北条時行は中先代の乱を起こしたい
北条時行は建武の新政への不満を背景として、建武二年(一三三五年)に御内人であった諏訪頼重ら北条氏の残党を率いて信濃から蜂起した。時行は北条高時の遺児であり、鎌倉幕府の滅亡の際、辛うじて逃げ延び、信濃の大地に身を寄せていた。しかし、その心は常に北条氏の栄光と正統性を胸に秘めていた。その眼光は信濃の山並みを越えて遠く響く鎌倉の街並みに注がれた。
「今こそ、我らの名を高らかに響かせん。鎌倉を奪還し、新政の暴虐に終止符を打つ!」
時行の声が荒涼とした山々に響き渡る中、忠義に厚い者たちが一堂に会した。彼らは北条氏の残党であり、新政に対する怨みと、再び栄光の時代を築き上げんという意志を共有していた。鎌倉幕府再興の使命感が彼らの心を燃え滾らせた。
時行の目的は明確であった。上野国から武蔵国へと関東平野を進軍し、鎌倉を占拠する。武士達は鉄甲を身にまとい、鮮やかな旗印を掲げて前進した。鎌倉は後醍醐天皇皇子の成良親王を名目上の長とし、尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置された。
数多の戦いが続く中、彼らの武勇と団結が奇跡を起こす。時行の軍は女影原の戦いで渋川義季や岩松経家、小手指ヶ原の戦いでは今川範満を敗死させた。この人的損害は直義にとって痛手になる。観応の擾乱で高師直に軍事力で後れを取る原因になった。
信濃からの蜂起は、関東平野を震撼させ、鎌倉に迫った。足利直義は井手の沢に出陣したが、そこで時行に敗れると鎌倉を捨てて東海道を退却した。直義は鎌倉で徹底抗戦しなかった。鎌倉は攻めやすく守りにくい場所であると自覚していたためである。
源頼朝が拠点とした時代の鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要塞であった。しかし、それは戦争に動員される兵士が少ない時代であったために守る方も少人数で山の特定の場所(切通し)を守るだけで良かった。南北朝時代は動員される兵士の数が多くなり、城壁でもない鎌倉は守りにくい土地になった。籠城戦をするならば楠木正成の千早城のようなピンポイントに防備を固めた山城になる。
直義の撤退で鎌倉は再び北条氏の手に戻った。建武の新政の拠点は陥落した。時行は堂々と鎌倉の中心に立ち、新政を否定する声を高らかに響かせた。
「我ら、北条氏の血脈は滅びず。栄光はこの地に返り咲くのだ」
時行はその勝利をもって、かつての栄光を取り戻した。
時行の大胆な行動は建武の新政に打撃を与えた。鎌倉陥落の知らせが京に届くと、その街は大騒ぎに包まれた。建武の新政に対する不満が高まり、時行率いる北条氏の残党が鎌倉を奪還したことは、京の政治の在り方に重大な影響を及ぼすであろうことが予感された。
これは中先代の乱と呼ばれる。この呼称は後の時代につけられたものである。鎌倉幕府を先代、室町幕府を当代とし、その間のため、中先代となる。時行を中先代と呼ぶことは支配者としての正統性が認識されていたことになる。北条氏を後醍醐天皇に滅ぼされた逆賊とする皇国史観は存在しなかった。北条氏の正統性の意識があったからこそ、戦国時代に後北条氏が名前を利用した。




