足利尊氏は九州に落ち延びたい
尊氏は箱根・竹ノ下の戦いの勝利の勢いで西上し、建武三年(一三三六)正月十一日に上洛した。後醍醐天皇は直前に義貞らとともに比叡山へ逃れた。奥州から北畠顕家が大軍を率いて上洛すると敗北し、正月三十日、丹波から摂津へ逃れた。再び京へ攻め上ろうとしたが、豊嶋河原の合戦で建武新政軍と対峙し、楠木正成に背後から襲われ、敗北した。
兵庫まで退いた尊氏は九州へ落ちることとなり大友軍の船に移った。五百人程度の軍勢で九州に向かって落ち延びた。途中の二月十五日、備後国の鞆の浦で光厳上皇の院宣を受け、朝敵の汚名を逃れた。
関東に本拠があった尊氏が京の戦いで敗れて九州に落ち延びることは戦略的でないように感じるが、尊氏は以前から九州に目を向けていた。建武元年(一三三四年)に尊氏は九州の軍事指揮権を掌握した。たとえば日向国と薩摩国についての島津貞久宛の綸旨を尊氏が施行していた。尊氏の九州行きは追い詰められて逃げられるところに逃げたというよりは勝算があった。
尊氏には経済的な視点もあった。「京で大敗を喫した尊氏が九州を目指したのは慧眼だった。博多には、大陸から持ち込まれた莫大な銭がある。それを手中に収めれば、軍資金には事欠かないばかりか、京周辺の物と銭の流れを滞らせることにもなるのだ」(天野純希『もののふの国』中央公論新社、2019年、155頁)
「この頃の日本では銭の鋳造をしていないので、元から輸入した銭を流通させている。その船はすべて博多に入るのだから、尊氏が筑前の国を支配して博多を押さえたなら、自在に銭を使えるようになる」(安部龍太郎『義貞の旗』集英社、2015年、368頁)
尊氏が播磨国室津から九州に落ち延びることができたのも瀬戸内の制海権を尊氏が握っていたためである。いくら新田義貞や北畠顕家が陸に戦いで勝利しても、海にまで追いかけることはできなかった。
後醍醐天皇の倒幕運動は元々、農本主義的な領地経営に収まらない悪党に支持されたものであった。そこには水運業者や海賊も含まれていた。しかし、彼らも建武の新政に失望し、尊氏に期待するようになった。
南朝でも心ある武将は尊氏の戦略を見抜き、脅威に感じて追討軍の派遣を進言した。しかし、帝や公家は軽視し、現地の武士達に尊氏追討を命じるだけで自ら対処しようとしなかった。京から追い払えば安心という、目の前の問題を解決することしか考えない発想である。
建武の新政に不満を持っていた肥前国の少弐貞経は尊氏に味方し、息子の少弐頼尚に兵を率いて合流させた。少弐氏は藤原氏秀郷流である。鎌倉幕府御家人で建久年間に鎮西奉行となった武藤資頼が大宰少弐の官職から少弐氏を称するようになった。
頼尚は二月二十日に長門国の赤間関で尊氏一行を出迎え、九州に行く。筑前国の宗像氏範も尊氏を合流した。これによって尊氏の軍勢は合わせて二千人程度になった。足利尊氏の軍扇は日月図軍扇である。表には金箔の日輪、裏には銀箔で月輪が描かれ、きらびやかなものであった。




