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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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足利尊氏は室町幕府を開きたい

湊川の戦いに勝利した尊氏は京に進撃した。後醍醐天皇の朝廷は比叡山で抵抗した。湊川の戦いに敗北した後醍醐天皇は京の防衛を諦め、京を退き、比叡山に移って抵抗した。京は攻めやすく守りにくい土地である。比叡山を押さえることは京の出入口を押さえることになる。これは楠木正成の生前の戦略に従ったものである。


足利方は連日、比叡山を攻めた。比叡山周辺で激しい戦いが繰り広げられた。足利直義は雲母坂で千種忠顕を打ち破り、戦死させた。


新田義貞は尊氏に一騎打ちを申し込んだ。尊氏が一騎打ちに応じようとしたところ、家臣の上杉重能は必死に押しとどめた。

「義貞はやみくもに深く進攻し過ぎて退却することができないため、やけになって敵を探しているだけです。危険なので出てはいけません」


足利方は山地の戦に慣れずに苦戦した。鎌倉幕府の軍勢が楠木正成の千早城や赤阪城の攻略に苦しんだことと同じことが繰り返された。比叡山は北国から京への出入口になっており、比叡山を押さえられることは京の物資搬入を押さえられることを意味する。そこで尊氏は近江守護の佐々木道誉と越前守護の斯波高経らに北国路や琵琶湖の舟運を押さえさせ、比叡山を逆包囲させた。


京都に入った尊氏は室町幕府を開く。室町幕府の成立時期も鎌倉幕府と同じく議論がある。鎌倉幕府ほど複雑ではなく、実質説と形式説の二説に収斂する。

実質説は延元元年/建武三年(一三三六年)の建武式目制定とする。

形式説は延元三年/建武五年(一三三八年)の征夷大将軍就任とする。

室町幕府も鎌倉幕府と同じく実質説で見る見方が有力である。「かれ(注:尊氏)が武家政治の再開すなわち幕府の再建を、はじめて天下に公表した文書が建武式目であるという点に注目したい」(佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱 改版』中央公論新社、2005年、168頁)

但し、室町幕府の場合は形式説も単なる征夷大将軍就任以上の意味がある。この年に南朝方の有力武将の北畠顕家や新田義貞を戦死させている。軍事的な優位に立った上での征夷大将軍就任である。征夷大将軍というポストに就いたからという話ではなく、武門の棟梁としての実力を示した故の征夷大将軍である。

北朝は尊氏が擁立したものであり、尊氏は征夷大将軍になろうと思えば、いつでも可能であった。それでも強敵の新田義貞を戦死させてから征夷大将軍になった。征夷大将軍に任命されたから偉いのではなく、武家の棟梁の実態があるから征夷大将軍になる。ジョブ型の発想がある。

この感覚は後の世にも続いた。豊臣秀吉は天下人になっても征夷大将軍にならなかった。その理由の一つに小牧長久手の合戦で徳川家康に完勝できなかったためとの指摘がある。征夷大将軍は戦で勝利する最強の武士である必要があった。


尊氏以後は幕府と言えば征夷大将軍との意識が定着する。将軍職は足利家の家職のように見られた。三好長慶や織田信長のように足利将軍を追い出しても自分が将軍にならなかったことには天下を奪えても、将軍職は足利家と不可分のものという意識があった。


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