畠山重忠の冤罪
岸本氏は建久二年の強訴で鎌倉殿に限界を感じ、頼める者は自分だけという原点に回帰した。さらに冤罪によって対立する一族を滅ぼす鎌倉殿の御家人達の体質にも嫌気がさした。岸本氏は外の世界への進出を志向するようになる。これが播磨国揖保郡林田郷を本拠とした林田氏の誕生につながる。
御家人達の悲劇の中でも畠山次郎重忠の冤罪は悲劇的である。重忠は坂東武士の鑑と称えられるほどの武将であったが、北条氏によって冤罪で滅ぼされる。重忠は勇猛果敢な武将だった。そのため、北条時政にとっては目障りであり、時政は重忠に濡れ衣を着せ、冤罪によって抹殺した。
重忠は長寛二年(一一六四年)に畠山重能の息子として生まれ、源平の合戦で活躍した。畠山氏は武蔵国の武士団である秩父平氏である。
河内源氏では源為義と義朝の親子が対立していた。為義は摂関家の藤原忠実に仕えた。その間に義朝は東国に下向した。義朝は為義から廃嫡同然の扱いを受けた。「為義が忠実に仕えるに際して、忠実を蟄居に追い込んだ白河院近臣の娘を母とする義朝が忌避されたとみるべきであろう」(元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』日本放送出版協会、2004年、52頁)
義朝は相模国の三浦氏の婿になり、鎌倉を拠点とした。義朝と三浦氏の娘の間には義平が生まれた。その後に義朝は上京し、義朝は妻の実家の熱田大宮司家を通じて鳥羽院との関係を深めた。鎌倉には息子の義平を残した。
為義は義朝と対立し、関東が義朝の勢力で席巻されることを阻止するため、武蔵国に息子の義賢を派遣した。義賢は秩父平氏の秩父重隆の婿になり、仁平三年(一一五三年)に武蔵国比企郡大蔵館に迎えた。
秩父平氏は坂東八平氏の一つで、武蔵国留守所惣検校職を継承していた。惣検校職は武蔵国の武士団の統率権や監督権を持ち、武蔵国の在庁官人トップの職である。武蔵国では古くから国司の支配が形骸化し、惣検校職が実務を取り仕切っていた。
検校は寺院における寺務の監督を意味していた。監督するという動詞であったが、監督者の職名になった。これは執権や奉行と同じである。国衙においては郡司の監督者として使われることになった。田所検校や税所検校など様々な検校が存在したが、その頂点に立つ者が惣検校であった。
秩父重隆は秩父重綱の次男である。重綱には長男の重弘と次男の重隆がおり、家督は重隆が継いだ。これに重弘の息子の畠山重能は不満を抱いていた。重隆が義賢と結んだため、重能は為朝の息子の源義朝とその息子の義平と結んで対抗した。
義平と重能は久寿二年(一一五五年)に大蔵館を襲撃し、義賢と重隆を攻め滅ぼした。これが大蔵合戦である。大蔵合戦に勝利した義平は悪源太の異名を持った。義賢には二歳の息子の駒王丸がいた。義平は殺害を命じたが、幼児殺害に反発した重能が信濃国に逃がした。坂東武士の鑑と称賛された畠山重忠の父親らしい。
しかし、卑怯なことを嫌う清廉な硬骨漢であったことは出世にはマイナスであった。重能は大蔵合戦に勝利することで大蔵の地や秩父平氏嫡流の族長の地位を獲得したものの、惣検校職は重隆の孫の河越重頼が継承した。重頼は大蔵の地を奪われて河越館(埼玉県川越市)を新たな拠点としたため、河越氏となった。
大蔵合戦は私戦である。朝廷から罰されても不思議ではない。しかし、義平らが罰されることはなかった。当時の武蔵守の藤原信頼が黙認していたためである。この頃から義朝と信頼はつながっており、平治の乱に結びつく。
信頼は藤原隆家の子孫である。隆家は藤原道長と権力を争い、権力争いには敗れたものの、刀伊の入寇では太宰権帥として武士達を指揮して撃退した武勇の人である。その気風は信頼にも受け継がれており、自身は武士ではないが、武士を統率する役回りであった。