多々良浜の戦い
肥後国の菊池武敏や阿蘇大宮司惟直らは尊氏追討に立ち上がった。菊池武敏には戦う積極的な理由がある。少弐貞経は武敏にとって博多合戦で父の武時を殺した仇であった。
九州の多数の武士も味方したが、菊池武敏のような戦意はなかった。むしろ建武の新政には不満があった。周囲が宮方一色の中で、仮に尊氏に味方したらフルボッコとなってしまうという消極的選択であった。関ヶ原の合戦で西軍になった多くの大名のような感覚であった。
これは林田隠岐守も同じであった。義理のようなものである。宮方は菊池武敏ら肥後国の武将が中心である。林田氏初代は林田肥後守泰範であり、林田隠岐守の家も肥後を故地という意識がある。
それでも宮方の軍勢は総勢二万に膨れ上がると壮観である。気持ちも大きくなる。瞬く間に少弐氏の本拠の大宰府を襲撃し、有智山城を攻略した。有智山城は宝満山の中腹に位置する山城である。少弐氏の主力は息子の頼尚に率いられて尊氏と合流し、手薄になっている隙を突いた。それでも有智山城は要害で中々陥落しなかった。林田隠岐守が調略を行い、内応者を出すことで二月二九日に陥落し、少弐貞経は自害した。菊池武敏は親の敵を討つことができた。
この勝利に驕る宮方の武将は多かったが、林田隠岐守は空しさを感じていた。少弐貞経は尊氏を支援するために大宰府に大量の武具や馬具を蓄えていた。それが宮方の襲撃で灰燼に帰してしまった。宮方の兵士は燃えるものには全て火を放った。林田隠岐守は資源の消失に、もったいなさを覚えた。林田隠岐守は酒を飲まない。それは勝利の宴でも変わらなかった。酒飲みは泥酔した後、最悪の気分になるという。実際はどうか、林田隠岐守は知らなかった。知りたくもなかった。
宮方は大宰府陥落の勢いで北上し、三月二日に多々良浜で尊氏の軍勢と激突する。宮方二万に対し、足利勢二千と兵力差は歴然だった。開戦前に彼我の兵力さを見た尊氏は絶望した。
「切腹しよう」
ステレオタイプな感覚では指導者失格の発言であるが、マイナス情報を正面から認識する稀有な才能である。精神論根性論で何とかしようとする方が愚かである。
「敵は大勢ですが、本来は味方として参る者共です。菊池自身は三百騎にも達しません。頼尚が御前で命を捨てて戦えば、敵は風の前の塵も同然です」
尊氏の弱気発言に対して、少弐頼尚は反論した。
戦が始まると、宮方で真剣に闘う武士は少なく、裏切りが続出して敗北した。馬が怯えて立ち上がり、振り落とされる騎馬武者もいた。林田隠岐守にも生き残りのために率先して裏切る選択肢もあった。しかし、最初から尊氏の味方になることと同じく、これも肥後に近い千々石という地政学上悪手になる。宮方は多々良浜の戦いで敗北したものの、その後も肥後の菊池党らは宮方として抵抗を続けた。九州から南朝が一掃された訳ではない。
林田隠岐守は最初から悪い予感がしていた。そこで味方からも離れて布陣した。陣を固めてカウンター攻撃に徹した。戦の帰趨が明らかになると速やかに撤退した。負け戦は死なないことが目標となる。戦場は、どこをどう見ても楽しいものではなかった。寒気が背骨の下から上へ、羽虫の群れのようにざわざわと這い上がった。この時の経験は嫌になるほど心をかき乱される。苦しくなる。のどかな風景にパクリと開いた、とてつもなく大きな傷であった。




