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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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足利尊氏は九州に一色範氏を残したい

尊氏は九州には一色範氏を残し、九州探題とした。九州の武士達は尊氏には心服したが、九州探題には自分達の統制者として反感を抱いた。ここが在地の武士の心理の不思議なところ、面白いところである。ここに親王を擁し、九州の武士が運営する征西府が支持される素地があった。


特に少弐頼尚の反発は大きかった。頼尚は多々良浜の戦いで熱烈に尊氏を迎えたが、範氏への態度は異なっていた。少弐氏は大宰少弐という大宰府の官職名を名字とした。大宰府を統括する、つまり九州を支配する家という自負があった。このため、九州探題の一色氏の下風に立つことは面白くなかった。九州探題という役職を作るならば自分が就任して当然という感覚があった。


現実は少弐氏が九州全土を支配している訳ではない。大宰府のある筑前国が勢力圏の中心となる。九州は北西部の少弐氏、北東部の大友氏、南部の島津氏という三大守護が並び立っている状態である。少弐氏を九州探題としたら大友氏や島津氏が納得しない。それ故に尊氏は足利一門の範氏を九州探題とした。


とはいえ九州探題は九州全土の君臨するのではなく、自分が直接支配する勢力圏を築かなければならない。それは大宰府のある筑前国が中心になる。この点で少弐氏の勢力圏と競合する。頼尚の反発は切実な問題であった。


範氏は足利一門の力で自己の勢力圏を拡大することしかできなかった。足利氏傍流の小俣氏義を探題の侍所に任命した。小俣氏は足利泰氏の八男賢宝が祖である。賢宝は下野足利荘内の小俣を分領し、小俣城を築き、小俣氏を名乗った。

「九州に地盤のない某でも探題が務まるものだろうか?」

範氏の問いに氏義は答えた。

「私が支えます」

範氏は安心した。


範氏は頼尚と対立したが、頼尚の領土を奪う訳にはいかない。肥前の林田隠岐守を攻略しようとした。

「南朝方に属する者は結束力が強いらしい。南朝正統論を唱える者も多いようだ」

「しかし、今さら南朝が正しいなどと言うのでしょうか? 既に建武の新政で後醍醐の権威は失墜しています」

「南朝は滅びていないのだ」

範氏は氏義の嫡男の小俣氏連を総大将に任命して、島原半島に攻め込ませた。林田隠岐守は九州探題軍を迎撃し、撃退した。

「もう一波乱あるかもしれぬ」

林田隠岐守は言った。


足利尊氏に敗れた後醍醐天皇は延元三年/建武五年(一三三八年)一二月に吉野に逃れた。

「大変です。先帝が逃走しました」

やがて逃走先が吉野で、そこで新たな朝廷(南朝)を創設したことが明らかになる。

「先帝は光明天皇に渡した三種の神器は偽物であり、本物の三種の神器は自分が持っており、自身が正統な天皇と主張しています」

「これからは後醍醐を先帝改め、廃帝とするように」

直義は命じた。足利方は慌てたが、尊氏は落ち着いていた。

「先帝が京にい続ける限り、警護を付けて護衛しなければならず、負担であった。北条義時のように流罪にする訳にもいかない。御自身で吉野に移られたならば逆に負担が減る。先帝がどのように行動されても天下の情勢は落ち着くところに落ち着く」

足利方の武士達は大いに感心した。

「流石は武家の棟梁、天下の大将軍だ」


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