重要な合戦が起きている場所である。古代には壬申の乱が行われた。慶長五年(一六〇〇年)九月一五日には天下分け目の関ヶ原の合戦が起きた。
各合戦の迎撃側と攻撃側を整理すると以下になる。
壬申の乱:迎撃側・近江朝廷、攻撃側・大海人皇子
青野原の戦い:迎撃側・室町幕府、攻撃側・北畠顕家
関ヶ原の合戦:迎撃側・石田三成、攻撃側・徳川家康
全て攻撃側が勝利している。壬申の乱と関ヶ原の合戦では勝者の大海人皇子や徳川家康が新しい政治体制を作った。これに対して青野原の戦いは敗者側が室町時代という新しい時代を作った。
壬申の乱と関ヶ原の戦いは攻撃側がそのまま最終勝利まで突き進んだ。これに対して青野原の戦いは攻撃側が勝ち切れなかった。迎撃側が最終防衛に成功している。青野原の戦いだけ敗者側が新しい時代を作ることになるが、最終的な勝者と考えれば全て勝者が新しい政治体制を作ったとなる。
知名度では関ヶ原の合戦が最も高い。壬申の乱もそれなりにある。しかし、青野原の戦いは日本史に詳しい人でも知っているとは限らない。攻撃側が勝利して新しい政治体制を作ったという後の歴史へのつながりが弱いためだろう。
青野原の戦いで勝利した顕家の陣では方針をめぐって軍議が開かれた。
「このまま近江に進んで、越前の新田義貞と合流して京を奪回することが最短です」
「しかし、美濃と近江の国境の黒地川に高師泰と細川頼之の軍が布陣しており、これを破ることは容易ではありません」
「奥州からの強行軍で兵達の疲労が極限に達しています」
このため、北畠氏の任国である伊勢で疲弊を回復することにした。ここで顕家と義貞が合流しなかったことが南朝の失策とされる。その理由は幾つかある。
第一に顕家の軍勢は強行軍であり、青野原の戦いで勝利したものの限界であった。
第二に顕家は青野原の防衛線を打ち破ったものの、足利方は第二陣として黒地川の防衛戦を用意しており、これを打ち破ることは容易ではなかった。関ヶ原の合戦のように関が原で勝利したら、そのまま進めるという状態ではなかった。
第三に義貞と顕家または父親の北畠親房との間に不信感があった。親房は公家優位の思想を持っており、坂東武士の義貞と肌が合わなかった。
第四に義貞は一所懸命の坂東武士であり、越前の領国化を優先した。「ようやく軌道に乗りかけた越前の制圧を上洛によって失いたくないこと、また南朝中枢部の策謀に振り回された比叡山から越前落ちの苦い経験などが、義貞をしてあえて上洛に踏み切らせなかった要因ではないかと思う」(峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館、2005年、124頁)




