足利尊氏は京に幕府を開きたい
建武式目では幕府を京都に置くか鎌倉に置くかが議論された。「居所の興廃は政道の善悪によるべし」と、政治の善し悪しは場所の善し悪しではないと主張する。「どこでもよい」という結論であるが、鎌倉が武家政権の中心地という固定観念がある中で「どこでもよい」は京都への追い風になる。こうして室町幕府は京都に置かれることになる。
足利尊氏が京都に幕府を開いた理由は以下がある。
第一に南朝と戦うために京都を離れられないという消極的理由があった。
第二に鎌倉幕府のあった関東は足利氏を同格の御家人と思っている武士達が多く、抜きんでるためには西国で覇権を握りたかった。
「潜在的な対抗者が多くいる東国を忌避し、新しい政権の基盤を西国に求めた」(本郷和人『新・中世王権論』文藝春秋、2017年、43頁)
第三に西国の中心である京都の経済力を重視した。尊氏は九州に落ち延びて勢力を挽回するという離れ業を成し遂げている。そこでは博多から瀬戸内の水運も勢力下に置いている。
「尊氏のほうは「銭」に目を向けていた。1250年あたりまでに貨幣経済が日本列島に浸透し、それによって流通網が広がるようになっていた。その中心が京都だから、流通を抑えるためにはそこを抑える必要がある」(本郷和人『「失敗」の日本史』中央公論新社、2021年、136頁)。
尊氏は平清盛の国家構想に近い。尊氏が平氏の子孫である執権北条氏の鎌倉幕府を滅ぼし、室町幕府を開いたことは源平交代説で捉えられる。しかし、農業と商業、陸と海という価値観では平氏政権と室町幕府は親和性があり、鎌倉幕府と対立する。これは血筋では説明できない尊氏の個性である。弟の直義は鎌倉幕府の継承という政治感覚が強く、観応の擾乱は政治路線の対立という面があった。
尊氏の母は藤原氏の流れをくむ上杉氏であり、尊氏は上杉氏の領地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘で生まれたとの説がある。尊氏は倒幕の表明を丹波国篠村八幡宮で行った。尊氏は源氏の名門であるが、西国の感覚もあったのだろう。それが西国大名の佐々木道誉や赤松円心にも支持された理由だろう。
日本の武家政権は平氏政権、鎌倉幕府、室町幕府、織豊政権、江戸幕府と続く。これらを西国基盤・東国基盤、商業(交易)重視・農業重視で分類すると西国基盤・商業重視、東国基盤・農業重視で以下のように分けられる。
西国基盤・商業重視:平氏政権、室町幕府、織豊政権
東国基盤・農業重視:鎌倉幕府、江戸幕府
「鎌倉幕府こそは、室町幕府を越えて、江戸幕府へと連なっていく」(本郷和人『新・中世王権論』文藝春秋、2017年、280頁)




