新田義貞は湊川の戦いを退却したい
足利尊氏・直義らと新田義貞・楠木正成らは湊川の戦いに激突する。湊川の戦いは兵力に大きな差があり、尊氏方の圧勝が確実であった。その中で正成がとれる作戦は限られていた。一点突破で敵将の首をとることである。大坂夏の陣の真田幸村の作戦と同じである。
正成は足利直義の首級を狙って敵本陣に突撃を仕掛けて中央突破した。直義は馬に乗ってからくも後方に逃れた。背後に追いすがられてもう少しで討ち取られるところだった。正成の攻勢も限界点に達し、遂に追い詰められた。従う兵は弟の正季ら僅かになっていた。
「死後も七回人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼす」
正成は七生滅賊を誓って、弟の正季と刺し違えて自害した。これは正成の美学に従ったものである。正成にとって主君に殉じ、義を貫くことが最大の望みであった。しかし、この時代の多くの武士にとっては自分の命が大切であった。
尊氏は正成の死に衝撃を受けた。
「見事な武者だ。惜しいことだ」
正成の亡骸を抱きかかえて泣き叫んだ。
「天晴れな武者ぶり」
尊氏の姿を見た従者は感動して号泣した。
足利尊氏と楠木正成は敵味方に分かれて戦ったが、共感し合うものを持っていた(天津佳之『利生の人 尊氏と正成』日本経済新聞出版、2021年)。南北朝の内乱で対立したが、元々は共に鎌倉幕府打倒に立ち上がった側であり、共感する点があることは当然である。尊氏を逆賊、正成を忠義の士とする皇国史観が固定観念に囚われている。
尊氏は鎌倉幕府御家人、正成は悪党と立場は異なる。しかし、尊氏は京都に幕府を開き、西国を重視した。室町幕府は段銭、棟別銭、酒屋役、土倉役、津料、抽分銭と経済活動からの税収を重視しており、農本主義的な鎌倉幕府とは異なっていた。
鎌倉幕府御家人では佐々木道誉も近江国を本拠とし、畿内の経済活動を重視していた。この点で道誉と正成も共感し合うものを持っていた(安部龍太郎『婆娑羅太平記 道誉と正成』集英社文庫、2019年)。道誉は尊氏には忠実であったが、経済活動重視という点で尊氏と共感できたのであろう。
湊川の戦いでは義貞が退却し、正成が玉砕した。ここから正成が立派で、義貞が不甲斐ないとなりがちである。それは玉砕を賛美する皇国史観に毒されている面がある。
正成は最初から負けを想定し、死を想定していた。そのために兵力も僅か七〇〇騎であった。正成は出陣した際に途中の桜井の駅で、嫡男の正行を河内に帰した。これは桜井の別れという美談になっているが、正行と一緒に兵も帰して温存した。これに比べると義貞は本気で足利勢を食い止めようと戦い、無謀な玉砕をせずに退却したと評価することもできる。
戦争で最も難しいものは退却戦である。義貞は鎌倉幕府を滅ぼした後は負けてばかりであるが、退却戦を遂行している点は武将としては有能である。




