後醍醐天皇は倒幕したい
御醍醐は元弘の変で六波羅探題に捕らわれた。
「今回の事件は天魔の所為だから、寛大な沙汰になるべきと六波羅探題に伝えてくれ」
面会に来た関東申次・西園寺公宗に後醍醐は言い訳した(『花園天皇宸記』元弘元年十月八日条)。後醍醐天皇は強力なカリスマ帝王のイメージがあるが、責任逃れ体質は後白河院や後鳥羽院を継承している。
後白河院は源頼朝追討の宣旨を出したことを咎められると「天魔の所為」と言い訳した。後鳥羽院は承久の乱で敗北すると「武士達は勝手に落ち延びよ」と保身を優先した。この無責任さは保身第一の無能公務員的な体質として二一世紀の日本政府にも継承されている。
後醍醐は隠岐に流されてしまう。後鳥羽院と異なり、流されたままで終わらなかった。元弘三年/正慶二年(一三三三年)閏二月、配流先の隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入った。そこから各地に倒幕の綸旨を発した。護良親王も倒幕の令旨を九州の武士達に発していた。
九州の武士団にも倒幕への参加を求める綸旨が送られてきた。九州の武士の間で水面下のやり取りがなされた。肥後国の菊池武時は即時挙兵を主張した。九州にも鎌倉幕府に不満を持つ武士は少なくなかった。鎌倉幕府は博多に出先機関として鎮西探題を置いた。独立心ある領主層にとって目障りであった。
しかし、この時点での挙兵は消極意見が強かった。鎌倉幕府には不満があるが、それは在地領主として、上から規制する存在に対する不満である。それは後醍醐天皇の綸旨で動くことも同じである。結局、挙兵賛成は菊池武時のみで、三月一三日に単独挙兵した。
武時には挙兵という既成事実を作れば他の武将もついてくるという計算があったが、誰も動かなかった。林田隠岐守も当初幼少ということを名目に動かなかった。林田氏は伝統的に中央の政争から距離を置いている。積極的に参戦する理由はなかった。
菊池武時は博多の鎮西探題を攻撃したが、鎮西探題・北条英時の軍勢に敗北し、全滅してしまう。討ち取られた二百あまりの首は犬射馬場にさらされた。筑前国守護の少弐貞経も鎮西探題の軍勢として戦った。これは筑前国守護の立場上当たり前のことであるが、菊池武時は貞経にも挙兵を呼びかけであった。菊池氏の主観では貞経は裏切りであり、遺恨を遺すことになった。
単独挙兵も失策ではないが、それならば楠木正成の千早城のように長期防衛戦をすべきであった。無謀な戦いに自ら進んで全滅する傾向は、南朝の衰退要因になる。戦前の皇国史観は、そこをきちんと分析せずに美化したために玉砕を素晴らしいことのように喧伝することになる。
突撃型は一見すると勇ましいが、あっさり全滅しがちである。楠木正成も赤坂城や千早城の籠城戦は強かったが、湊川の戦いでは敗れた。正成は湊川の戦いの前に京を捨てて敵を誘い込む戦術を提案したが、却下された。第二次世界大戦の日本軍も万歳突撃は笑われたが、硫黄島の戦いはしぶとかった。
実は武時の挙兵は孤立した動きではなかった。翌三月一四日に肥前国彼杵郡で尊良親王を奉じて江串三郎入道が挙兵した。尊良は後醍醐天皇の第一皇子である。元弘の変で倒幕に関与したとして土佐国に流されたが、配流先を脱出し、彼杵郡の江串三郎入道のところで匿われていた。鎮西探題は討手を差し向けたが、江串三郎入道は粘り強く戦った。




