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南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
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正中の変は冤罪か

元亨二年(一三二二年)に林田荘の住人の林田能登法橋が東大寺領の播磨国大部荘で刈田狼藉を行った。この時代は悪党の跳梁が問題になっていた。悪党という言葉からは反グレ・ヤンキー集団のような印象を与えるが、全く異なる。荘園領主から見て荘園を侵略する勢力が悪党である。侵略する側は反グレ・ヤンキーのような不正な存在とは限らない。

ある荘園領主が別の荘園を侵略することもある。侵略される側から見れば悪党であるが、自分の荘園では荘園領主になっている。鎌倉時代を通して守護や地頭は荘園を侵略しているが、守護や地頭と結託した勢力が悪党となっていることもある。


悪党を止められない鎌倉幕府の無力さは後醍醐に倒幕の自信を与えた。倒幕のための御醍醐の軍事戦略については評価が分かれる。

第一に楠木正成ら悪党を積極活用する革新的なものとする。「後醍醐の悪党と称される疎外者への接近策は、これまでの歴代天皇には考えられない軌道を外れた行動であったことには違いない」(吉川佐賢『楠木正成 夢の花 上』叢文社、2005年、113頁)

承久の乱を起こした後鳥羽は北面の武士や西面の武士を組織化したが、武士のトップと主従関係を持つだけで、在地武士を包含するピラミッド型の戦力にならなかった。このために鎌倉幕府の大軍に圧倒されて敗北した。これに対して後醍醐は在地の悪党と結びついた。

第二に比叡山などの僧兵に期待するだけの保守的なものとする。この立場に立つと御醍醐は北面の武士や西面の武士を組織化した後鳥羽よりも古いとなる。


正中元年(一三二四年)に倒幕計画が六波羅探題に露見する。正中の変である。六波羅探題は後醍醐の側近の日野資朝を処分した。後醍醐は「すこぶる迷惑」と事件と無関係を装った(『花園天皇宸記』正中元年九月二〇日条)。

正中の変は実際に後醍醐天皇が関わっていたとする説と冤罪とする説がある。「後醍醐天皇の側が、その天皇親政の理想をあまり性急に追い求め、幕府機構の衰退を目にして直ちにその滅亡を夢みた結果ということになろう」(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族 南北朝と「園太暦」の世界』吉川弘文館、2015年、34頁以下)

冤罪説は持明院統に陥れられたとする。「後醍醐倒幕計画が“発覚”したのは、後醍醐の父である後宇多法皇が崩御してわずか三か月後である。トップを失った大覚寺統の混乱に乗じて持明院統が仕掛けたのが正中の変だったのではないだろうか」(呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年、136頁)


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