鎌倉幕府
鎌倉幕府は初の本格的武家政権としてエポックメーキングな出来事である。御恩と奉公という概念が確立されたことが大きい。領地の安堵という御恩があるから、奉公する。大将が部下を守らない時は部下も大将を守る義務がない。ここには相互主義がある。一方的に負担や我慢を押し付ける関係ではない。
古代の奴隷的な奉仕とは異なる。奴隷的な奉仕は一方的に奉仕するだけである。武家政権が終わり、明治時代になると忠君愛国が強調され、国家への一方的な奉仕に逆戻りしたことは興味深い。忠君愛国が強調された戦前よりも個人主義があった。
御恩と奉公から一所懸命という言葉も生まれた。土地を守ることに命を懸けるから一所懸命である。現代日本語では一生懸命に変質している。一生懸命は奴隷的奉仕の「頑張ります」精神に先祖帰りしてしまっている。
封建制には二つの意味がある。第一に封建的主従関係という使われ方である。武士の主君と家臣の関係である。鎌倉幕府の御家人の御恩と奉公が典型である。この封建的主従関係は一般にイメージされるよりも契約的、個人主義的な面がある。主君が筋に反した場合、それなりに家臣側から逆撃された。それ故に一億総火の玉を強要する戦前の天皇制と比べると逆に進歩的と評価できる面がある。
第二に家父長制の意味で使われることがある。「うちの親父は封建的だ」というような使われ方である。封建制の本来の意味は第一の意味であり、第二の意味で使う場合は家父長制という言葉を使用した方が混乱を避けられる。一方で現代日本においては第二の意味が重要である。
マッカーサー三原則では封建制の廃止が謳われた。これは第二の意味である。これによって均分相続や男女平等が実現し、日本社会が大きく変わった。完全になくなってはおらず、日本社会の後進性の原因になっている。ブラック企業など新しい形態でも生じている。
鎌倉幕府は唯物史観の影響もあり、武家と公家の階級闘争という観点が強調されがちであった。その反動から二一世紀には鎌倉幕府の体制も従来の荘園公領制の職の体系の枠内で説明する傾向が強まった。荘園の荘官と同じレベルのものとして地頭職を説明する。最も極端な立場は院宮王臣家の中に鎌倉殿という新たな権威が加わっただけというものになる。
階級闘争の機械的な当てはめへの反発は正しい。鎌倉殿は御家人の代表者であって、武士階級の代表者ではない。また、鎌倉幕府は裁判では御家人と非御家人の土地争訟でも御家人に一方的に有利な判決を下したわけではない。荘園公領制を侵食する一方ではなく、荘園公領制の擁護者としてふるまった。
それでも鎌倉時代を荘園公領制の延長線上に見るならば守護・地頭という新たな制度が加わったことの過少評価になるだろう。承久の乱における北条政子の演説の通り、御家人の地位は大きく向上した。それは階級闘争で説明するよりも、大和の植民地であった東国の民族闘争・独立闘争と説明した方がしっくりくる。
鎌倉幕府は東国人からリーダーを出すのではなく、源頼朝という宮廷貴族を旗頭にし、源氏が絶えた後も朝廷から摂家将軍や皇族将軍を招いた。これは同格者である東国人自身からリーダーになろうとしても、他の東国人が納得しないということが名分である。足利氏のような源氏の血筋の有力御家人を将軍にしたら、北条氏の権力が弱くなるという点が本音だろう。